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俺の読書日記3「事件」(大岡昇平)

この「事件」(大岡昇平)は,今回は文庫版(創元推理文庫)を読んだが,もともとは1977年刊行という古い小説だ。さらに本当のもともとは新聞連載だったらしい。

あらすじ

小説の舞台は,昭和36年頃の神奈川県(厚木の近く)で,19歳の少年による殺人事件が話の中心だ。本書は,その少年(被告人),被害者,弁護士,検察,裁判所といったそれぞれの関係者の視点から,多くは裁判の場面が描かれており,殺人事件の話というよりは,裁判そのものの話といった方がいいかもしれない。その裁判を経て,最終的に判決が下される流れだが,そこまでの経緯が丁寧にじっくりと描かれている。

感想

非常に重厚な内容で,ページ数も500ページ以上あるとても読み応えのある小説だった。事件としては,19歳の少年が年上の女性をナイフで刺殺してしまったというもので,それ自体はとりわけ変わったものでも,ドラマチックなものでもない。ただ,そのような小説とするにはやや地味な事件を,それぞれの関係者の視点から裁判を通じて丁寧に描くことで,読者にはやたらとリアルな感じが伝わってくる。一応,裁判の過程で明らかになってくる真相のようなものはあるが,それも通常の裁判手続の中で明かされるという格好で,証人が重大な嘘をついていたり,それが嘘だったと泣きながら告白したり,決定的な証拠が新たに見つかったりといった,劇的なエンタメっぽい展開はない。ただ,それだけに本当の裁判はこんな風なのかといった感じで,リアルな雰囲気が伝わってくるのである。

著者も言っているが,実際の裁判は別にドラマチックなものではなく,どちらかというと決められた手続に従って,淡々と進められる味気ないものである。そして,本書はそれを強調するかのように,実際の裁判でおこなわれる手続を具体的に細かく説明,描写しており,その点では刑事裁判や法律の勉強にもなる。少し時代が古いので,今の刑事裁判手続とすべて同じという訳にはいかないが,基本的な流れは一緒で,法学部の学生などは興味をもって読めるのではないか。

刑事裁判を扱うドラマや小説でいうと,被害者や加害者(被告人)にスポットを当てた話が多いと思うが,本書はもちろんそのような人たちを扱うとともに,弁護士や検察,裁判所からの視点からも比較的多くが描かれており,その点が興味深い。その中では弁護士の話に一番ボリュームが割かれており,弁護士が活躍する話は比較的多いかもしれないが,検察や特に裁判所からの視点が描かれる例はそれ程多くはないのではないか。

テレビドラマには,「HERO」(検察官活躍)や最近では「イチケイのカラス」(裁判官活躍)というのを俺も好きで観ていたが,やはりドラマだけあって,中身はリアルからは遠いと思う。それに比べると,本書はより地味にリアルに検察や裁判所の視点が描かれている。個人的には,当時の検察が弁護士を見下していたという話は興味深かった。昔は検察官と裁判官は法廷で同じ高さに席があったらしいが,本書で描く時代には,検察官は弁護士と同じ高さの席(裁判官より低い位置)に座るようにやり方が変わっており,検察官は裁判官と同等であるとのそれまでプライドから,弁護士を見下していたらしい。

それにしても,著者の大岡昇平は経歴を見る限り法曹関係者ではないようだが,よくこのような法律や裁判手続に詳しい小説を書けたものだと思う。書き上げるのに非常に時間がかかったらしいが,勉強量も相当だったと思う。あとがきによると,著者が助言を受けた一人に,詩人・弁護士の中村稔氏という名前が出てくるが,これはおそらく知的財産の分野で有名な中村稔弁護士のことだろう。知的財産に親しんでいる俺は,この点でも本書に親近感が湧いた。

#読書の秋2022

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