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疲労感だけじゃなく、自分鈍麻

あゆかんの相方あゆちゃんが、こんな記事を書いていた。

いやいや、いつもありがとう。

自分のことのように気にかけ、心配してくれる人が
こんな身近にいるってことが、感謝しかない。
私は恵まれているな、と思う。

更に、毎週木曜日にやっているstandFM ラジオ
「りあるとーく」のピアチェーレメンバーからも、気絶とか疲労とか
マルチタスカ―とか抱えすぎとか忙しすぎとか
まあまあ並べてみると意外とひどい言葉だけど
「かんちゃんとか、かんちゃんとか、かんちゃんとか・・」
と名前を連呼しながら心配されている(と思いたい)。

そんなラジオから生まれた言葉で、
「ダリる」「ピカソる」「ムンクる」がある。

ご想像通り、全て有名な画家から来ているのだけど、
「ダリる」は、あの有名な『記憶の固執』のように
周りの風景が歪んで見える時があるのだけど、
ふっと眩暈がして、次の瞬間に風景がそう変わるので
変わった瞬間に、問答無用で休息をとる合図なのだ。

取らなければ、その後は気絶して意識がなくなって
身体の方から強制終了させられてしまう。
家ならともかく、外でそうはなりたくない。
だから、必死に休める所を探して、座って目を閉じる。

「ピカソる」も、同じように疲れ始めた時に、
風景が極彩色で埋め尽くされること。
対応としては、同上。これしかない。

「ムンクる」は、ピアチェーレのあみりちゃんが
使用しているので、よく分からないのだけど、
あの「叫び」の絵の背景の様に、真っ赤なグルグルな感じになるらしい。
これはこれで、かなり強烈。
彼女は私以上に一日の中で気絶しているらしい。
お互い、気絶しないと休息出来ない、
あゆちゃんの言うところの「疲労感鈍麻」なんだろうと思う。

つまり、自分が疲れていると感じにくいのだ。

ギランバレー症候群になってから、常に倦怠感が強いので、それが当たり前になっている。
倦怠感があるのが日常で、それが強くても
「あ、今日は調子悪い日かも」となってしまい、
自分が疲れているとか、寝不足だとか、眠いとかが分からない。

特に分からないのが眠気。
怠さと眠さは、私にとっては似ているものらしく、
眠いとは感じず、怠いになってしまう。

更に悪いことに、私は他人軸人間のようで、
自分がこうしたいというのが芽生えるのが遅かった。
常に周りの良いが自分にとっても良いで、
よく言えば和を大切にする、悪く言えば主張がない。

そういう生き方をしていると、人の評価が物差しになる。
当然無理をしがちになるし、ガッカリされたくないから頑張る。

自分の身体が「疲れた」と悲鳴を上げていても、
頼まれたことが優先、もう少し頑張れと言い聞かす。
そして私が親に対してそうだったように、身体も
「どうせ言っても自分のいう事は聞いてくれないんだ」となって
声すらあげなくなってしまう。

内心それが高じてギランバレー症候群になったと思っている。
自分の身体の声を聴き、それを治療やリハビリに繋げることで
ようやく自分のことはある程度自分で出来るようになったのだ。

聞いてあげなければ、傷ついたのが神経だからとリハビリももしかしたら動くようになるかも的なあやふやな進め方しか出来ない。

だから気のせいかもくらいの微かな反応を、周りの専門家に伝え、今の自分に1番良いと思われるリハビリに取り組んできた。

それなのに。

自分の身体と向き合う大切さを、今の私はまたもや
忘れてしまっていたらしい。

身体だけじゃない、こころとも。
考え方や受け止め方が変わってきているのに
気づいてあげられずに、強制的に意識を失うまで活動する。

これは疲労感鈍麻とかじゃないのかもしれない。
根本から自分にもっと関心を持つこと。
自分軸部分の自分を増やすこと。

私の気絶時間を減らすのはそれが一番の特効薬だ。
あゆちゃんから「もっと自分に関心を持って!」と言われたのは
私の治療の本質をついていた気がする。

さすが相方、恐るべしである。


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