恋で人は死んでしまうのか問題と古典文学のタイトルはどうしてこんなにそそられないのか問題。「若きウェルテルの悩み」(ゲーテ)

 ずっと本棚にあって気になりつつも読めなかった本をようやく読んだ。読んでみたら若きウェルテル君の悩みは、恋の悩みであった。それなのにもうずいぶんと長い間、ウェルテル君を放置していたわけで、なんだかとても申し訳なかった。
 本というものは開かれるまで忍耐強く黙っている。もしも、若きウェルテル君が、わたしの前に現れて、
「実は婚約者がいる人のことを好きになって……」
 などと告白し始めたら、今すぐ聞かせなさいと、わたしはすぐさま飛びついたのに。

 古典の名作ってタイトルがぽわっとしている。そして、タイトルからわたしが想像するイメージは、たいてい、ほとんど、ろくでもない。

「カラマーゾフの兄弟」→恐そう。強そう。
「ライ麦畑でつかまえて」→恋人たちが、うふふ、あはは、つかまえてごらんなさい♪って、いちゃいちゃしてそう。
「三四郎」→拙者風来坊でござるって編み笠かぶってそう。
「百年の孤独」→すんごい孤独そう。暗そう。
「風と共に去りぬ」→荒野を走り回る狼少女的な?
「細雪」→寒そう。濡れそう。さみしそう。

…そろそろやめましょうか。全部、読んだら全然違って面白かったです。変な先入観で読まないのはもったないとわかっているのに、やっぱり古典はなかなかハードルが高い。いま手をつけられてないのは「アンナ・カレーニナ」。なんか呪文みたいで。アブラカタブラみたいな…。

 まあいいのです。本って読む時期によって印象が変わるから、それも合わせて楽しみたい。人の出会いと一緒ですね。一緒に面白いことができるかどうかとか、恋が成就するかどうかはタイミングが大いに関係ある。相思相愛でもタイミングが重ならなければ成就しない。

 ウェルテル君が恋する相手ロッテさんは知り合ったときにすでに婚約者がいて、そのまま結婚してしまうのでした。ウェルテルは、ロッテの幸せな結婚生活を見守りつつ、ロッテの夫アルベルトと3人で友情のような関係を続けるのだけども、ロッテに恋い焦がれることから逃れられずに苦悩する。他になにも手につかないほどに苦しみ続けるのです。

 若いね。でも愚かではない。どこかうらやましい気もする。生命の危機に陥るほど、倫理を犯してしまうほど、誰かに恋い焦がれる経験がある人と、ない人と、どちらが幸せだろうか。

 親友にあてた書簡形式の小説なので、太宰治の「パンドラの匣」を思い出した。きっと太宰はこれをふまえていると思う。古典中の古典だから。

 解説を読むと、この作品が出るまでは小説というものは、人を楽しませることと有益であること(教訓があること)を目的とするものだったのだそうだ。だから、ゲーテがこれを発表した時、世間は賛否両論、ざわざわしたわけだ。

 たぶんこのときから、小説は芸術の仲間入りをしたのではないかと勝手に考える。小説というものが、苦悩や悲劇も表現できる形に成長したのだと思う。

 これを書いたゲーテ自身も身を焦がすような恋をしたのだろう。でも、作中の主人公ウェルテルは恋に悩んで死んでしまうが、作者のゲーテは生き残った。

 少なくない数の文学者が自殺をしている。中学生の時、図書館で、片っ端から文学者の経歴を眺め、これも自殺!この人も自殺!こっちも自殺!と驚愕した覚えがある。そのときから小説家になりたかったわたしは、自分の最期は自殺だろうなあと覚悟を決めた。けれど、最近思うのは、彼らは小説を書くから自殺をしたのではないような気がする。自殺をせざるを得ないような精神の危機に襲われて、そこから助かるために小説を書いて、書くことで少しずつ助かってきて、それを何度も何度も繰り返してきて、最後に、ついに力尽きて負けてしまったのじゃないだろうか。

作品創造によって自己を危機から脱出させるのは、ゲーテの天才的な常套手段である。
解説:高橋義孝(訳者)より

 いやはや、恋は熱病。感染源に触れてる限り治癒することなく発病し続け、本体を弱らせ続ける。ほんとね。なんでしょうねえ。あれは。一度も恋したことがない若者が、免疫もなく、この状態になったら本当に生命の危機ですよ。それが青春。みんなワクチン代わりに読んでおくといいと思う。

若きウェルテルの悩み/ゲーテ(新潮文庫)

とはいえ、ゲーテだし。外国の話だし。高尚で難しいよ…という人は、「月野さんのギター」を読んでおけばいいと思う。

月野さんのギター/寒竹泉美 (講談社)

ゲーテと並べてごめんなさい。

(2016.6.26の日記より転載・一部改稿)


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