第13話 クリスマスデートと普通|2016年12月

 リフレクソロジーの仕事を始めてから、果穂は、朝、目を覚ますのが楽しみになった。目覚めるのは、いつも六時だ。白湯を飲み、ストレッチをしてから、自分の足のセルフケアを行う。朝の空っぽな体は足裏の刺激によく反応する。マッサージをする自分の感覚が鈍らないために始めたことだけれども、体が指に応える感覚がわかるようになると、お客さんのこともよくわかるようになった。

 全身がぽかぽかしてきたら、部屋着に着替えて朝ごはんを取り、その日の気分でアロマを選んで焚いて、植物に水をやる。そんな一連の流れがいつの間にか習慣になっていて、毎日同じことを繰り返している。でも、それが果穂には心地よかった。毎日繰り返しているからこそ、自分の体や気分の変化に気づけるようになったからだ。

 会社勤めのときのように、睡眠時間も食事も不規則な生活をしていたら、自分の体がどう変化しようと、他の変化にかき消されてわからないだろう。

 繰り返すという行為には、どこか祈りに似た力がある、と果穂は思っていた。繰り返すたびに少しずつ何かが補強され、積み重なっていく。そんな日々が、果穂にはいとおしかった。

 だから、室田が突然、報道カメラマンをやめて、毎日家に帰れる仕事に就くと言いだしたとき、果穂にはその理由がすぐに理解できた。それもいいかもね、とだけ果穂は言った。

 会社員時代の果穂だったら、きっと信じられないというように目を丸くして、なぜそんなことをするのかと問い詰めただろう。

「というわけで、今年は、年末年始は日本で過ごす。しかも、ちゃんと休み。こんなのいつぶりだろう」

 室田が指を折って数えだした。果穂も頭の中で数えてみる。昔、つきあっていたときは、年末年始は予備校の仕事で忙しそうだった。土曜も日曜も研究室にこもっていた。出会う前の室田がどういう暮らしをしていたのか知らないが、少なくともクリスマスや正月というイベントに無縁な生活をしていたに違いなかった。

「だから、クリスマスイブにデートしよう」

「え?」

 果穂は耳を疑って、室田をまじまじと見た。

「何それ。そんなセリフ、ゴウ君、世界一、似合わない」

「しょうがないさ。やったことないんだから。似合わなくても当然だ。でも、やったことないから、一度やってみたいんだ」

「やったことないからって……」

 果穂は絶句した。世界一、色気のないデートのお誘いである。

「もしかして仕事入ってる? あ、でも夜なら空いてるよな? クリスマスデートといえば、あれか。居酒屋じゃなくて、レストランだよな。どこにしようかな」

 室田は果穂の返事も聞かずにどんどん話を進めていく。

「ちょっと待ってよ。なんで、ゴウ君とわたしがデートするのよ」

「なんでって。俺、デートするなら果穂がいいから」

 こんなにも何の屈託もなく返されると、なんだか断ったり抗ったりすると負けのような気もしてしまう。室田はずいぶん嬉しそうだった。果穂は、ため息をついた。そういえば、果穂もイブのデートはしたことがなかった。長く恋人として付き合った相手は、クリスマスイブは家族のためにケーキを買って帰る日だったからだ。

「わかったよ。いいよ。わたしもやったことないから。一度やってみようと思う」

 果穂はあきらめて、そう言った。

 今年のクリスマスイブは土曜日だった。少しおしゃれをして果穂は待ち合わせ場所に向かった。室田もフォーマルなスーツを着ていた。室田が予約をしたというレストランに行って、お酒を飲んでフルコースのディナーを食べた。正真正銘、まごうことなき、クリスマスイブデートだった。

 夜景の見えるバーのソファーでカクテルを飲みながら、果穂は楽しいと思っていることをそっと認めた。ちゃんとスーツを着ている室田は、すらりとした体型のおかげでなかなかかっこよかったし、何より、クリスマスイブにデートをするという世間の定番に乗っかっていることが、意外にも心地よかった。まさか自分がこんなことを思うなんて、と果穂は心底驚いていた。ずっと、「みんながやるからやる」という人たちを軽蔑するような気持ちで見ていた。みんながやっていることと同じことをして落ち着く自分なんて、想像もしたことがなかったのに。

「イブに恋人同士とデートなんて、バカバカしいと思っていたけど、やってみたら違った」

 室田がつぶやいたので、果穂はうなずいた。室田も同じことを思っていたのだ。

「どう違った?」

「バカバカしくなかった。普通だった」

「なにそれ」

 果穂はため息をついた。感動の言葉のひとつでも聞けるかと思った自分が甘かった。やっぱり室田は室田だった。でも室田は果穂を見て満足そうに微笑むと、

「普通っていいな」

 と、心の底から幸せそうにつぶやいた。果穂は動揺した。その言葉が果穂の今の気持ちを言い当てていたからだ。普通の人になりたくないと、ずっと思いながら生きてきたのに。

「そろそろ結婚しないか」

「はあ?」

 果穂の大きな声がバーに響き渡った。果穂はそれを取り繕うのも忘れて、口を開けたまま、室田の顔を見ていた。

「そんなに驚かなくても……」

「驚くよ? 結婚って何? わたしたち付き合ってもないのに。というか、そろそろって何? まるでずっと付き合っていたみたいな言い方じゃない」

 果穂はまくしたてたが、室田はにこにこしている。

「そうかな? そろそろって感じしない? お互いいろいろあって、こうして再会したわけだし」

「何それ、意味がわからないよ」 


「とりあえず、結婚してみたら? 何事も経験。うまくいかなくて苦労したら、その苦労の分、お客さんを癒せるようになるんじゃないの? 仕事にもプラスになる」

「なんで、うまくいかない前提なのよ。最低のプロポーズ!」

 果穂は本気で怒っているのに、室田はさらににこにこしている。

「果穂のそういう顔いいなあ。もっと見たい」

「そういう顔って何?」

「怒ったり動揺したりしてる顔。なんかさ、久しぶりに会ったら、自分は人生も恋愛も卒業しましたみたいな顔してたから。そういうの、三十年早いよ」

 果穂は黙って室田をにらんだ。興奮して言葉が出なくなった。そんなふうに言われたら、平然とした顔を見せたいのに、ふつふつと胸の中から何かが溢れて動揺が止まらない。そのことが悔しくて、でも言葉にできなくて、なぜか代わりに涙があふれた。

「泣いてる顔もいいね」

「最低」

 それだけ言うと、果穂の涙は止まらなくなった。同じようなことが前にもあった。二十年前。室田と付き合う前のことだ。十代の果穂は、なんだか生きている実感がなかった。どこかスクリーン越しに世界を眺めていた。そんな果穂を、引きずり出し、ひりひりとする現実へ連れ出したのは室田だった。

「結婚してよ。俺、果穂と結婚したら、絶対に幸せになれる。保証する」

「……なにそれ。そのプロポーズも最低」

 嗚咽しながら果穂は言った。

「……普通の……やってよ」

 室田は肩をすくめると、カバンを探って手のひらにおさまる小さな箱を取りだした。そして、果穂の前でパカリとふたを開けた。

「好きです。結婚してください」

 きらきらと光るダイヤの指輪を見て、果穂は、ぷっと噴き出した。

「やっぱり似合わない」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、お腹を抱えて笑う果穂を、室田はいつまでも満足そうに眺めていた。

(つづく)

初出:日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」2017年1月号

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