第16話 オープンカーと秋の海|2017年10月

                       

 オープンカーを運転するのは幸彦にとって初めての経験だった。顔の前には一応窓があるが、風がごうごうと車内を荒らしていくから運転に集中できない。しかも、隣ではオープンカーをリクエストした甲本さんが鳥肌を立てながら大きな声で騒いでいる。
「寒いよー、幸くん。日なた走ってよ」
「無理」
 却下する。日があたっているのは反対側の車線だ。
 十月にしては気温が高いとはいえ、風は冷たい。お店の人も何度も、本当にオープンカーでいいんですか? 今は寒いですよと確認してくれたのに、甲本さんは譲らなかった。
「寒いなら天井閉めれば?」
「えー、せっかくのオープンカーなのに、もったいない」
 せっかくある天井をわざわざ外して走る方がもったいないんじゃないか、と、幸彦は腹の中で反論するが、こういうときの甲本さんは何を言っても聞かないので口には出さない。
 ちらりと隣を見ると、甲本さんは、口をぱくぱくさせて溺れそうな顔をしている。長い髪が右へ左へなびいて顔にまとわりつくせいだ。幸彦は、ちょっと面白くなって、アクセルを踏みこんだ。風がどんどん強くなってきて、甲本さんは、わあと悲鳴をあげた。
「なんか、オープンカー、イメージと違う」
 ようやく甲本さんは弱音を吐いた。
「分かればよろしい」
 幸彦は、天井を閉めるボタンに手を伸ばす。ウィィンと音をたてて天井が閉まっていく。
「閉めちゃ駄目」
 甲本さんがボタンを押して、天井がまたウィィンと開いていく。
「あのね」
「ほら、空きれいだし」
 甲本さんは寒そうに上着のえりを首元まで寄せると形の良いあごを上に向けた。免許を取ったばかりの幸彦は、運転中に空を見上げる余裕はなかったが、正面から見えるビルと道路に挟まれた狭苦しい小さな空は見えた。それは前からそこにあったはずなのに、甲本さんの言葉で初めて現れたような感じがした。
 信号待ちで車が停止すると、風も止んだ。髪の毛との戦いが中断されてほっとしている甲本さんのまぶたは、よく見ると腫れぼったい。突然呼び出されたから何かあったのだろうとは思っていたけれど、一体何があったのだろう。甲本さんの目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれてきた。幸彦は動揺した。見て見ぬ振りをするべきか、声をかけるべきかわからない。甲本さんは体を震わせながら、大きな声で泣きはじめる。オープンカーで丸見えのせいで、通行人の視線が突き刺さる。俺が泣かしたみたいじゃないか、と幸彦はため息をついた。
「大丈夫」
 と、甲本さんがしゃくりあげながら言った。
「ちょっと目から水だしてるだけだから。出し終わったらおさまるから」
 信号が青になる。幸彦はアクセルを踏みこんで、車の集団から離れる。街を出て海へ向かう。以前、叔母の果穂が運転して、助手席から見ていた道だった。そういえば、甲本さんも果穂と海に行ったんだっけ。甲本さんはなぜ泣いているのだろう。どうして自分が呼び出されたのだろう。考えようとしても、考える端から思考が風に散らされていってちっともまとまらない。
 風がまっすぐに顔にあたる。日射しを遮るものがなくなり、車は光に包まれる。体があたたまる。風も心地よくなる。甲本さんの泣き声がだんだんまばらになり、静かになった。見ると、風に目を細めて、心から気持ちよさそうに笑っていた。
「笑ってる」
「うん、気持ちいい」
 と、甲本さんは言って目をつむった。
「わたし、幸くんと一緒にいるときの自分が一番好き」
 目をつむったまま、甲本さんが言った。
「それって、幸くんのことを一番好きってことかな」
 む、と、うなって幸彦は考えこんだ。論理に飛躍がある気もするし、つながってる気もしなくもない。いやでも、結局自分のことが好きとしか言ってないじゃないか……と考えていると、いつの間にか蛇行運転をしていたらしい。すれ違う車にクラクションを鳴らされた。
「俺、運転で忙しいから、自分で考えて」
「はーい」
 そのまま甲本さんは静かになった。眠ってしまったのだろうか。そっとオープンカーの天井を閉めてみる。文句は出ない。
 幸彦は安心しきった甲本さんの寝顔を見て、本日何度目か分からないため息をついた。
 幸彦が甲本さんと出会ってからもう五年になる。予備校で会って、たまたま同じ大学に入学したせいで、縁が続いている。大学でも一緒にいるときは多くて、付き合っているのかと聞かれることもあるけれど、艶めいた関係になったことはない。
 どんな関係かと聞かれたときは、「ともだち」と答えるようにしている。でも、そんなふうに答えると幸彦はいつも落ち着かなくなる。ともだちという言葉には納まりきらない異物のような何かがあって、それが何なのかわからない。
 幸彦は甲本さんと一緒にいるときの自分があまり好きではない。収まりが悪くどうしていいのかわからなくて、そんなふうにうろたえる自分が格好悪い。甲本さんの理論にあてはめたら、幸彦は甲本さんのことが嫌いだということになってしまう。でも、それは、違う気がする。
 視界がひらけて、立ち並ぶ松の幹の間からキラキラ光る海がチラリと見えた。天井を開けてゆっくりと走る。潮の匂いがする。波の音がかすかに聞こえる。
 車を止めると、甲本さんは、ぱっちりと目を覚まし、
「海だー」
 と、歓声をあげた。車を飛び出すと、きらきら光る海に向かって全力で走っていく。オレンジ色を帯びた午後の光の中に、甲本さんのシルエットが飲みこまれる。
 幸彦もテンションが上がって駆け出した。海が見たいと甲本さんが言ったときは、幸彦は乗り気ではなかったが、こうして来てみると、目の前に現れる光景の美しさに圧倒されるばかりだった。
 気がつくと甲本さんはブーツと靴下を脱いでいた。ざぶざぶと波に入っていく。
「きゃー、冷たーい。死ぬ。寒い」
 そりゃそうだろ、と幸彦が冷静に眺めていたら、甲本さんは伸びあがって手招きをしている。入れと言うのだろうか。
 よくわからないけど、甲本さんだけを海の中に入れておくわけにはいかないという使命感のようなものにとりつかれ、スニーカーと靴下を脱ぐ。ジーンズをまくりあげ、腹を決めて波に足をつける。喉元まで出てきた悲鳴をかろうじて飲みこむ。
 甲本さんの風に髪がなびき、幸彦の頬をなでた。甲本さんは屈託なく笑っていた。やわらかくてつやつやした唇に幸彦は目を奪われる。
 恐らく、ともだちのようなものでなくなって、世間一般で定義される分かりやすい関係になってしまったら、ふたりでいるときのこの輝きは永遠に失われてしまうのだろう、と幸彦は思った。でも失われた先に何か新しいものがあるのだとしたら、それは、少し見てみたい気もする。
 とりあえず行動して結果見てから考える——あの人ならそんなふうに言うだろうなあ、と、幸彦は室田の顔を思い浮かべた。室田が果穂の夫になったこともいまだにピンと来ていないのに、半年後には仕事の上司になっているなんて。
 未来はわからない。わからないということは決まってないということだ。自由というのは、わからなさを楽しむ覚悟を決めた人だけの特権なのかもしれない。
「甲本さん」
 名前を口にすると、甲本さんは真面目な顔で幸彦を見た。ゆっくりと視線が交わる。たまには室田式で行こうと幸彦は覚悟を決めた。

(つづく)

初出:日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」2018年1月号

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寒竹泉美

【連載小説】ちょうどよいふたり

日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」で連載中の連作短編小説です。1年に3話更新されます。作中の人物も4カ月ごとに成長していきます。
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