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神様に会いにいく vol.8 神さま=仏さま?(新熊野神社)

イザナミノミコトに会いにいこうと思い、調べてわかったもうひとつの神社が「新熊野神社」。新と書いて「いま」と読みます。熊野神社のニューバージョン? と一瞬思ったのですが、そうではなく、熊野に34回も参詣するほど熱心な熊野信仰者である後白河法皇が自分のお寺を守る鎮守社として創建し、紀州の熊野に対して「新」熊野神社と名付けたそうです。

はい、さらっといろいろややこしいことを書きましたが、おいおい少しずつ説明します。気にせずついてきてください。

新熊野神社は、三十三間堂の南東にあります。車がびゅんびゅん通る東大路通り沿いに建っています。

じゃじゃん。

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鳥居と自分をちょうどよく自撮りでおさめ、かつ、、ちょうどよい顔で撮るのは結構難しい。なんか企んでる感じの顔だな…。

ともあれ、イザナミノミコトが祀られている本殿でへ。

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ん…?

説明を読むと、ここに祀られているのは、

熊野牟須美大神=イザナミノミコト=千手観音

だそうです。

…?

むむっ、わたしはどなたに会いに来たのでしょうか。

…というわけで、わたし、新熊野神社さんのホームページやあれこれやで、一生懸命勉強しましたので、ちょっと聞いてね。

熊野には、熊野川を御神体とする信仰(本宮)、那智の滝を御神体とする信仰(那智)、神倉山の「ごとびき岩」を神の依代 とする信仰(速玉)があり、それぞれの神様の名前が、家都御子神(けつみこのかみ)、熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)、熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)とおっしゃいます。

うんうん。那智の滝を見にいったことあるけれど、あれは思わず神様として祀りたくなるような滝でした。わかる、わかる。熊野信仰は自然信仰。

そこに古事記をもとにした祖先神信仰(古事記の神々は天皇の祖先なので)が入って来て、スサノオ、イザナミ、イザナギがそれぞれの神に割り当てられたのだそうです。

(…わ、割り当てた?)

それとはまた別に仏教が入って来て、仏も熊野の神々に割り当てられたそうです。

(…え、仏も?)

つまりこういうことだそうで。

熊野家津御子大神=スサノヲノミコト=阿弥陀如来

熊野牟須美大神=イザナミノミコト=千手観音

速玉之男大神=イザナギノミコト=薬師如来

というわけで、立て札にも、名前が3つずつ書かれています。

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他の神様も、仏様の名前と一緒に書かれています。

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アマテラス様は、十一面観音様なんだそうで。

この連載を通して神様に思い入れをしてきたせいで、スサノオ=阿弥陀如来だよと言われても、なかなか納得しがたい。イメージもしにくい。いや、イメージしようとするからダメなのかもしれない。もっとおおらかな、まるっとした、大きな気持ちで…宇宙はひとつ…。

(…無理だ)

本殿の裏手を通って「熊野詣」をすることができます。裏山にのぼって探検した子どものころを思い出す。

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森の中は鳥がさえずり、木々が心地よくざわめいている。すぐ側に車が走っている道路があるとは思えない。この神社があるから、この森は守られてきたのだなと思う。

そして、新熊野神社には後白河法皇が植えた樹齢九百年のご神木(クスノキ)があります。すぐ近くまで寄って拝見することができます。

この迫力。この溢れる生命感。

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この木を見上げた瞬間、知識を詰めこんでぐるぐる混乱していた頭の中が、一気に真っ白になって、きれいになった。歴史のことや、昔の人の気持ちは、本当にはわからないかもしれない。でもこの木は900年間、生き続けている。その事実が胸に迫って何だか泣きそうになった。

木の生命力もすごいけれど、こんな都会にある木が900年生き続けるためには、それを守ろうとする人たちの思いがなければ無理だろう。誰かが切ると決めたら、木は抵抗できない。神社だって神様だって仏様だって、みんなが「バカバカしい、全部やめた」と思ってしまったら、なくなってしまう。でも、権力者に時には助けられ、時には弾圧されながら、形を変えて、日本の人々にとって必要なものとしてずっと生き続けている。そしてそれは、過去の遺物ではなく、この木のように青々と新芽を出して、現代の空気を呼吸しているんだなと思った。

もっと柔軟になりたいな。いろんな先入観を捨てて自由になりたい。そうしたら、神々の住む世界を肌で感じられるようになれるかな。

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)公式HP
京都市東山区今熊野椥ノ森町42
TEL:075-561-4892
メール:info@imakumanojinja.or.jp
京都駅から市バス208系統で10分弱。今熊野バス停下車 徒歩3分

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