第34話 未来とぜんざい |2024年1月

 本当に心の底から「わかる」ことなんて、しょっちゅうあるわけではない。心の底からわかるというのは、人から聞いたり本を読んだりして知っていることとは全然違う。外からインプットされるのではなくて、自分の内から突然湧き出してくる。それが既にどこかで何度も聞いた知識だったとしても、内側から湧き出たとたんに、全く新しい、この世に初めて生まれ出たものとなる。それは悟りを開くという感覚に近いのかもしれない。そんなふうに何かをわかったとき、人は興奮して、同時に深い喜びを感じるのだろう。

……などと思いながら、幸彦は目の前で饒舌に語る結季を眺めていた。ここ最近では見たことがないくらい、結季は嬉しそうだった。

 というのも、ここ最近の結季は過労死するのではないかと本気で心配になるレベルで働いていたからだ。感染症の流行が落ち着き、旅行をする人が急に増えた。それに加えて秋はもともと旅行シーズンだ。旅行をオーダーメイドで計画しサポートする結季の仕事は、ものすごい勢いで増えていった。毎日休みなく働いていても追いつかない。少しは休んだら……と声をかけてもますます結季を追い詰めるだけだから、幸彦は見守ることしかできなかった。

 だけど、ある日突然、今すぐ会いたいと言われた。何だか不穏だった。幸彦は仕事が終わると、結季の指定したファミレスに駆けつけた。泣いているんじゃないかと思ったら結季はパソコンを睨みながら、元気に仕事をしていた。そして、幸彦の顔を見ると、目を輝かせて、前述の悟りを得た嬉しさについて語り始めたのだ。

「分かったことが嬉しいのは充分伝わった。で、何がわかったの?」

 と幸彦は聞いた。

「未来は決められるってこと」

 迷いのない結季の口調に、幸彦は警戒した。あまりに忙しすぎて、怪しい団体に加入してしまったのではないだろうか。平常心を装いながら、幸彦は尋ねる。

「一体どういうこと?」

「わたし、気づいたんだ。今こんなに忙しくてしんどいのは、過去のわたしが仕事受けすぎたせいだって」

 幸彦は今度は唖然とした。

(気づいたも何も、俺、ずっとそう言ってるじゃないか……)

 どうせ俺の話なんて真面目に聞いていないんだ……と拗ねそうになったが、幸彦にも同じような経験はある。こういうことは誰かに言われてもダメなのだ。自分で気づき直さないと本当にはわからない。

「でね、過去のわたしが今を作っているんだったら、今のわたしは未来を作ることができるって気づいたの。それがわかったら、すごい真理にたどり着いた気がして、すぐ幸くんに報告したくなった」

 何だか当たり前のことを言っている気がするが、こんなにも嬉しそうに言われると幸彦にもその興奮が伝染してくる。

「具体例、挙げるね。次の年末年始、幸くんと過ごすって今決めた。仕事を入れない。これで、二か月後の未来が作られたわけ。すごくない?」

 確かにすごいことかもしれない、と勢いに押されて幸彦は思った。何も考えなくても日々はどんどん押し寄せてくる。でも、いく日かは、自分であらかじめ決めておくことができる。未来の、ある一日の自分の在り方を、今、決めることができる。

「仕事より俺を選んでくれて、嬉しい」

 幸彦は素直な感想を口にした。結季が誇らしげに笑う。仕事に翻弄されながらも、人生の主導権を取り戻したのだ。

「まずは過去のわたしの決めた今日を、何とか乗り越えなくちゃ」

「じゃあ俺は年末年始に何するか、考えとくね」

 言いながら、幸彦はかつては未来だった今日を噛み締める。あと何回「今日」を過ごせるのだろうと思ったら、過去も未来も全部いとおしかった。


 幸彦の年末年始プランは第五案まであった。プランを組み立てるにあたって、幸彦が心がけたのは、なるべくでたらめなプランにすることだった。おそらく結季は最終的には自分で考えると言うだろう。考えることが好きなのだ。だから幸彦の役割は、そのためのアシストだ。こんなプランじゃダメだと思わせ、結季の情熱を焚きつける燃料だった。

 が、もっともでたらめだと思っていた第五案が採用されてしまった。

「本当にいいの? 新婚旅行にこんなにいろんなおまけがついて」

 助手席で果穂が言った。

「いや、むしろ贅沢だろ。カメラマンとセラピスト付き新婚旅行なんて」

 後ろの席の室田が言った。

「贅沢というか面白いだけじゃん」

 と、果穂は応じた。

 面白いだけの新婚旅行を考えてしまった幸彦の肩身はちょっと狭い。隣で寝ている繋の世話をするふりをしてやり過ごす。繋はもう四歳で、乳児体型ではなくなって、しっかりとした手足が生えている。

 運転しているのは、最近仕事のために免許を取った結季だ。

「面白いことしたかったから、いいの。幸くん、ときどきクリーンヒット飛ばすよね」

 五人の乗るワゴン車の後部座席には、レンタルしたウェディングドレスとタキシードが優雅に横たわっている。

 目指すのは温泉と温水プールが備わったレジャーホテルだ。そこで遊びながら、ウェディングフォトの撮影もする。カウントダウンもして、正月っぽい料理も食べる。和洋折衷というか、いろんな行事を盛り込みすぎのやけくそプランが採用されてしまうなんて、嘘みたいだった。でもそんな嘘みたいな未来の中に今、幸彦はいる。

 目を覚ました繋がトイレに行きたがったので、近くのサービスエリアに立ち寄ることにした。さすがに年末だから車も人も多い。なかなか駐車場に入っても車を停められない。

 室田が繋と一緒に先に出て、トイレに向かった。後を追いかけて果穂も出た。

「わたしは降りなくて大丈夫だから、幸くん、果穂さん見つけてきて。空くの待ってるから」

「室田さんがいるから大丈夫だよ」

「でも、ふたりとも、スマホ、忘れてる」

 確かに横を見ると室田のスマホが置きっぱなしだった。助手席には果穂のスマホ。車の位置は決まってないし、室田は果穂も降りたことを知らないし、連絡もできない。この人混みの中、会えなかったらはぐれてしまうかもしれない。

「わかった」

 自分のスマホをしっかりと持って、幸彦は外に出た。とたんに、痛みと錯覚するような鋭い寒さに襲われる。車に気をつけながら、トイレに向かう。

 女子トイレは長い行列ができていたが、男子トイレは空いていた。しかし、室田も繋も、もういなかった。お土産屋を覗いてみる。人が多くて、よくわからない。どうするべきか、わからなくて幸彦はおろおろする。大声で名前を呼ぶほどの緊急事態でもない。スマホで連絡できないことが、こんなにも不便で落ち着かないなんて知らなかった。

 メールが来た。結季からだ。

『室田さんと繋くんは車に帰ってきた。果穂さん、いた?』

 かじかんだ指でメールを打ち返しながら、奥の食堂に向かって歩いていく。

『まだ見つけてない。でも、まだ見てないところがあるから、ちょっと待って』

 まだ朝の十時半だ。お昼の時間には早い。でも果穂なら、どんなメニューがあるのか覗きに行くくらいはしそうだ。

 食堂に近づくと行列が見えた。こんな時間から何を食べるのだろうと思ったら、ぜんざいありますという旗が見えた。

「ゆきちゃん、ぜんざい、食べたいの?」

 のんきな声が聞こえて、幸彦は振り返った。果穂だった。

「ああ、見つけた」

 幸彦は安堵して脱力する。その様子を見て、今度は果穂が慌てる。

「えっ? 急いでた? ごめん。なんかお土産とかのんきに眺めてて。メール入れた? 気づかなくて。今何時だろ? わ、スマホがない! 落としたかも? どうしよ」

「スマホは車の中。スマホも持たずに出ていくから、迷子になるんじゃないかって心配して見にきたの」

 言いながら、見つかったと結季にメールする。結季からは車を停めた場所の説明が返ってくる。

「あの場所」

 食堂を覗き込んで、果穂が言った。

「あの席で一緒にぜんざい食べたの、何年前だっけ?」

「えっ? ここなの?」

 幸彦は驚いた。

 突然果穂にドライブに連れ出された高校生の幸彦には、土地勘なんてない。このサービスエリアがあのときと同じ場所だと言われても、ピンと来なかった。人で賑わっている食堂も、記憶の中とまるで違う。あのときいまいちだと思ったぜんざいも、こんなにたくさんの人が食べていたら、何だかおいしそうだ。

「あれは高三のときだから、十一年前かな」

「十一年前か……」

果穂がつぶやいた。十一年前、果穂の隣には室田はいなかったし、繋も存在していなかった。幸彦は結季と出会っていなかった。

「あの頃には全然予想しなかった未来にいるね」

 そうつぶやいた果穂は、何だかとても楽しそうだった。

(つづく)

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