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御粥学概説

 粥川梅男教授は堂々たる足取りで講義室へと入っていった。歩行という単純な行為に関わらずその威風堂々さたるや。歩みを止めることはなんぴとにもかなわず、仮に立ちふさがるものがあったとしても重機のごとく双脚で踏み倒さんといった迫力があった。腕の動きはゆっくりとしたものだったがそれは時計の振り子がその動きによって時を刻むのと同じように自身の動きを正確に律するための緩慢さであった。粥川梅男は御粥学の権威としての誇りを持ち、己が教授という職たるにふさわしくあろうという態度と行動を常に心掛け、また、自身に対する強い自信を持ち合わせていた。それにより彼の姿を見た生徒たちは一様に教授へ対する尊敬とそれに伴うある種の畏怖の念を抱いていた。
 粥川は教壇へとたどり着き室内の生徒たちを見回した。生徒たちの目は彼の顔―梅男の名を冠するにふさわしい教授の真っ赤な顔―へと注がれていた。それを確認すると粥川は軽く咳払いをしたのちに講義室中に聞えるよう声を響かせた。
「生徒諸君、これから御粥学概説を始める。知っての通りこの講義は諸君ら一年生がこれから学ぶことを概括的に教え大筋を示すことを目的としている」
 粥川はもう一度教室内を見回し生徒たちの集中力の有無を確認した。粥川の目に映る生徒たちの顔は自身の顔の色との比較のために余計に白く見えた。まるで鬼とその前に並べられた生贄のようだなと考えたところで粥川は次の言葉を紡いだ。
「諸君らが我が大学の入試試験に合格したゆえに現在この部屋に座っているのは間違いないだろう。つまり、諸君らの優秀さは試験作成に携わった私も認めるところである。そんな諸君らにとって本講義で取り扱う内容は既知のものが多く、退屈に思うかもしれない。だからと言って講義をおろそかにするということは当然ながら許されない。この講義が必修であることの意味を考え、自主的に学ぶという意識を持ち我が大学にふさわしい学徒としてのふるまいを期待する」
 そこまで言い終わると粥川は振り返りチョークを手に取った。そして生徒たちから見て右のほうへと移動する。
「などと厳しいことを言ってしまったが集中して授業を受けてほしいという話で、そう肩ひじ張らずに聞いてもらえればと思う。今回は一回目であるのでお粥の歴史などについて簡単に話そうと思う。今日の内容は今後の講義で改めて詳しく話すので特にノートは取らなくても構わない」
 前の方に座っている生徒は教授の言を受けてもなおノートを開き、一言一句違わずに書き記そうといった面持ちでいた。さてそのやる気がいつまで続くだろうか。何年も複数の講義を持っていると学生の習性というものは自然と熟知されるもので、段々と前の方に座る生徒も減り、集中して受講する生徒自体も減ることは重々承知していた。
「さて、そもそもお粥とは何か、という問題が必ず付きまとうのだが、ひとまずお粥とは穀類を水で煮て柔らかくしたものとしては理解しておいてもらえれば構わない」
 粥川は黒板にお粥の文字を書き、その下に説明の文章を書き加えた。
「まずお粥の歴史を話すとき、始めに出てくるのは神話だ。聞いたことがあるものも多いだろうが我慢してくれ。あるところに老婆と孫息子が住んでいた。老婆は毎日孫息子に美味しいお粥を食べさせていた。孫息子はある日老婆が美味しいお粥を一体どのように作っているのか気になり、作っている所をこっそり覗き見た。すると老婆は身体の垢をそげ落としそれをお粥にしていた。次の食事の時孫息子は老婆にお粥を作っている所を見たのでもう食べたくない、といった。老婆は三日後に帰ってきて家の下を見るように、と孫息子に言い家から出した。孫息子が三日後に帰ってきて家の下を見ると老婆が死んでおり、身体の各部位から作物が生えていた。というものだ」
 黒板に神話と書き、これから話す内容に関係することも書き添えた。
「諸君らのなかには神話と聞くとそれらは全て嘘っぱちの出鱈目で聞くに値しないものだ、と考える者があるかもしれない。もちろん神話が創作の産物であることは否定しない。だがその中に含まれる要素を見落としてはならない。例えば創世神話が混沌から秩序への移行、つまり、原始生活から規則、制度のある社会への移行を含むものであったり、王権神話が自身たちの権威や正当性を示すものであったりする。先程の神話は作物の起源を表す神話であるがそれだけではない。これが示すところは二つある。一つはお粥から乾燥した穀類へという食事形態の変化、つまり古来はお粥食が基本であったということだ。そしてもう一つはお粥を冒涜する意思の表れである。美味しいお粥の原料が老婆のアカとされ、お粥作製者の老婆が自死するというのは、かつて繁栄を極めていたお粥が排除され貶められた過去を示している。それまではお粥が世界の中心であったのだ。しかし、お粥の敵によりお粥の存在はただの食事へと地位を落としたのである。この神話はそのことを如実に表している」
 粥川はあまりに興奮して話過ぎたために口から水分が飛び散り教卓がべたべたになっていた。汗もかなりかいている。少し熱を入れて話過ぎたかと粥川はクールダウンをはかるためにしばらく息を整えてから話を再開した。
「この神話を作った者たちはお粥を完全に消そうとしたようであるが、にもかかわらずお粥は世界中で食されていた。これはお粥の偉大さゆえである」
 何度目かになる聴衆の様子を覗う行為の中で粥川は一人の生徒に目がついた。最前列の廊下側、つまり粥川から見て左端にいた生徒である。その生徒は他の最前列の生徒とは違いノートも筆記用具も出さず―もちろん粥川自身が板書の必要はないと言ったのでこの点を問題にしたいわけではないが―時折視線を粥川の方から廊下の方へと向ける瞬間があった。粥川はこの生徒がただ集中力のない人物というだけかと思ったが、よく見ると他の生徒よりも顔色が黄色くもしかすると体調が悪いのだろうかとも考えた。けれども判然としない。話しながらしばらく観察していたところ、やはりあまり話を聞いていない様子であったので粥川は声をかけることにした。
「そこの君、名前は」
 どきり、とした表情でその生徒は身体をこわばらせた。
「かい、いえ、粥田です」
「粥田君、体調が悪いのかね」
「いえ、そんなことは」
「そうか。では単に君の集中力が欠如しているだけのことか」
 粥川は粥田の前までくるとそれまでとは違い厳しい声を出した。
「先程からちらちらとあらぬ方向を向いて君は私の話をしっかり聞いているのかね」
「は、はい」
「私にはそのような態度できちんと内容を理解できているとは思えないがね。大学生になったばかりで慣れないことも多いだろうし一回目の授業だ、身が入らなくなることもあるだろう。いや、むしろ最初だからこそもっと気を引き締めるべきではないかね」
「そう思います」
「よろしい。まあ、私が話しているだけでは退屈なのだろう。いくつか質問をしよう」
 粥川は黒板にとある四桁の数字を書いた。
「当然この年に何が起こったか分かるだろう」
「はい……、万能米が作られた年です」
「その通り! この年に万能米が初めて作られ、これこそがお粥の転換点となったのだ」
 粥川は万能米という単語に感応され再び興奮し始めた。汗がだらだらとたれ、声に乗せて体液が飛び散った。当人は意に介さず激しく身振り手振りを交え熱弁をふるう。
「まさにお粥革命! お粥が再び世界の中心へと返り咲いたのだ」
 暑い、熱い、お粥について考えお粥について語るごとに粥川は身体の中心からどんどん熱が沸き起こってくるのを感じた。
 煮えたぎるようだ。しかし、それに何の問題があろうか。お粥の神髄を伝えるためにはより多くを語らねばならない。
 チョークがふやけてきて握っていることすらままならなくとも構ってはいられない。お粥について語らねばならない。粥川は自分でさえももはや止められなくなっていた。粥川はお粥の前に殉職する意思であった。
「万能米とは普通人間に必要な栄養素、水分以外のすべての要素が含まれた米である。そして普通人間の体内の水分量は大体六七割である。つまり万能米で作られたお粥は人間である。水とタンパク質、脂質、ミネラルともろもろでできた存在、それを人間と呼ばずして何と呼ぶか。言うまでもなくこうして生まれたのが我々お粥人間である」
 べちゃべちゃの手で教卓を何度もたたき体液をまき散らす。
「お粥人間は普通人間よりも優れた存在である。その理由は枚挙にいとまがないが枚挙する。まず、お粥人間は普通人間よりも柔軟である。何事に対してもフレキシブルで融通無碍で闊達自在で常に自由で軟らかいのである。普通人間は煮ても死ぬだけだがお粥人間は煮ることでいくらでも軟らかくなれる。そしてお粥人間は普通人間と違い具材を加えることができる。普通人間は必要ないものは排泄することしかできないのにお粥人間は取り入れることが可能だ。私自身梅干入りのお粥である。諸君らはまだ塩粥人間かもしれないが将来、味噌でも醤油でも芋でも海鮮でも何でも取り入れることができる。その上ウェットに富んでもいる。我々お粥人間がいかに普通人間に勝っており世界を支配するにふさわしいか分かるだろう」
 とここまで一息に語ったところで粥川は違和感を覚えた。流石に暑すぎる。明らかにおかしい。話に熱中していただけでは説明のつかない異常な水分が排出されている。粥川は窓を開けようとした。
 開かない。鍵が接着剤のようなもので固められている。
 まずいと思い今度はドア開けようとしたがそちらも開かない。エアコンを使おう。何ということか、室温が高温に設定され変更できなくされている。部屋が暑くなっていた理由はこれかと今さら気づいてももう手遅れである。お粥人間がお粥であるために必要な水分がどんどんと排出されている。
「助けてくれ! 誰か、助けてくれ!」
 粥川はドアをたたき声を上げる。どんどん体中の水分がなくなっていく。床はびちゃびちゃ、服はだしを取った昆布のようになっている。
「このままでは米になってしまう。粥でなくただの湿った米に!」
 粥川の絶叫は誰にも届いていない。生徒たちもまた水分の消失にもだえ苦しみ室内は阿鼻叫喚となった。
「ああ、粥でなくなる……」
 粥川、いや、スーツをまとった米の塊の末期の声は虚空にふやけて消えた。
 濡れそぼった米の塊が並ぶ蒸し風呂のような室内に一つだけ動く影があった。
 粥田もとい普通人間によるレジスタンス部隊員の甲斐田はゆっくりと立ち上がりドアの方へと近寄る。そしてお粥人間界の有力者であった粥川梅男が単なるお粥だったものになったのを確認した。炊飯器を開けたときの匂いがする。
「炊き立ての米が食いたいな」
 甲斐田は部屋を後にした。次の暗殺対象のもとへと向かうために。

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