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秋の果物~大きいことはいいことか

 味覚の秋、果物売り場にはたくさんの果物が並んでいる。
 実は、この記事のタイトルを「八百屋やおやの店頭」にしようと思っていたけど、今、「八百屋」がどれだけあるのだろう。「八百屋」は「青果店せいかてん」とも呼ばれ、野菜と果物を売っている。それだけの専門店が商売をしづらくなっている。
 ドラッグストアの「ドラッグ」は危険薬物ではなく、「薬」だが、薬だけ売っていたら商売にならないから、他の食料品や日用品も売っている。ドラッグストアは薬を売ってもうけるのが主眼だから、食料品なんかはスーパーよりも安いことがある。なんでも売っている。
 果物売り場にも、いろんな種類の果物がある。

 田舎の実家にも、いろんな果物があった。モモ、ナシ、カキ、ブドウ……。
 モモは、ちょっとだけ色づいた固いのが好きだった。店で売っているのは全部柔らかい。柔らかくて甘い。私の好きな固くて少しだけ甘くなったモモはなかなか売っていない。
 それよりも、店で売っている桃は、高い。値段が高い。高いのは、それだけ甘く美味しくなっている。それだけではない。モモ自体が大きくなっている。昔、畑で取って食べていたのは、店で売っているモモの半分くらいの大きさだったように思う。小さいと売れないのだろう。小さいといっても、桃の実をそのままほっておけば、それこそもっと小さな実しかできない。1本の枝に1個の実だけが残るように摘果する。そうして大きくした実なのだけれども、今の品種に比べたらはるかに小さい。
 ブドウも、昔は小さな粒のデラウェアが中心だった。デラウェアもブドウの出始めの頃に売ってはいるけれど(ビニールハウスで暖かくし、ボイラー栽培で暖かくし、どこよりも早く出荷する)、今はシャインマスカットやピオーネ、藤稔フジミノリのように大きな粒のブドウばかり並んでいる。大きいのが好まれるからだ。ついでに、シャインマスカットのように、皮ごと食べられるものが好まれる。デラウェアの皮から実をプチュっと出して食べることが、今の子らはできない者もいる。
 ビワは、山にも生えている小さな粒のビワが甘いけれど、中身はほとんどたねなので、大きな粒のビワしか流通しない。
 ナシも、昔ながらの長十郎チョウジュウロウではなく、品種改良した大きなもの、つまり値段の高いものしか売っていない。
 どの果物も大きなものしか売っていない。

 これは売れそうだと思えば、接ぎ木や挿し木でクローンを作り、日本全国同じものを栽培し、同じものを販売している。小さなモモやナシは店から消え、大きな粒の高級品ばかりになる。栽培もされなくなる。小さくて固いモモが食べたければ、自分で栽培するしかない。

 見た目が大事なのは果物ばかりではない。野菜も同じだ。形の悪い野菜は捨てられる。キュウリはまっすぐじゃなければならない。曲がったキュウリは捨てられる。
 だからテレビ番組、鉄腕ダッシュの中で0円食堂なんて番組が作られる。廃棄する食材でおいしい料理が作られる。


 世の中では、多様性とかSDGsということが言われる。
 多様性とは、いろいろなものがあることであり、生物多様性といわれる場合は、いろいろな生き物がおり、生き物同士のつながりがあることをさしている。生き物は自分だけでなく、他とつながって、バランスをとりあって生きている。


 SDGsは、持続可能な開発目標といわれるが、1種類だけの植物では、持続可能にはならない。
 同じものだけになり、多様性は認めず、曲がったキュウリは廃棄される。
小さな果物は流通しない。栽培されなくなっていく。それで本当にいいのだろうか。
 大きな果物だけ並び、まっすぐなキュウリだけ並び、曲がったものは捨てる。いろんなものが混じり合ったコンビニやドラッグストアとは逆の現象が起きる。それで本当にいいのだろうか。

 小さくてもいい、曲がっていてもいい。いろいろな人が住み、いろんなものがあふれた社会であってほしい。


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