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九龍浦(クリョンポ)という街。

先週の日曜日、日本からのお客さん7人をお連れして、ヌリ路開発の発見の地を訪れました。

朝鮮戦争の熾烈な戦いの現場であった、韓国の慶尚北道にある多富洞・倭館・浦項地域へ行くのは、たぶん20回目ぐらいになるでしょう。

初めて来た時は運転する手と足が、そして心が震えていたことを思い出します。あれから3年半経ちましたが、まるで10年前のことのようです。

この地を通して韓国と出会うことができ、もう一度誕生させてもらった場所なのです。

そしてあの時、引き裂かれそうになる私の心を救ってくれたのが、この「九龍浦(クリョンポ)」でした。

先日もこの国の若い子たちがレンタル浴衣を借りて☝、その街を華やかにしていました。インスタ映えのためには、反日教育も関係ありません。

実際この街を復興再現させた当時の浦項市長さんは、噂によると親日よりだったそうで、その時は「韓国にいながらでも日本を感じれる場所」として、多くの国内観光客が訪れたそうです。

1900年代に岡山県や香川県の漁夫たちが漁場を求めて、開拓移民のためにこの九龍浦(クリョンポ)に来たそうです。当時、未開拓の北海道や台湾などと同じようにこの地に移り住み、この地の人たちと「大漁」を一緒に祝いました。

当時この町には、病院や百貨店・映画館やビリヤード場もあって、ないものがない繁華街だったそうです。

何よりも以前、神社だと思われる境内には日本から持ってきた石碑があるのですが、戦後の状況から壊されているものが多い中、塗りつぶされたまま残っていることに、「壊したくない」という何らかの意志を感じざるを得ません。

またこの街づくりに貢献した「十河彌三郎」さんのお名前は、何故か塗りつぶされていない状態で逆さまに立てられているなんて、どんな意味があると思われますか?

「国家」という範囲内に規定された観点が、もしかしたら反日や嫌韓をつくっているのかもしれません。

今でもこの「九龍浦」の街が自分の故郷であるという人たちが、定期的に日本で集まっているそうです。台湾生まれの方が「湾生」として台湾を偲ぶように、ここで生まれた方たちにとってみれば、単純にこの街が「ふるさと」なんですよね。

いったい、歴史とはなんでしょうか。

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。(「歴史とは何か」E.H. カー著)
「問題を普遍化すると『歴史とは何か』という問いは『歴史をいかに書くか』というところに問題の重心が移ってきているということ。(成田)」(「立ちすくむ歴史 EH・カー『歴史とは何か』から50年」喜安朗・岩崎稔・成田龍一著)

この九龍浦の街を通して、いったいどんな過去のストーリーを未来のために残してあげるべきなのかを、考えさせられます。

特に最近の韓国政権は親北・親中なので、これからもどんどん反米・反日になっていくと思われます。(最近のマスコミの情報も、心痛いです。)

心は一つになりたくても、地勢的に許されない日本と韓国・・・

私はここで生活しながら、この国のいろいろな想いを感じざるを得ません。

(☟神社(?)の階段を登り切った所から見えた夕日。今から100年前、ここから同じ夕陽を見た人達は何を考えていたでしょうか。また、周りにある大木たちは、そんな100年前も多くの人達を見守ってきたことでしょう。この木はそれを知っていますよね、きっと・・・)

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