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関西(大阪・京都)

          

            上


あれは、15年ぐらい前だろうか。
大邱(テグ)空港から大阪往復の飛行機が飛んでいたのを、覚えている。
しかし利用客が少なかったせいか、一度も経験することなく、無くなっていた。
韓国で第3の都市といわれる大邱の空港は、その時から中国にしか行けない国際空港になってしまった。


しかし2015年4月から、LCC航空会社が大邱—大阪間を就航するようになった。ちょうどこれは、車で釜山まで行く時間内に、大阪へ着いてしまうのだ。
遂に大邱という都市が、直接繋がることができる日本ができた。
今では中国人観光客のアジア旋風の影響もあって、大邱から東京・福岡へも行けるようになり、大邱在住の日本人にとっては愛郷心を刺激させられるようになった。

その愛郷心の下、「大阪とは、いったいどんなところだっただろう。」と思った時、20年前事業を始めた頃のことを思い出した。
そういえば、当時の商品の営業のために大阪に行った気がする。
夜間福岡から車で走り、朝方着いた大阪は、疲れた体には多少賑やかだった。その時、委託販売店を確保できたかどうかは忘れたが、私の記憶の中には倦怠感だけが残っていた。せいぜい「大阪」に対する私のイメージは、こんなものだった。

しかし去年から、韓国の地における教育観光開発を通して「近代化」という凄まじい荒波に揉まれながらも、強く生き抜いたソウルの街に涙しつつ、「近代化」の現状を再認識した時に、大阪で7年間生活し大阪を愛した同僚がひとこと言った。
「日本でも明治維新後、近代化を先駆けたのが『大阪』なんだよね。」と。

当時のアジアは帝国主義の西欧列強たちにとって、植民地化による支配の対象という、極東の海上における陣地取りゲームの舞台だった。
特にイギリスとロシアの脅威を感じていた当時の日本は、その時代の変化をアジアでいち早く受け止め自ら主体的に変化を主導した、世界史上奇跡といわれる明治維新をおこした。そしてその後の日本における急激な「近代化」の波は、全国各地において想像を絶するものだった。
大阪に行かなければ。
遂に去年の9月、韓国の若いメンバー達と共に大阪に行くことになった。

東京近郊で生まれ育ち、韓国在住の日本人にとって、なぜ大阪がこんなにも異色に感じるのだろう。
「ここも本当に、日本なのだろうか。」
初めてたどり着いた関西国際空港の雰囲気に、そう思わされた。それはちょうど、韓国国内を移動してきたような気がしたからである。
ここは成田国際空港に到着した時のような、ちょっとした緊張感はいらない。
それは、海外生活が長い私にとって「ここは日本だ、日本人らしく・・」という、帰国時自動的に沸き起こる意識が働かなかったからだ。
まさしくこの関空は、その「日本」という範囲内から外れていた。

関空からリムジンバスに乗って、大阪の繁華街に向かう。
その道の港側には、工場地帯があった。
そういえば、来る前に同僚が、韓国の若いメンバーたちにしていた教育を思い出した。
「大阪は時代ごとに、いろいろな経験した。中世においては『宗教都市』、豊臣秀吉の時代に『商業都市』、そして明治維新以降『工業都市』。だから次の時代に大阪は『教育都市』として、世界に発信するようになるに違いない!」と、7年間の大阪在住時に力説していたという。
では、バスから見えるこの工業地帯は、明治維新以降の『工業都市』の姿なのだろうか。

確か小学校の社会の授業時だったのか、京浜・中京・阪神の日本の3大工業地帯を暗記したことを、薄ぼんやりと思い出す。
東京近郊は京浜工業地帯、名古屋近郊には中京工業地帯が、大阪近郊には阪神工業地帯がある。ちょっと調べてみたら、京浜工業地帯は第二次世界大戦後全国で最大の生産額をあげ、今では中京工業地帯に抜かれ、第二次世界大戦頃までは阪神工業地帯が日本最大の生産額をあげていた、という。


時間差でいえば、まず大阪近郊で、のち東京近郊、名古屋近郊と、時代によって工業地帯の生産高による発展地域が移動したようだ。
来る前にしていた教育の資料を、もう一度確認してみる。

工業地帯は普通、湾岸の埋立地にあると思っていた私にとって、1909年の工場分布図はどうも理解しにくい。
これを見るとあの時代、大阪市の繁華街のほぼ全体が、工場だったということではないか。
バスから見える港側の工業地帯ではない、中心街のほぼすべてが工場であった『工業都市』大阪。
そしてそれも、時代ごとに「宗教都市」「商業都市」「工業都市」と、都市すべての性格を完全に変えてしまう大阪。

これは、ただものではなさそうだ。

リムジンバスは、梅田駅付近に到着した。繁華街を歩く。
やっぱりここは日本というより、韓国のような活気と賑やかさがある。
「こんな日本も、あるんだ。」と、常に不思議な気持ちになる。
今回の大阪訪問は、今まで出会うことのなかった日本に出会えるかもしれない。
そんな好奇心と期待に、心が躍る。
時代ごとにいろいろな経験をした大阪は、つねに外からの力で変化してきた。
そう、新しい出会いこそ、変化を与え、新たな創造性を生む。


まず古代を遡(さかのぼ)れば、応神天皇期に大陸から大規模な移転があり、のち7世紀白村江の戦いで敗れた百済の亡命者たちが、朝鮮半島から海を渡り大阪や京都の水路を通って定着した。
その渡来人たちは、主に製鉄の技術を持ちながら、政治にも影響を与えるような知識や文化をもたらした。この内容は以前、「金海 伽耶」という、韓国釜山の隣の金海市について書いた手記で紹介した。

また中世後期においては、京都の浄土真宗の僧で、本願寺興隆の基礎をひらいた蓮如がいる。 各国各郡各村に講を組織し、それまでにかつてなかった民衆の全国組織を完成したという。その中心であった石山本願寺は、今の大阪城にあったらしい。そしてその時、蓮如が“大坂”と命名した。
まさしく蓮如の時代、大阪は『宗教都市』になったのだ。

その後、尾張の国(愛知県)の豊臣秀吉が信長の遺志を受け継ぎ、 天下の総力を挙げて大阪城を築城。秀吉の天下統一は政治的よりも経済的な統一で、中心機構の役割を大坂城下の問屋が果たすことになった。
その時「天下の台所」としての、『商業都市』大阪が完成した。

そして、明治維新以降の『工業都市』大阪については、明日行く「大阪企業家ミュージアム」に期待することにした。

結局その日は、底抜けに明るいこの「天下の台所」で、新たな日本人アイデンティティーとして舌鼓を打ちながら、この地に同化してみた。

今まで出会うことがなかった、新しい「日本」との出会い。
新鮮な体験に、心がときめく。


        大阪企業家ミュージアム


週末の堺筋本町通りの駅近郊は、静かだった。
きっとこの辺は、オフィス街なのだろう。

この「企業家ミュージアム」を運営しているのは、大阪商工会議所であるという。
国や市ではなく、民間が博物館を建てて、運営管理しているのだ。
「民間」という言葉に、今までとは違った新しいイメージが膨らんでいく。

空を見上げると晩夏の雲が、生き生きとしていた。
建物の側面には、水路の街「大阪」を象徴する川の流れと共に、七福神が乗る一艘の船のモニュメントがあった。
本当に、大阪らしい。

まるで奥深い「時代」に吸い込まれていくように、階段を降りながら、地下にある目的地に向かう。
逸(はや)る期待と好奇心は、私の心を震わせる。

入り口には黄色いエプロンを付けたおじさん2人とおばさん1人、受付のお姉さん1人が、温かく私たちを迎え入れてくれた。
普通博物館では、無機質な学芸員らしき人が、受付業務を全うしているようだが、ここは違う。
「受付の人は商工会議所から出向で来ている人で、黄色いエプロンの人は会社を定年退職したボランティアだ。」という。
来てくれてありがたいという思いが、この4人の全身から感じられる。

私の中の「民間」という言葉に、遂に生命感が注入された。
まず始めに、大阪の企業家のルーツや企業家を育む土壌の生成について、歴史を遡(さかのぼ)る簡単な映像を見る。

特にここでは、三点驚いたことがあった。
一つ目は「町人がまちをつくる」という中で、「江戸末期、河川や堀川には184の橋が架かっていたが、幕府が掛けた橋はわずか12しかなく、淀屋が掛けた淀屋橋や、岡田心斎が掛けた心斎橋など、ほとんどが商人によってかけられたもの。」であるという。
驚いた、「民間」という言葉が、不動の力強さを伴ってしまった。

二つ目は「自ら活躍する場を求めて、多くの人達が集まってきた」という中で、山城の国から「淀屋」が、伊丹の国から「鴻池」が、京都から「住友」が、みな活躍できる「場」があったからこそ、集まってきたという。
驚いた、大阪には昔からそんな「場」があったのだ。

三つ目は「場が人を育て、人が場をつくる」という中で、「大阪の企業家精神とは、そうした場と人が織りなす、まさに二重螺旋のDNAであるといえるかもしれない。」と、この映像をまとめている。
驚いた、「場」と「人」との関係を、生命の設計図といわれているDNAかもしれないと表現していた。
これを制作した人は、やはり企業家なのだろうか。
生きて呼吸する大阪という「場」の魅力を、充分に表現したことばだ。

海外生活を通して感じる、消極的で受動的な「日本」に対する観点が、根底からひっくり返されるような衝撃を受けた。
ここ関西の大阪には「創られた」ではなく、「民間」が自ら主体的に「創ってきた」日本が、あった。
この映像だけみても、わざわざ韓国から来た甲斐がある。

まずはゆっくりと、博物館に入っていった。
この博物館は大きく、3つのブロックに分かれている。
第1ブロックは「近代産業都市大阪の誕生」とし、第2ブロックは「大衆社会の形成」、第3ブロックは「豊かな時代の形成」である。

まず、第一ブロックの入り口には、近代産業都市大阪の経済基盤づくりを担った、五代友厚を始め5人が展示されていた。
ちなみに五代友厚は、去年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で「近代大阪経済の父」として紹介された。


特に五代は明治維新期「政府には人材が揃っているが、民間にはいない。自ら大阪に行って一般の商工業の発展に努める」と官界を退き、大阪商工会議所などを創設し、大阪経済再生と近代化をリードした人物である。
また明治8年(1875年)、明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助と伊藤博文・井上馨による、今後の立憲政治の樹立などを協議した明治憲政史上特筆すべき重大会議「大阪会議」があったが、その準備会議として大久保の相談役を担い、五代邸を開放し囲碁をしながら仲介役として全体を穏便にまとめたという、重大な歴史的役割も五代友厚は果たしている。


そんな五代友厚が、銀行を基盤に基幹企業群の設立・再建に手腕を発揮した松本重太郎と、新産業の育成や地域開発事業を多角的に展開した藤田伝三郎と、別子銅山近代化と新産業育成・事業多角化を果たした住友中興の祖である広瀬宰平(さいへい)や、産業を支える海運の革新と「事業は人だ」と人材の育成・輩出をした中橋徳五郎が、薩摩・丹後・近江・長州・加賀の地からこの大阪に来た。

この時代にも、日本各地から時代を読んだ先駆者たちが、活躍できる「場」である大阪に集まってきたのだ。
彼らは明治維新の新政府の目標の一つである「殖産興業」実現のために、大きな意志と「共通のビジョン」を持ち、それぞれ5人の得意分野を生かし「チームプレイ」によって、近代的産業の基盤を創ってきた。

その時、一緒に回っていた韓国の若いメンバーの一人が「カッチ・クン・クリムル・クリダ(共に大きな夢を描く=一緒に共通のビジョンを持って創る)!」といいながら、一生懸命メモを取っていた。
彼女は、企業家というのは個人の成功を追究するものだと思っていたが、5人がお互い力を合わせて、それぞれの分野を生かし、共通のビジョンである「国」の成功を追究し、協力し合いながら共に産業基盤を創り、時代をリードしていったというところに大変驚いたという。
5人それぞれが個人ではなく、国の成功という「共通のビジョン」のために、多様な企業を融合させて、運営し経済基盤を創り、国の発展のために寄与してきたのだ。


目覚めた個人は、本当に美しい。


その目覚めた個人が集まり、一つになって創る「チームプレイ」の美しさは、人類最高の「芸術」そのものではないだろうか。
そして将来、その美しいチームプレイの場を通して、新しく目覚めた人材がより世界へと輩出されていく。
その出発点が、関西の「大阪」なのだ。

また次に、私たちは繊維産業の発展を牽引した企業家である、稲葉勝太郎の前で立ち止まった。
「ほんの15歳でフランスに留学し、ギルド社会の厳しい中『自分が一日休んだら、国の発展が一日遅れる』といいながら、その姿勢と態度で西洋人を感動させて一生懸命技術を習得し、帰国してから事業を興して遂には合成染料を国産化し、海外への輸出をも果たした。」

驚いた、15歳という少年が言語も通じない中、姿勢・態度で感動させ、当時西欧から最新技術を体得してきたとは。
わずか150年前、こんな若者たちによって日本が創られた。
そう、そんな彼らによって近代化が成され、経済大国を誇る「日本」が今ここにある。
その心血注いだ企業家の精神が、この関西「大阪」の地の奥深くに、今でも脈々と流れているに違いない。

また第2ブロックでは、近代的産業基盤の土台の上、より大きなビジョンを実現化するために向かう企業家たちの姿があった。
当時「煙の都」といわれていた大阪の都市生活改善のため、高速鉄道開発から郊外住宅地の開発、テーマパークの先駆けである温泉や後の宝塚や東宝(映画)などの観光やレジャー・文化施設などやターミナル百貨店など、それぞれ企業がその枠を超えて、新たに誕生しつつあった「大衆」が求める、豊かな暮らしや生活文化の向上につながるアイディアを次々と事業化していった。

例えば明治44(1911)年には宝塚新温泉が開業し、大正9(1920)年には世界初のターミナルデパートが阪急電鉄梅田駅に建てられ、最上階の食堂ではカレーライスを庶民的な値段で提供された。

ちょうどこの時、この構想とそれを実現化させていく当時の企業家たちの、日々限りないワクワク感と、それに伴う感動溢れる美しい姿が表れてきた。
「この抑えきれないワクワク感は、何だろう・・」
次の瞬間、その企業家たちの「意志」が心に響いてきた。
「この企業家たちの辛苦は、想像を絶するものかもしれないが、その反面、きっと毎日が楽しくてしょうがなかったに違いない。」

好奇心が創意工夫を誘発し、限りない技術改良を生み、それを現実化させて、人々に豊かなライフスタイルを提供する。


そう、創造性は、好奇心によって生まれる。
そしてそれが実現し、今までにない、新しいライフスタイルになるのだ。
現代人にとって、生きた好奇心と、それに伴う創造の感動とは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

また生きた企業家たちは、重工業発展の基礎作りにおいても、きわめて幅広い産業分野を開拓していった。彼らの挑戦は、しばしば深刻な経営危機を起こしながらも、欧米技術の直輸入を廃しし、常に新しい手法と改良を加えながら、自前の技術を創り上げていった。
たとえば、世界1・2位を誇る造船技術はもちろん、初めて小型ディーゼルエンジン開発に成功し、世界市場に飛躍する日本の技術は、全世界を驚かせた。

まさしく「MADE IN JAPAN」、すなわち世界の「ものづくり日本」は
ここ関西の「大阪」から始まっていたのだ。

そして、新たな食文化の創造者(企業家)たちは、大衆の豊かさへの欲求をも創り、具体的なイメージを表現した最初の演出者として、日本に合う味覚を求め「赤玉ポートワイン」「グリコ」「ハウスカレー」「アサヒビール」などを提供した。
まさしくこれは、生活を通して近代化に慣れさせ、変化を受け入れることができる消費者さえも創っていったのだ。
そう、当時の企業家たちは、消費者の欲求自体をもつくり、その欲求さえも徐々に「教育」していった。
「教育」を通して夢と希望を与え、方向性を提示しながら、消費者を扇動し世論を創って、理想を現実化した。
そんな時代を開き、今までの生活を次元上昇させ、新しい人間の欲求を教育することさえも、当時この関西の「大阪」では既に行われていたのだ。

次に第3ブロックでは、第1・第2ブロックの土台の上に、復興から繁栄へと、より豊かな時代形成のために、企業家たちが挑戦を続けていった。
これらはより形化されて分かりやすくなり、ちょうど今の企業の姿を現していた。
この時代は、豊かさを求め多様化・高度化する暮らしのニーズに流通革新で答えていった。例えば、物づくり・人づくりを通して生活文化の向上に貢献した松下幸之助のパナソニック株式会社や、「良い品をどんどん安く」価格決定を消費者へとする中内功の株式会社ダイエーも、この時代の大阪の企業である。
この「大阪企業家ミュージアム」に展示されている企業は、日本人ならほぼ誰でも知っている企業だ。そしてその後、これらの企業は本社を東京に移動させたケースが多いという。

まさしく関西の「大阪」という地は、生きた企業家たちの創造性による不屈のチャレンジの下、多様な企業が細胞のように生命を得て、その生きた企業たちが連帯し活発に融合しながら、新しい経済を誕生させていった「生命の源」のようだ。

これらを通して「これこそ、今の時代に必要なのではないだろうか。」と感じ、先人たちが語りかける熱い「意志」に、心を寄せてみた。
ちょうどその時、韓国の若いメンバーの一人が、目を輝かせながらこう言った。
「 時代を創るということが、どういうことかわかりました。 私たちも、こんな歴史を創っていきたい!ここ大阪で日本の底力を知って、人間の尊厳そのものの生き方を実現することができる、教育の意味と価値を今深く感じます!」と。

その時、すべてが繋がった。
時代を創ってきた先人たちの意志が再びここで甦り、これからの未来を担う若者たちに、遂に使命として受け継がれた瞬間だった。
そしてこれは、長い歴史を通して全人類が追及してきた、共通の想いであることも、同時に痛感させられた。

人工知能では不可能な範囲である、人間の尊厳そのものの力を目覚めさせる教育。
そして、目覚めた尊厳そのものの個人が集まって創る、連帯である集団知性体の「チームプレイ」の可能性。
それを充分に発揮させることができる「場」が既に存在する、この関西の「大阪」。
そんな関西の「大坂」の場で、生きた二重螺旋のDNAのように新たに目覚めた「人」たちが、実践教育を通して全世界へと飛び立っていく。

結局この関西の大阪は、尊厳による教育によって共通のビジョンを掲げ、新しく創造しチャレンジし続けていく「尊厳創造」の都市なのではないだろうか。

「 ワクワクな こともなき世を ワクワクに」

日本の、何よりも、関西「大阪」の挑戦はこれからも続く。

   

           中


       京都 琵琶湖疎水記念館


9月初旬、京都の朝。
町屋の前の打ち水が、静かに地面になじんでいた。


京の一日の始まりを告げるこの水は、どこから来たのだろうか。
近くの暖簾(のれん)には、豆腐・湯葉料理と書いてあった。
「きれいで豊かな水の都」という京都のイメージが、すっかり目の前の風景と重なる。

琵琶湖疎水記念館は、左京区の南禅寺の近くにある。
南禅寺といえば「水路閣」でも有名だ。
静かな東山の風景に溶け込む「水路閣」は、 南禅寺境内を通過するために周辺の景観に配慮して、田辺朔郎が設計・デザインしたもので、1890(明治23)年に完成した琵琶湖疏水の分線にある水路橋である。

さらにその「水路閣」の先の若王子から銀閣寺道までには、「哲学の道」がある。
哲学者西田幾太郎が散策・思索にふけったといわれる「哲学の道」は、せせらぎの音が心地よい琵琶湖疏水の分線の小道にある。
この京都の豊かな水は、明治時代建てられた琵琶湖疏水を通ってきた水のようだ。

地下鉄東西線の蹴上駅を降りて、目的地に向かう。
右側には当時造られた水力発電所の建物が、左側には「インクライン」や「ねじりまんぽ」という不思議なトンネルが、「水路橋」と同じようにレトロな雰囲気でたたずんでいた。
遂に、水の音が激しくなってきた。 
京都市の上下水道局が運営する琵琶湖疎水記念館は、市民の協力を得て竣工100周年を記念し、平成元(1989)年に開館した施設だという。

「京都は平安京の誕生以来千年の間、日本の首都として栄えてきましたが、明治2(1869)年に東京へ都が移り産業も人口も急激に衰退していきました。この衰退していく京都を復興させるため、特に産業の振興を図ろうと計画されたのが琵琶湖疎水の建設でした。」(「琵琶湖疎水」京都市上下水道局水道部疎水事務所発行から)

明治初期、衰退していく京都の産業振興のために、京都府知事の北垣国道が市民と一つになって、あの琵琶湖から「水の路」である疏水を造った。
北海道では未開の地を開拓・開墾して「陸の路」をつくったが、京都では豊かな琵琶湖の水源から、命の水の動脈である「水の路」をつくった。
この命の水は、水道用水はもちろん水力発電・灌漑・工業用用水や、疏水を利用した水運などにも使われ、大津や伏見、大阪との間で、米・炭・木材・石材などが船で運搬され、上記のインクライン(船や荷物などを昇降運搬する装置)もその面影の一部である。
今でも水路・海路である「水の路」は、島国日本はもちろん、世界的に貿易などで大量の荷物を運搬できる、最も重要な「路」の一つである。

また蹴上発電所は、明治24(1891)年日本初に建てられた事業用水力発電所で、明治28(1895)年にはその発電を利用して、日本最初の電気鉄道(京都—京橋間)を開通させた。そしてその動力は、電灯やその他工業用としても使われ、京都の近代化に貢献した。
日本初の水力発電所と日本初の電気鉄道が、ここ関西の京都にあったとは。

また特に、2011年3・11以降、原子力発電が世界的に問題になっているが、明治時代クリーンエネルギーである水力発電は世界に先駆けて、この京都で既に稼働していた。

「当時日本の重大な土木工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていましたが、琵琶湖疏水の建設はすべて『日本人の手によって行われた日本最初の土木事業』でした。」
明治初期、伝統あるこの古都で(御雇い外国人の手を借りずに)日本人だけの手によって、日本初の大土木事業という、大きなチャレンジが行われていたとは。

「琵琶湖疏水建設には、京都府の年間予算の約2倍という膨大な費用が投じられました。」
特に北垣京都府知事は、工事の規模はもちろん、滋賀県と大阪府に対する補償や、設計の変更(発電所建設など)とそれに伴う建設費の増加などの費用を捻出するため、政府からの借り入れや議会や勧業諮問会などで市民を説得して税金を課してまでも、疏水を建設することを決定した。
それによって、計画立案から着工まで4年かかったという。

「 起工趣意書
京都は、はじめから全国への道が通じて便利なところだったわけではありません。京都が栄えたのは、延暦13(794)年10月22日に、天皇が都をこの地に定めて、政府の役所や神社やお寺を建て、いろいろな職業や工業の役所を置き、職人たちを励まし工業の発展を促したからです。(中略)


維新前後に得た恩恵によって町の賑やかさが衰えることはないにしても、すでに役所などの建物もなく、各府県の役人の上京もなくなりました。このように京都の町がひっそりとしてから数十年がたちます。人々の気持ちも自然と東京に向き、日用に使う品物も東京風になっていくものが多くなりました。(中略)


京都を昔のような町にする方法はいろいろあります。第一は…(中略)このように琵琶湖疏水の工事によって多大な利益が生まれるのです。それがこの工事を行おうとする大きな理由であります。

  (略) 京都府知事北垣国道 諮問案・起工趣意書 明治16年11月5日 」

この趣意書からは、北垣知事の京都への熱い想いと、琵琶湖疏水に対する強い意気込みが感じられ、大変驚かされた。
多分、こんなに壮大で美しいプレゼンテーションは、なかなかないと思う。

遂に明治18(1885)年琵琶湖疏水起工奉告祭の時、祇園一帯に宴席が設けられ、蹴鞠(けまり)や盆栽展・相撲など余興が行われて、夜には将軍塚の山腹にちょうちんで「水」という文字が描かれたように、当時行政と市民が一体になって琵琶湖疏水工事の着工を祝い、完成を祈っていた。

        (第一琵琶湖疏水起工式余興場案内絵図)

そして、明治23(1890)年の竣工式の前夜祭では、市内各家に日の丸と提灯が掲げられて如意岳では大文字が点火され、その多くの人出に、盆と正月が同時に来たほど賑やかだったという。
まさしく、市民の完成の喜びが想像できる一面だ。

また「琵琶湖疏水の工事は、日本の技術で行う土木工事としては、今までに例を見ない大工事であり、当時の未発達な土木技術や貧弱な機械・材料に悩まされながら工事を進めました。
ダイナマイトとセメント以外の資材の大半を自給自足し、夜に技術者を養成し、昼には実践するという、現代ではおよそ想像もつかない努力を積み重ねて工事は進められました。」

なんと、ダイナマイトとセメント以外は自給自足で、煉瓦など一つ一つ同時に作りながら、工事の資材にしていたという。
そして夜はダイナマイトの使い方などを学び、次の日は即実践するという、琵琶湖疏水工事現場は、まさしく実践教育の現場だった。

この写真は、田辺朔郎が書いた日本における土木工学の最初のハンドブックで、琵琶湖疏水工事を担う技術者の不足を補うため志願する作業員を募り、夜間自らが教師になり土木技術を教えた時の教材である。
携帯可能なこのテキストは、手のひらサイズで紐が付いていた。
きっとこれを現場に持って行き、その場で確認しながら工事を進めていたのだろう。

しかし、こんなにも貧弱で厳しい環境の中でも、第一疏水建設中に病気や事故によって殉職した土工などが、17名だけであったことが、本当に驚かされる。
またその17名に対して田辺朔郎は、明治35(1902)年「一身殉亊 万戸霑恩(いっしんことにじゅんじ、ばんこおんにうるおう)」という慰霊碑を自費で建てていた。
「尊い犠牲によってたくさんの家々に恵みを与えることができた」と記されたその碑の裏には、殉職した17名の名前があった。

「特に、第一トンネルは当時日本最長のトンネルで、山の東西両側から横穴を掘る方式に、山の上から垂直に掘る 竪坑(シャフト)方式を日本で初めて採用した。」
この琵琶湖疏水工事のうち最も困難を極めたのがこのシャフト工事で、突然地下水があふれ出し、2日間その水が溜まり22.9ⅿに及んだという。
この工事は日本で初めて行われた工事で、このトンネル掘削(くっさく)技術が元で東海道本線東山トンネルをはじめ、多くのトンネルが掘られるようになったという。
本来「琵琶湖疏水」の「疏水」は「疎水」とも表現し、「疎通」の「疎」を意味する。確かにトンネルといえば横穴を2か所から掘るイメージしかないが、縦穴を深く掘ってその中心点(ポジション)の左右も含み合計4か所から「疎通」させる竪坑(シャフト)方式という発想とその実践は、いろいろな意味で感慨深いものがある。

また「疎通」という観点から考えた時、琵琶湖取水口から鴨川合流点をつなぐ設計段階に、疏水をどのように通すのかという所定の位置決定(ポジション取り)も本当に素晴らしい。
例えば琵琶湖疏水の分線である南禅寺の水路閣は、外観を壊さずに「水の橋」を創るという発想によって位置決定された。
これこそまさに、自由な発想によるチャレンジの結果体に他ならない。
とにかくこれらの発想と実践の下、この琵琶湖疏水大工事は何かと日本初が多い。
ちなみに日本初の鉄筋コンクリートの橋も、第3トンネル東口南東側に架けられた。

こうしてこの大事業は、北垣知事の下、測量士の島田道生や、東京大学工学部卒業したての青年技師田辺朔郎(当時21歳)などが中心となって挑み、幾多の困難・障害を乗り越えて完成させた。
ではここで、京都府知事の「北垣国道(きたがきくにみち)」とは、いったいどんな人物だったのだろうか。
出身は、現在の兵庫県。若い時から坂本龍馬や勝海舟らと交流があり、長州藩の明倫館で兵学を学び、鳥取藩士と共に会津戦争に参加。
明治維新以降は、新政府により功績が認められ地方官に任用され、明治4年~10年開拓使として北海道・樺太にて勤務。同時期、開拓使であった榎本武揚らと交流を深める。
その後、熊本県大書記官や高知県令に就任した後、明治14年~25年京都府知事や市長を兼任する。のち北海道庁長官に転任し、北海道の鉄道敷設と水田稲作に尽力する。

また琵琶湖疏水の建設に、最も貢献した人の中の一人に、測量技師「島田道生(しまだどうせい)」がいる。その島田道生とは、どんな人だったのだろうか。
明治5年、札幌農学校に入学。この時期までに、同郷の北垣国道を知り合う。その後、北海道開拓史測量長のデイに従って測量。こうして北海道で測量技術を学ぶ。
明治10年北垣国道に呼び寄せられ、それ以降行動を共にし、明治14年琵琶湖疏水計画のために測量を始め、明治19年疏水事務所測量部長に就任。その後、北海道庁技師に転出する。

当時明治新政府は、西欧列強に対抗すべく国家形成のために「富国強兵」「殖産興業」というスローガンを掲げ、優秀な人材を全国に配置していた。
このように当時、日本全土に広がった熱い「意志」は、ここ京都琵琶湖疏水の根底にも流れている。

またもう一人、疏水工事を担当した工学士の「田辺朔郎(たなべさくろう)」とは、どんな人だっただろうか。
出身地は江戸。明治16年現在の東京大学で御雇外国人ヘンリーに土木工学を学び、工学士の学位を得て卒業、そのまま京都市御用掛に就任(当時21歳)。明治19年疏水事務所工事部長に就任し、翌年疏水建設工事全ての責任者となる。
明治21年アメリカに渡り水力発電所を視察、翌々年琵琶湖疏水を原動力にした日本最初の水力発電所を完成させる。
明治29年には北海道鉄道敷設部技師に就任し、北海道の鉄道敷設のため尽力。その後、シベリア鉄道を調査しのち、京都大学大学院の教授になって、再び京都市3大事業に携わる。
当時大学卒業したての田辺朔郎が、日本最初の大土木事業の責任者になった。
 
特に琵琶湖疏水は極めて難しい大工事だったので、工学大学卒業したての青年技師の指導によって、日本人だけの力で完成したことに欧米諸国は大変驚き称賛し、英国土木技術者協会が学術的功績を表彰しテルフォードメダルを、田辺に授与した。
当時、西欧列強の大国といわれていたイギリスが、琵琶湖疏水完成を驚いていた。

こうして京都の復興にかけて、琵琶湖疏水大工事を推進した「北垣国道」京都府知事と、御雇外国人のオリジナルの技術を超えた「島田道生」測量技師と、大学卒業し立ての青年技師「田辺朔郎」工事部長の3人が中心となって大工事を推進し、市民と共に一つになって、この京都琵琶湖疏水を完成させたのだ。
ここ関西の京都にも「創られた」ではなく、行政と市民が一体となって主体的に「創ってきた」日本が、あった。

そして後、明治38(1905)年日露戦争が終わると、西郷菊次郎市長の下で第2琵琶湖疏水建設が行われた。
「明治30年代に入ると第一疏水の流量では毎年増大する電力の需要を満たせなくなりました。(略)その為、第2代市長西郷菊次郎は京都市三大事業(第2琵琶湖疏水の建設・上下水道の建設・道路拡築及び電気軌道の敷設)を実施しました。
第2疏水はその事業の中核として明治41(1908)年10月に着工し、明治45(1912)年3月に完成しました。」

第2代市長西郷菊次郎は西郷隆盛の長男で、アメリカに遊学して都市の実情を学び、台湾宜蘭支庁長など務めた経験を持つ官僚・政治家だった。
ちなみに台湾統治時代、蘭陽平野の発展に大きく寄与し、宣蘭市の繁栄のために宣蘭河の氾濫を防いだ堤防(西郷提)の大工事を完成させた恩人「西郷菊次郎」のことを、台湾市民はいまだ尊敬し、その名を刻んだ石碑「徳政碑」を堤防に飾っている。(余談だが、菊次郎の菊を名前につける台湾人も結構いるぐらいである。)

日本人が知らない「有名な日本人」を、台湾の人達は心から感謝し尊敬していた。
まさに2011年3・11の時、台湾から約200億円(台湾の価値では1000億円に相当)の義捐(ぎえん)金が送られてきた理由の一つが、ここにあった。

また西郷市長は、東京在住の政治家や役人から3大事業の認可を得るため、何度も京都と東京を往復したので「東京在住の京都市長」といわれるほどだった。
何よりも多くの資金を必要とする京都3大事業は、1720万円(現在の価値で2300億円、当時の京都市の税収の34倍)が必要で、そのため明治42年に、西郷市長はフランスに飛び外債を発行してこの事業を行っている。
当時、一つの地方自治体の市長が、西欧列強の一つの国フランスに行き、資金を借りて大事業を成功させていたとは。
そして、その債務を約20年かけて返済する予定だったが、なんと10年後には完済してしまった。(「琵琶湖疎水記念館 常設展示図録」京都市上下水道局発行から)
現在の私たちには到底考えられないことを、当時のリーダー達は自らが率先して行っていた。
西郷市長の不屈の精神と意志は、想像を絶するものである。

「京都市は明治45(1912)年4月に蹴上浄水場から市内各戸に給水を開始しましたが、その浄水方式には日本で最初の急速ろ過が採用されました。」
この第2琵琶湖疏水事業においても、関西の京都は日本初の歴史を持っていた。
このように、この琵琶湖疏水大事業は、京都の未来を想って建設を推進した北垣知事や西郷市長の強力なリーダーシップの下、田辺博士や島田技師などの工事関係者はもちろん、一般市民が一つになって、困難を乗り越え創り上げた、日本初の歴史的な偉業だった。
この関西の京都は、市民と行政が「共通のビジョン」の下に一つになって、チャレンジし続けながら「創る」ということを、現代の私たちに教えてくれている。

(下記の写真は大正2(1913)年に、3大事業の中の道拡築の一部である四条大橋改築工事竣工式時に、多くの京都市民が祝っている姿である。)

明治時代、関西の京都という街は、日本初のチャレンジを大いにした新しい街であったにもかかわらず、今現在その面影を一つも感じさせない。
京都は古都としての伝統を「あえて」選択する街としてみた時、この京都の魅力がまたいっそう美しく惹きたてられる。
1000年間、変化の一切ない古い都、ではない京都。
多くの変化をしながらも、全く変化がないように・・
最新を含んだ、古い「伝統」を持つ、京都。

結局この関西の京都は、「共通のビジョン」を掲げて個人の無限なる可能性を発揮させ、その尊厳による実践教育によって、新しくチャレンジし続けていくことができる、尊厳の「創造」の現場といえるのではないだろうか。

日本の、何よりも関西「京都」の挑戦は、ここから始まる。


            下


古代日本には、大陸から多くの人達が流れて来た。
もちろん当時は、飛行機なんてない。
渡来人や帰化人といわれる大陸からの人たちは、船に乗り「海の路」「水の路」を通って、二つのコースで日本にたどり着いた。

                      (縄文時代海水が5m上昇していた時の地図)

一つ目は、日本海側から出雲や敦賀や福井に上陸し、琵琶湖を渡り瀬田川通って宇治川・桂川行きのコースと、もう一つは、瀬戸内海を通って大阪の上町台地にたどり着き、河内湾に入って淀川・宇治川・琵琶湖に至るコースである。

このように淀川周辺は、「海の路」「水の路」を通して頻繁に交流が行われることによって、交流軸の中心となり、日本の文明の出発点となった。
まさしく、この淀川周辺に、関西の中心地である「大阪」「京都」が存在する。

794年には、日本海側と太平洋側の各地へ船で行けて、船運交流の中心地である「京都」が都となり、1000年間も続いた。
また平安時代のころから、いくつもの川が縦横無尽に流れている大阪平野は、瀬戸内海や京の都を結ぶ交通の大動脈としての役割を担い、「大阪」は水利用や舟運に恵まれ水の都として発展し、豊臣秀吉の時代には商業都市として、日本の経済を担った。

                      (国土交通省 淀川河川事務所ホームページから)

                 
そして「水の都」大阪は、「水の路」である淀川を民間が治め利用しながら、商業や工業を発展・創造・チャレンジし続けてきた。
一方京都は、行政と市民が一つになって琵琶湖疏水をつくり、その命の水の動脈である「水の路」によって、衰退する街を復興させ「水の都」とした。

「水を制する者は、世界を制す」という。
この日本列島の中心地「関西」は、生命の「水の路」をつくり交流・循環させてきたという、水を制する歴史があった。
こうして水を制し治めた「関西」は、次の時代も、必ずや世界に発信していくに違いない。

では、いったい「路」とは何だろうか。
改めて、その意味と価値を考えてみた。


一般的に私たちは、まず自動車が走る道路である「陸の道」を思い浮かべる。
また、世界的に有名な「路」といえば、シルクロードや、大航海時代の「海の路」である。さらには飛行機の航路「空の路」も、確かに「路」である。
そして「路」が存在しているところには、交流と循環が生まれる。
その交流と循環が絶え間なく生まれるところに、人も物も情報もお金も集まり、その結果その場が都市となって発展していく。


結局、私たちは、目に見える形としての都市が重要なのではなく、交流・循環を促す「路」こそが、すべての原動力なのだと気付く。
交流・循環する「動きそのもの」があってこそ、人・街・経済・都市などが、生き生きと存在することができるのだ。

では今からの時代、それはいったい、何によって成せるだろうか。
新しい「路」が誕生するとき、新たな交流・循環が生まれ、そこに新たな生命が芽吹いていく。
琵琶湖疎水の、一本の水路。その水路によって生まれたものは、単なる水だけではない。そこからは電気が生まれ、産業が生まれ、経済が生まれ、安心が生まれ、未来への希望が生まれ、なによりも人々の心の幸福感が生まれたのだ。
今こそ私たちは歴史上、循環することや活性化することができなかった世界に、交流・循環を起こすことができる「路」である、新しい知識と技術との出会いが必要である。


まさしく、その「路」は、固定した観点と観点の障壁を突破することができる、「心の路」なのではないだろうか。
個人と個人、組織と組織、地域と地域、国と国が、それぞれの固定した観点から完全に自由になり、限りなく交流・循環を起こすことができる「心の路」。

こうしての関西は、人類が今まで超えることができなかった「心の路」を、尊厳によって創り上げていく。
そしてそれは、人工知能では不可能な人間尊厳そのものの教育によって、すべてが交流・循環することができる「心の路」を創ることでもある。


今ちょうどこの関西には、無限なる可能性そのものの尊厳による「心の路」で一つになることができる、教育体系・教育システムが既にある。
これからの関西は、尊厳による「心の路」によって交流・循環させながら、時代の意志と一つになり、人類が求める「共通のビジョン」を掲げ、集団知性体による「チームプレイ」によって「チャレンジ」し続けながら、新たな時代を創造していくに違いない。

何よりもこの関西の大阪・京都には、明治維新後に自らがチャレンジし続けた企業家や市長などの責任者たちが、地域市民たちと一つになって、新しい時代を創ってきた歴史がある。
同時にこの場は、企業家たちの偉大なるリーダーシップの下で、無名であっても優秀な人材が続々と創出される現場であり、それが大阪の企業が果たした役割でもあり・・・
また、琵琶湖疏水大工事の責任者である青年技師田辺朔郎の下で、夜に学び昼には即実践という中で、ハンドブックを片手に持ちながら技術を習得していった、無名であってもとても優秀な人材が、続々と創出される現場であったのが、京都の琵琶湖疏水事業であったのだ。

そしてその無名の彼らが、今の日本をつくり、アジアをつくり、全世界に散らばりながら、世界を牽引しているのだろう。
今まで「水の路」を制した関西が、無名の優秀な人材を輩出することによって、見えないところで世界に影響を与え、世界を制しているように・・
次の時代の関西は「心の路」を創造して、世界に発信していくだろう。

今こそ、この関西は—
無限なる可能性である、尊厳による「心の路」を創造し—
企業や地域単位で交流・循環させながら、実践教育を通しチャレンジし続けー
全国及び全世界に、人工知能を越える優秀な人材を輩出していくことができる
「尊厳創造都市 関西」になっていくのではないだろうか—。

100年後の、美しい、世界の「関西」を想いながら。
 

                                                            完   

                                                                          2016年9月25日 nurico


≪参考文献≫
「大阪企業家ミュージアム ガイドブック」 大阪商工会議所発行
「日本史の謎は「地形」で解ける」竹村公太郎著
「琵琶湖疎水記念館 常設展示図録」京都市上下水道局発行
「琵琶湖疎水」京都市上下水道局水道部疎水事務所発行

≪参考URL≫
台湾シリーズ 西郷菊次郎を忘れない、台湾の人 - 原野の言霊
  http://blog.goo.ne.jp/yashiki2008/e/96e4709366c14b504d4fb8d5b42d1e60
 国土交通省 淀川河川事務所ホームページ
http://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/

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