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東京

海外から東京に戻る時、いつも思うことがある。

「やっぱりここは、世界の東京だなぁ。」と。

神奈川県川崎市高津区という東京近郊の住宅街で生まれ育った者にとって、人の多さに酔ってしまうほどの息苦しい東京と、その人たちが散らばり潜む東京近郊の街なんかは、脱出しなければならない場所にしか過ぎなかった。

そんな当時の若さというのは、単に東京と東京近郊からの脱出程度には治まらず、国外脱出作戦にまで至りそれを達成させてしまった。

その枠からの開放感の中、現地に必死に適応しようと毎日忙しくしていた時は、脱出対象でしかなかった東京のことなど、ほとんど忘れていた。

そして海外からの訪問客となって久しぶりに東京と出会った時、何故か敷居が高い東京に緊張している自分の姿がとても愉快に感じ、帰省そのものが新鮮だったことが忘れられない。

また韓国の友人たちと一緒に東京を訪れた時などは、生活していた時には感じることができなかった東京の美しさに、驚いたこともあった。

どんな観点で、その地域と出会うのか。

ここ2年前から私は、韓国との強烈な出会いを通して、世界と世界の歴史に出会い新たに日本という国を認識した時、全く新しい観点で日本と日本の歴史と出会い、個性ある日本の各地域ともそれぞれ劇的な出会いが許されたのだった。

特に今回、歴史の中で経験してきた「東京」という地の様々な感動のストーリーと出会った時、そしてその感動ストーリーが今この瞬間、自分のライフスタイルの中にすっぽりと溶け込んでしまった時、私の中でただ息苦しい脱出対象に過ぎなかった「東京」は、愛おしくてたまらない世界に誇れる「東京」になってしまったのである。

ある歴史学者はいう。
「歴史は過去において実現し得なかった未遂の可能性を取り戻しつつ反復する」と。

各地域における歴史も、その地域の背景(例えば地勢)などからくる独特な個性のもと、歴史共通の「未遂の可能性」が根源となり、各地それぞれの美しい感動ストーリーとなって織りなされ展開していくのかもしれない。

そんな感動の連鎖によって、今の時代を生きる私たちの日々のライフスタイル自体が「感動革命」そのものになるのだろう。

今ここで未遂の可能性のもと感動ストーリーと共に、さらにもう一歩向こうへ、今まで出会うことがなかった「東京」に、あなたと一緒に行きたい—。


5月下旬、初夏の陽気が続く東京。
日差し溢れる窓際の白いカーテンが、風に揺られてまぶしい。

今日は一緒に仕事をしている同僚からの勧めで、乃木坂にある新国立美術館の特別展示ミュシャ展に行く。

アール・ヌーヴォーを代表する芸術家のミュシャは、晩年16年間を捧げて、およそ縦6メートル横8メートルに及ぶ巨大なカンヴァス20点に油彩画《スラヴ叙事詩》を描いた。

故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族のアイデンティティを持って、古代から近代に至る苦難と栄光の民族の歴史を絵画という形で表現した。

チェコがオーストリア帝国の支配下にあった当時、ミュシャは国民が未来に確かな希望を持つためには自分たちの歴史と向き合うことが必要だと痛感し、「目から心に直接働きかける絵画には、音楽や文学よりも人々の知性と感情に訴える力がある」と確信し、スラヴ民族の歴史を描くことを使命とした。

そして独立後には、無償で国の紙幣や切手などのデザインも手掛けた。
しかしミュシャの生前には《スラヴ叙事詩》が認められることもなく、故郷近くの城に寄託され、没後70年経った2012年にやっとプラハの宮殿に展示されるようになった。

民族と国家のために、歴史のストーリーを表現した一人の画家ミュシャは、時空間を超えて私の魂に強い衝撃を与えた。
今から100年前の一人の芸術家の生きざまは、とても崇高で鮮やかだった。
たった一人の生き方を通して、長い人類歴史の一部である民族の歴史が表現され、それも絵画という方法で当時の民衆を啓蒙しようとしていた。

その瞬間、韓国の大邱にある洛東江戦勝記念館の入り口にある一枚の絵を思い出す。

         「お前は祖国のために何をしたのか?」

私の中にも潜む人類歴史の未遂の可能性が、魂の奥深くから甦る—。

すっかり開放されてしまった私の観点は、時代と世界を駆け巡っていく—。

このミュシャの超大作《スラヴ叙事詩》は、チェコ国外では世界初公開であるという。こんな絵画展を誘致できるこの街は、やっぱり世界の「東京」である。
美術館大国といわれている日本の首都である「東京」だからこそ、可能な特別展示だろう。

新国立美術館を後にして、今度は近くにある東京ミッドタウンに向かう。

初めてこの存在を知ったのは、数年前偶然に見た韓国テレビの都市開発のドキュメンタリー番組だった。
その番組は韓国のある国有地が放っておかれ廃れていく映像を見せながら、スペインのセビリアにある世界最大級の木造建築メトロポール・パラソルや、日本の東京ミッドタウンの都市開発事業を比較して放映していた。

その時私は東京に行ったら必ず行こうと決めていたが、忙しさのあまり存在すら忘れていたのだ。しかし今回こそは、絶対に見逃せない。

東京ミッドタウンの敷地は江戸時代、萩藩毛利家の下屋敷で、明治時代は陸軍駐屯地となり、終戦後は米軍将校の宿舎、日本に返還された後は防衛庁の槍町庁舎として、実に400年間一般に閉ざされた土地だったらしい。

この敷地内に一歩踏み込んだ時、時代の状況によって変化し、さまざまな経験をせざるを得なかったこの土地に、想いを馳せてみる。

そしてここにある140本の木々は、旧防衛庁の敷地内に残されたものを移植したものらしい。この木たちはきっと、時代の変化を経験してきたのだろう。

また都市景観としての配棟計画は、伝統的な日本庭園の宇宙の中心性を象徴する石組みの配置になぞらえているそうだ。

「ジャパン・バリュー」日本の美しき価値を、世界に発信することをコンセプトにした東京ミッドタウンは、世界に誇る日本の土木建築の最先端技術を表現していた。
新しさの中にも、懐かしさや落ち着きを感じさせるその美しい時空間の中に、しばし身をゆだねてみた。

この東京が東京になる前、そしてその江戸が江戸になる前に、何よりもこの地域の価値を見つけ、日本史上最大の国土プランナーとして関東平野を創り再生せしめたのが、実は徳川家康であった。

次の日それを確認するために、両国にある江戸東京博物館に向かった。


         江戸東京博物館


外濠を眺めながら、総武線で行く下町の両国。
両国といえば相撲だが、もともと相撲は神事だという。

ちょうどその日は大相撲5月場所の11日目だったようで、博物館のすぐ隣にある国技館の入り口は人でいっぱいになっていた。
力士らしい人が現れた時、シャッターの音と「頑張って~!」という声援が一緒になって、その場全体に響いていた。こんな光景は、両国ならではだ。

まず前日、以前読んだ本をもう一度めくってみた。
「金海 伽耶」の手記でも綴ったが、縄文時代には日本列島の形が違っていた。

当時、縄文海進によって海面は現在より数メートル上昇し、関東平野はもちろん東京のほぼ半分は海の下だったのだ。


1590年、家康は秀吉に江戸への転封を命ぜられた時、関東は平野ではなく湿地であり、江戸は手に負えないほど劣悪で希望のない土地だった。

家康はこの広大な湿地帯を乾いた土地にするという、日本史上に例のない大規模な大地改革に着手した。
それも天下普請という、各藩の負担のもと全国諸大名に、河川工事や直轄地の城郭修復工事などを盛んにおこなわせたのであった。

その一大土木工事は、まず1604年の日比谷入り江の埋め立てから始まった。
これは江戸東京博物館の入り口にある、当時を再現した日本橋を渡ったところの「江戸ゾーン」正面に展示があった。

江戸城の大改築は、全国諸大名から石を持ち寄らせて石垣を築かせ、本丸・西丸など城郭を整備させていった。その築城工事時に発生する土や、神田山を切り崩して生じた土で日比谷入り江を埋め立て、その他多くの汐入地を埋め立てた。

その後江戸内の天下普請には、外濠と大名小路の増設、平川改修工事、西丸及び江戸城東郭の外濠石垣工事、江戸城外郭工事、神田川整備工事などがある。

このようにして江戸の町は、沿岸の低湿地帯は町人地として下町が形成され、物資輸送を中心とする水運の城下町として栄え、武蔵野台地の山の手は江戸城を取り囲むように諸大名の武家地となり、その周辺に寺社地や緑地が散在した。

今の東京の原型は、あの時代にコツコツと「人の手」で造られていたのだ。
 
さらに1621年には、前代未聞の大治水工事である「利根川東遷事業」の天下普請が発令された。

 (残念ながら江戸東京博物館には、この展示はない。2017年7月時点。)

古来、利根川は太平洋ではなく東京湾に流れていたのを、東京湾から銚子へと流れを変える大工事が行われたのだった。

この東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り新田開発を推進することや、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加え、伊達政宗に対する防備の意味もあったらしい。工事は「会の川締切り」を皮切りに60年という歳月をかけて、5代将軍綱吉の時代に完了したという。

あの関東平野の本流である利根川が、江戸時代以前まで東京湾に流れていたのを、なんと機械など一切ない時代に太平洋に流れるように大工事をしていた。

人の力で大河の流れを、変えてしまったのだ!

こうしてみると徳川家は、大江戸都市開発事業のスーパー・ゼネコン「徳川組」であり、諸大名を中心とした全国各藩は下請けの土木建築業者のようだ。

江戸時代、気性の荒い戦国武士たちの行き場を失った闘志は、こうして大江戸都市開発の土木工事に費やされていたのかもしれない。



また、大江戸都市開発事業は、全国諸大名の武家や家臣たちだけではなく町人たちも巻き込んでいた。それは「江戸六上水」の一つ、「玉川上水」であった。
この「玉川上水」の展示場所は、私の足を釘付けにした。

家康は人口が増える江戸の生活用水を確保するために、家臣に江戸最初の水道小石川上水を造らせ、のちの「神田上水」へと発展させた。しかし江戸の発展は著しく、1652年多摩川の水を引き入れるという壮大な「玉川上水」計画が実行された。

それは町人の庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が提出した設計書及び実地踏査の結果、二人を工事請負人に採用して、そこに総奉行と水道奉行を立て、着工からわずか8ヶ月で羽村から四谷大木戸までの約43キロメートルを、標高差約92メートルという自然流下方式の導水路を造ってしまった。

これは100メートルにつき20センチメートル下がるという大変緩やかなものであって、当時の測量土木技術の高さがうかがわれる。

しかし費用がかさんで幕府から渡された資金が底を尽いてしまった結果、玉川兄弟は自分たちの家を売ってその費用に充てた。この功績により玉川姓を許され、200石の扶持米と永代水役を命ぜられたという。

翌年には虎ノ門まで、地下に石樋(せきひ)や木樋(もくひ)による配水管を付設し、江戸城をはじめ市内の南西部一帯に給水した。
3年後の明暦の大火によって江戸は大半を焼失し、幕府はこの災害を契機に復興再開発を行い、江戸はさらに周辺部へ拡大し給水するため「亀有(本所)上水」「青山上水」「三田上水」「千川上水」を相次いで開設した。

こうして6系統の上水が江戸の町を潤した。これが「江戸六上水」である。

しかし8代将軍吉宗の頃4上水が突然廃止され、江戸時代後半には神田上水と玉川上水が、江戸100万都市(ちなみに当時ロンドンが70万人・パリは50万人なので、人口世界一都市)の人々の暮らしの基盤となった。

余談であるが、1737年には玉川上水沿いに桜の木が多く植えられた。それは花見客に堤を踏み固めてもらうことと、桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたことによる。中でも「小金井の桜」は評判を得、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わった。1924年には、国の名勝にも指定された。

また竣工350年を迎えた玉川上水は、2003年8月江戸・東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、文化財保護法に基づき国の史跡にも指定されている。

今から400年前に、山を削って海を埋め立て、大河の流れの方向性を変え、わずかな高低差によって生命の上水の路を創るという、なんとも考えられないことを、先人たちはしていた。

あの時、江戸の町で、全国から計り知れない多くの人たちが集まり、自然環境を始めあまりにも多様な「出会い」が成され、その人達が「生きる」ために想像を絶する試行錯誤を重ねつつ、「創る」ために実際に行動を起こし実践し、世界の東京の礎を完成させていた!

その圧縮されて創られた江戸の魂は、また全国各藩に散らばりながら、日本の美しい精神と技術の基盤となって、各地で生かされていったに違いない。

江戸の活気あふれる町の姿が、生き生きと脳裏に顕れる。

江戸東京博物館の展示は、他にもいろいろな観点で楽しめる。

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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡