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台湾 Ⅱ


今日、数十年前に生を受け....
そして人生で3度目の訪台を終えたことを記念して..
もう一つの「台湾」を、アップします。 

注:
1)「はじめに」と「1 銀杏の木」は、「台湾 I 」とまるっきり同じです。「2 訪台(台北)」から違いが出てくるので、そこから読まれてもいいかもしれません。

2)「台湾 Ⅰ」は「国家」を意識して書き、「台湾 Ⅱ」は国家を一切なくし、「自然」を意識して書きました。
       

          はじめに

そもそも、一般人が一国を語るなど、大変おこがましいことです。

私は若い頃、経験主義者を名乗っていたので、じっくり机に座って本を読んだり勉強したりすることは、大変苦手でした。

しかしあるきっかけから、「なぜ?」という疑問が「なるほど!」という答えになるまでの「過程」にハマり、それが楽しくなってしまいます。

それはちょうど幼い頃「なぞなぞ」を解いた時の、あの爽快感のようなものです。

気が付いてみれば疑問が疑問を呼び、もしくは勝手な妄想が妄想を呼んで、納得行くまでパソコンで探したり、本を読んだりするようになりました。

特にその謎解き作業は、情報化社会という時代背景が応援してくれたようです。
ありがたいことに、わざわざ図書館に出向いて調べなくても、目の前にあるノートパソコンが上手に案内してくれて、「ドラえもんのポケット」のように私を満足させてくれたのです。

なかでも「地理とか歴史は、嫌いではないけど・・」程度のレベルだった人が、今では世界地図と高校の世界史教科書を片手に、机の上でその「謎解き作業」をしているのです。

また同時に、その謎解き現場には、読んだ本が「積み木」のように積まれ、ある一つの単語にヒットするとその積み木を崩しつつ、その単語を「あさる」という、勉強嫌いからすれば想像すらできなかったことが、いつの間にか起きていました。

それも、全て50歳を過ぎてからのことです。
そしてその謎が解けた時の感動は、居てもたってもいられなくなり、それを残したいと思って「綴る」ことになりました。

結局ここに綴られていることは、そのような個人的な主観から出発しています。それはある意味、一つの「たわごと」かも知れません。

そしてその個人的な主観である「たわごと」も、固定されることなく、自由に変化し続けます。

しかし知った瞬間の感動は、まぎれもない事実であって、私の人生をも180度変えてしまいました。
そしてその「たわごと」たちは、今この瞬間も、私を幸せにしてくれています。

もしもそんな「たわごと」でも、皆さんの人生の出会いのきっかけになれるのであれば、そんな光栄なことはありません。
どうぞ皆さんにとって、今この瞬間が充実し、今日も素敵な一日となりますように。

          1 銀杏の木

7月初旬の日曜日、スコールのような雨が地面を叩く。
こんな日はフォルモサ(ポルトガル語:麗しの島)と呼ばれる台湾を、静かに想う。

激しい音が遠ざかり、ふと家の外の木の葉に目を配る。
青々とした葉の上で、雨粒が戯れる。

ここに引っ越してから、ちょうど8年ぐらいになるだろうか。
あの頃マンションの5階から見えるこの木は、目の前を覆うほどこんな大きな木ではなかった。

その瞬間、この葉っぱを見て気が付いた。この木は、銀杏の木だったのか。

いつも目にしていたこの木は、常にここにあり、生活を共にしている大好きな木だった。しかしこの木が何の木かは、それほど強く認識していなかった。

結局この大好きだと思っていたこの木のことは、よく知らずにいたのだ。
生活を共にし、いつもそばにあったとしても・・
実存そのものではなく、自分の「認識」の外だったために、実は出会っていなかった。

次の瞬間、思わず目の前の銀杏の木に申し訳ない想いと共に、感謝の想いが込み上げてくる。

こうして自然であっても、人であっても、またそれが地域や国であっても、自分の認識や観点の枠に入らなければ、出会うことを失うようだ。

それは自分という認識や観点の枠が、出会っていると錯覚を起こしてしまっているからだろう。
家の前の木が何の木かわからずとも、大好きな「木」だと思っていたように。

いったい私は人生の中で、どれだけちゃんと、出会っているのだろうか。

そもそも「出会い」とは、何だろう。

ちょうどここ2年前から、この言葉の意味を深く感じるようになっていた。
それは家の前の銀杏の木のように、20年間以上生活している韓国のことを、勝手な思い込みの中に留めていたことに、気付いたことから始まる。

ごく一部の観点による歴史の薄っぺらな出会いから、長い歴史を通してこの地が経験し抱えてきたそれらの傷が、私の心にじっくりと沁み込んでいった時に、遂にこの地の涙を知り、この地との深い出会いができるようになったからだ。

それは出会った瞬間の「驚き」と、それまで出会うことができなかった自分の姿勢に対する「反省」と、それでも出会うことができたという「感謝」の想いがギュッと一つになって、はち切れんばかりの「感動」を産み出してくれた。

そして今は何よりもこの「出会い」そのものに、すっかり魅了されてしまった。

今、目の前の銀杏の木が風に揺れる姿さえも愛おしく感じ、ほのかな感動を伴うように、「出会い」そのものがたまらなくなってしまった。

まさしくライフスタイル自体が、一瞬一瞬の出会いの連続であり、実は感動そのものだったのだ。

そんな中、魅力的すぎる「台湾」との出会いは、私を震わせた。

雨も上がって、日差しが照り始めてきた。

語り切ることなんか絶対できない「台湾」と、
そのすべてに魅せられてしまった想いを、少しずつ綴ってみよう。


         2 訪台(台北) 

初めて台湾を訪れたのは、去年の1月。
タイとシンガポールの出張帰りに、二泊だけの一時滞在であった。

夜の桃園空港は思ったよりも静かで、空気も柔らかかった。

空港から、黄色いタクシーに乗った。
その時運転手さんに、前日あった台湾総統選挙について尋ねてみた。

同時通訳アプリの機械音は、運転手さんにとって、やはり聞き取りにくかったようで、運転中何度か再生しながらでも一生懸命聞いてくれた。
今思うと、なんてぶっきらぼうなことをしてしまったのだろうと思う。

しかしその運転手さんは、信号待ちの時にメモ帳とペンを取り出して、お互い理解可能な漢字を使いつつ表記しながら、ハンドルの上でも話してくれた。

その時泊まったホテルのフロントの若い女性も、とても優しく対応してくれた。

「皆さんがよく行く、近くの美味しいお食事処を教えてください。」とお願いしてみると、本当に地元の人だけが行くような、質素で家庭的なお店を教えてくれた。

そのお店は、その後も何度か立ち寄ることになる、お気に入りのお店になった。

また当時、旅行の準備が追い付かなかったこともあり、 一日バス観光ツアーに便乗した。そこで出会った若いツアーガイドの女性も、お客さん一人一人に丁寧に接し、何故か温かいものを感じさせられた。

このように台湾で初めて出会った人たちからは、少なくとも「商業的なサービス」のようなものは感じられなかった。

純粋に一対一の人と人との出会いを大切にし、飾り気のない、ただありのままの「おもてなし」を感じた。

この国の人たちが持つ「やさしさ」は、いったいどこからくるのだろう。

また帰りの日、出発までの時間内に、台北の街を散歩してみた。

そのような意識の状態で、出会ったからだろうか。
この街全体が優しく歴史を物語っているようで、情緒漂う台北の街にすっかり魅了された。

その土地の深い所から沸き起こる「やさしさ」が私を包み、何故かその心地良さに溶けてしまいそうになった。

不思議な感覚に浸る中、ふと自分の無防備さに驚いたくらいだ。

この地が持つこの「無条件」さは、いったいどこからくるのだろう。

そんな初めての台湾との出会いは、まるで・・・・初恋のようだった。

土地に恋をする、一つの地域に、一つの国に「恋」をする。

今までの人生の中で、無かったことが起きてしまった。

自然に沸き起こるこの想いは、台湾を知りたいという強い願望となり、いろいろなかたちであらゆる情報を収集することになる。

しかしこの台湾は、あまりにも広範過ぎて、またあまりにも深遠で、私の認識の範囲を超えた。

だから私は、まだ「台湾」のことは、ほとんど知らない。

しかし私が出会ったすべては、深く心に刻まれ、私の人生を豊かにした。

今ここ、台湾のことを想う瞬間、幸せになれるのは、まぎれもない事実である。

梅雨に入った今年の6月中旬、再度、訪台の夢が叶えられた。

6月に入ったあたりから、台湾行きを思うとなぜか落ち着かない。

緊張しているようだった。だからその頃から、独学で中国語を習ってみた。

この土地と一つになるためには、その土地の言葉で思考することの重要性は、海外生活の中で強く感じていた。
だからできる限り、一言でも聞き取りたい、話したいという意志が先行した。

言葉に触れていること自体、意識が喜び、心がときめく。 この瞬間も、幸せだ。

飛行機の窓側の座席は、上空からでも出会うことができる最高特等席だ。
飛行機の中でも、単語一つでも覚えようと努力するが、逸る思いは暗記力をも低下させる。

青い空と、青い海、白い雲の間から、緑の島がやっと見えてきた!

ポルトガルから長い航海の果てに、出会ったこの島を見て、「麗しの島 フォルモサ」といった人たちのことを、ふと想う。
疲れ果てた航海の末、息を呑むほどの美しさに、どれだけ癒されたことだろう。その後も、多くの人がこの島の美しさを見てそれを確認し、名前が定着した。

名前とは本来、 認識の結果として、こうして付けられていくのだろう。

遂に到着し、台湾の大地を踏む。
再びこの地に触れることができることに、細胞が喜ぶ。

まだ何を言っているかわからないが、通りかかりの空港関係者から聞こえる、中国語もきれいだ。

産まれたての赤ちゃんが、母親の体内から外の世界に初めて触れた時の感覚とは、きっとこんな感じなのかもしれない。

私は台湾の地に、新しく産まれた。

今回は同僚からの勧めで、入国手続きをネットで済ませて来た。ちなみに、彼の情報の入手能力には、いつも感心させられる。

イミグレーションのお姉さんにそれを伝えると、軽く笑みを浮かべた。
その笑みは、私の緊張を解かした。また、あの時と同じ「やさしさ」に出会った。

一年半ぶりの期待は、やっぱり裏切らなかった。
とにかく、この国の人たちの、「素朴さ」はいったいどこからくるのだろう。

桃園空港から、松山空港に向かう。ネットで調べたとおりにバスのチケットを買い、募る想いを抑えながらバスに乗る。

やはり南国の台湾は、少し暑い。 
しかしこの暑ささえも、気持ちよく感じる。

松山空港で東京からの同僚に会い、今度は地下鉄に乗って、宿泊場所に向かう。
まるで現地滞在者のように、地下鉄も簡単に乗り換えができる。

今回の宿泊先は、偶然前回泊まったホテルのすぐ横にあった。

そう、あの時に往復した「道」に出会う。 それだけでも、胸がいっぱいになる。

       
   3 龍山寺(ロンシャンスー)と散策

ホテルがあるここ西門は、若者の街だ。
荷物をホテルに置き、同僚と一緒に散策をする。

道の中央なのに車の中から、芸能人らしき人が出てきて突然歌い出した。
いろいろな声をあげながら、通りかかりの人が集まり、それぞれのシャッターを押す。
これがゲリラ・コンサートというのだろう。私もその雰囲気に合わせて、思わず写真を撮っていた。しかしその歌手が誰かは、今でもわからない。

裏路地を行く。 観光客は、ほとんどいない。
目的は龍山寺(ロンシャンスー)だが、そこに行くまでの路がとても楽しい。
日常の風景にも、思わず足を留めさせられる。 時間がゆっくり流れる。

絢爛たる芸術作品のような龍山寺(ロンシャンスー)は、台北最古のお寺だ。
龍山寺の本尊は観音菩薩、奥の後殿には航海の守護女神である媽祖、学問の神として文昌帝君と、商業の神として関羽など、仏教、道教、儒教の神と歴史上の人物も合わせて祀られている。

台湾では多様な神様を、一緒に祀っているお寺が多いが、それこそ寛大でおおらかなこの国を表しているようだ。

また信心深い台湾の人たちはお年寄りだけでなく、20代などの若い人たちも真剣な面持ちでお祈りしている。仕事や恋愛、健康についてなど悩みごとや迷いごとがあれば、「ちょっとお寺に行ってくる」というのが、台湾スタイルだという。

ちなみに台湾では、人が亡くなると土に帰ると考えられ、49日後には次の人生がスタートとし、赤ちゃんとなって産まれてくるといわれている。

土に帰ってからも土の中で「社会」があると考えられていて、生活するにはお金が必要だとし、49日間お金に模した紙を家の前で焼く風習が今でも残っているという。
台湾では生活すべてが「共存」であり、悠久なる「循環」を感じさせる。

ここに、この国の「やさしさ」や「無条件さ」の一部が、あるのかもしれない。

その余韻に浸りながら、 観光客ではなく、ここの住民となってまた散策する。

隣の夜市入り口で売っていたすいかの切り売りが、美味しそうだ。
南国のみずみずしいそのすいかを買おうと思ったが、おじさんたちが何人か並んで待っていたので諦めた。

亜熱帯の暑さに、汗も滝のように流れる。
暑い夏のエアコンが好きな私の身体が、流れる汗による「爽快さ」を感じている。
このままずっと、この土地に足を触れていたい、この地を歩いていたいと思った。

少しずつ暗くなってきた。そういえば、今日来たばかりだったことを思い出した。
疲れを知らない心と身体に、言い聞かせるようにして、その日は若者の街で観光客になった。

翌日、朝の空気も穏やかだ。
ホテルのスタッフの、飾り気のない「温かさ」がうれしい。
その日も一日、心ゆくまで台北の街を散策し、心惹かれるままに歩いた。

「建築はグローバル化していて、その国の個性がなくなってきている。」と、台中国家歌劇院を10年かけて竣工した、世界的な建築家はいう。

しかしそのグローバル化に汚染されない、この台北の街が持つ個性は、多くの人達を魅了する。この街の隅々から、この国の生き方や哲学が感じられる。

だからこの街を歩いているだけでも、癒される。そう思うのは、私だけだろうか。

細かい雨の中、その日は台湾総統府・台北賓館・台北病院・逸仙公園・台北当代芸術館などを回り、最後はその芸術館のカフェでお茶を飲みながら休んだ。

同僚と二人、じっくりメニューを眺める。漢字のニュアンスで何が書いてあるのかだいたい想像しながら、二人でああでもないこうでもないと始まった。
それ自体が楽しくとても新鮮だったので、決めるのにずいぶん時間がかかったと思う。

しかしそのカフェの若い店員さんは、顔色一つ変えることなく、じっと待っていてくれた。そして結局、一番上にあったコーヒーを頼んだとしても、やさしい笑顔で対応してくれた。

また、出会ってしまった。

待つことができるこの国の人たちの、「包容力」と「寛容さ」はいったいどこから来るのだろう。

そもそもこの国では、時間の概念自体が違うのではないだろうか。

そういえば、時間とはいったい何だろう。

人類はいつの時代から、時間を認識するようになったのだろうか。

時間に関しては、いろいろな説がある。
時間がいつから存在するのかに対して、例えば科学的には「ビックバンのときから」という説や、宗教的なキリスト教的概念では「神が宇宙森羅万象を創造したときから」などがある。

一方、仏教的概念では基本的に「現在指向」で、計測時間の外で現在意識を軸に考察されているという。

時間の流れにおいても、過去から未来に流れているとする時間観と、未来から過去へ流れているとする時間観があるという。

時間の速さにおいては、人が感じる時間の速さはその時の気分や、年齢等によって変化するといわれている。また人間以外では生物種間の時間間隔・体感時間の相違があり、例えばゾウの時間とネズミの時間は違うという。

また、時間の長さを表すものとして、日・年・月と週・時・分・秒がある。
日は自転・年は公転、月は月の満ち欠け(月の公転)と関係があるが、週は7日をひとまとめとする人工的概念・制度(7曜制)で、キリスト教文化が広まる近・現代になるまで万国共通ではなかった。

一方、時は、古くから一日を12分割する発想はあったにしても、人工的に作られたものであり、分や秒に関しても歴史的にみればかなり新しい人工的な概念であり単位である。

そもそも人類にとって、太陽や月の動きが「時間」そのものであったのだが・・
現在の時間の定義になるまでに、いろいろと変遷した。
中でも「不定時法」は近世まで東アジアで使われていたもので、日の出から日の入までの12分の1が1時間とされた。 その後「定時法」として、視太陽日(正午から次の正午までの間、または日暮れから次の日暮れまでの間)の24分の1が1時間とされた。

また、時間が定義されながら、時計が創られた。その機械式時計の起源は・・・
中世ヨーロッパの人々が祈りの時間を教会の鐘の音で知り、996年には教会の鐘を自動的に鳴らす機械を設置した時から始まる。
英語の「clock」はラテン語の「cloccal(鐘)」に由来している。                                                                
のちの大航海時代の天文学の発達と、19世紀におけるイギリスが7つの海の支配者となり、また産業革命によって世界の工場になるためにも、時計の発明が一役を担っていたという。

またマルクスにおける資本論においては、資本家に対して労働者が己の労働力と時間を売り、その対価として資本家から労働者が賃金を得るものとされている。
現在この「時間」は、「労働」と「資本」に強いつながりがある。

結局このような時代背景の中「時計」も、人間の生活を規定するために作られた一つの「観点」であり、人工的産物なのだ。

では、そもそもこの「時間」とは、何だろう。

結局これは、人間が作った概念であって、人類が誕生しその人類が時間を「認識」してから時間が始まったという考え方がある。

確かに「認識」するから「存在」する。

結局「認識」しなければ、「存在」もしない。

認識するという「観点」をもってこそ、すべてを「存在」させているのだ。

そう、時間も「観点」だった。

本来人間同士の「疎通・交流」という目的のための一つの手段であった「時間」や「お金」や「労働」が、時代の流れの中でひっくり返ってしまったようだ。

どちらが目的で、どちらが手段なのか、わからなくなってしまった。

存在にとって「新しい出会い」のための「疎通・交流」が本来の目的であったにもかかわらず、いつの間にか「お金」が目的になり、それに付随する「時間」と「労働」がその条件となってしまった。

そもそも「お金」は物々交換のための手段だったのに、現代においてはお金が目的となって人を殺すことまでしてしまう。

「時間」も疎通交流のための一つの目安だったにもかかわらず、現代人は時間に規定される生活の中で、常に時間に追われたり縛られたりしてしまっている。

また「労働」においても、本来ならば共同体実現のためや自己実現のための手段だったにもかかわらず、手段にしか過ぎないお金のための条件となってしまった。

これらすべては新しい出会いのための、疎通であり交流であったにもかかわらず。

心が通い合う、新しい出会いのために
疎通や交流を通して、生きる力を得て
お互いに生かし合い、無限の可能性を引き出し合う
本来の人間としての尊厳を、その生き方を取り戻したい。

そんな疎通や交流を目的として存在する、人間と人間が出会い
やさしさや温かさを感じることができる、この台湾の人たちと
この国の人達が生活している、この土地に沁みこむ「愛」そのものが、ここにはあるような気がする。

このやさしさの中に、この素朴さの中に、この無条件さの中に・・
この温かさの中に、この寛容さの中に、この包容力の中に・・・。

そんな台湾にすっかり溶けて込んで、いつのまにか融合してしまった。

台北の美術館にある、小さなカフェ。
ゆったりとすべてを包むこの時空間の中で、本来の人間として再起動がされる。

小雨の中、傘の間から、台北の夜の美しい光が揺れる。

「まほろば」という意味を、じっくりと静かに想ってみた。


    4 紗帽山(シャーマオシャン)温泉

今日は、晴れた。 朝の目覚めが、気持ちいい。
この国に来て、毎日浄化されているようだ。

 
本来の人間の姿である尊厳そのものの在り方や、そんな人間が存在するための時空間である人類歴史と、この地球のことを想ったりする。

今この瞬間、人間と同じように、この地球も生きて呼吸している。
普段はなかなか認識されにくいが、以下の図を観るとそれが確認される。

地球上には「環太平洋造山帯」と「地中海ヒマラヤ造山帯」の二つの造山帯があって、その地帯では繰り返し造山活動が起こり、それに伴い生じた断層や大きな地質構造線に沿って火山が噴出し火山帯を造っている。
これらの地域は大地震も起こりやすい地震地帯で、よって温泉地帯でもある。

西ヨーロッパでは地下から湧き出る水を聖水と考える信仰があり、聖地に湧き出る鉱泉水や温泉水は、巡礼者の心身を癒す飲料水や沐浴に用いられた。
アジア地域のインドでは、釈迦が入浴したと伝えられる温泉が現存していて、インドの温泉はガンジス川と同様、沐浴して心身を清めるところとされ、中国では温泉を病気治療の力が備わった神秘的なものとされていた。

このように地球上にある温泉は、大地の神秘的な生命の恵みそのものなのだ。

この台湾も火山国で、約170ヶ所の温泉地があるといわれている。
翌日東京へ戻る同僚と一緒に、台北から一番近い陽明山の紗帽山温泉に向かうことにした。
台北の駅から地下鉄で20分ぐらい行ってから、地元のバスに乗り換える。

温泉に向かうバスが、どんどん山を登り、くねった道を悠々と移動する。
バスの中はお客さんも、それ程いない。 観光客らしき人も、いない。
目的の停留場で、3人のおばさんたちと一緒に降りた。
この方たちも、ここの温泉に来たようだ。
この地域は蓄えられている地熱の量が豊富で、常にきれいな水質を保つ水温56~80℃の、白湯(白磺)と青湯(青磺)の源泉かけ流しの温泉だ。

バスを降りたところから、温泉街特有の雰囲気と香りが漂う。なぜか落ち着く。
台北の大都会からほんの40分ほどで、こんなに大自然の中にいる。

またこの国に、そしてこの街に、魅せられてしまう。

太陽の光と新緑に包まれた露天風呂には、おばさんたちでいっぱいだ。
ここの泉質は、希少価値が高く湯量が少ない青湯だが、ここは湯量が少ない冬場でも源泉掛け流しだという。高成分で効果も抜群といわれているこの温泉は、地元の人からも愛されているらしい。

おばさんたちは思い思いに、温泉を楽しんでいた。
ある人はお友達と果物を食べながらおしゃべりをして食べ終わったらまたお湯につかり、ある人はほとんど寝ているようにお湯に浸り、ある人はお湯の外で日光浴を楽しみながら、昼寝をしていた。
私たちも、そんなおばさんたちの一員となって、そこの空気と一つになった。

大きな露天風呂のすぐ隣にある板の柵に、一匹のトカゲが見え隠れした。
小さくてまだ幼いと思われるそのトカゲの動きが面白くて、じっと見つめていると、すぐ隣にいたおばさんが微笑みながら、「トカゲだね。」と言ったようだった。また同僚も「トカゲですね。」というと、またそのおばさんは多分「大丈夫だよ、何も悪いことはしない。」と言ったようだった。
言葉は通じなくても、何故か心が通い合ってしまうこの感覚が、とても新鮮だった。

そこには使用する言葉が違うという、境界線もなかった。
あくまでも、心が通う「疎通」と「交流」が主体であって、言葉という手段にはとらわれることもない。
人間もこの壮大なる自然の流れの中の一部であることを実感する、瞬間だった。

私も同僚も隣のおばさんもそこにいる人達も、トカゲもお湯も木も川も山も空も、台湾もアジアも世界も地球も銀河系も宇宙も、そこには境界線が一切なく、一つの動きそのものである「尊厳」しかなかった。

お湯から上がって、腹ごしらえに薬膳料理を頂いた。
食こそ体をつくるという「食養」や「食育」という言葉もあるが、まさにこれこそが「薬食同源」だった。
体に、栄養分が吸収されていくことを感じる。  体が喜ぶ。
それはちょうど温泉につかって体の外から中へ、また薬膳料理を食べながら体の中から外へ向かって、人間の本来の体の在り方を整えてくれた。

そこでも人懐っこい店員さんが、親切に対応してくれて、サービスにスイーツをくれた。 美味しかった。
コミュニケーション自体を楽しんでいる台湾の人たちの、余裕ある生活が美しく映る。

帰りはタクシーを呼んでもらって、駅まで行く。
ここで言葉の壁を始めて感じ、目的地を理解してもらうまで多少時間がかかったが、そのせいなのか、到着した後に運転手さんが先に降りて、後方のドアを開けてくれた。こんなこともあるのか。いや、これが普通なのだろうか、それとも・・・

少し照れながら外から車のドアを開けてくれた、地元のタクシーの運転手さんのやさしさと、ぎこちない笑顔が忘れられない。

      5 ガジュマル(榕樹)の木
        

台北の街を歩いていると、南国を感じさせる木々がたくさんある。
中でも、ガジュマルの木は、台北の市木(樹)だ。

このガジュマルは精霊ギムナーが宿る樹といわれていて、その精霊は多くの幸せをもたらすことから「多幸の樹」とも呼ばれている。

           (台北の街のガジュマル)

枝からひげのようなものが、さわさわと垂れ下がり、風に揺れている。
このひげは「気根」といって、地上の茎から出た根っこだという。
気根は主に、空気中からの水分の収集や排出をする役割があるという。
この気根から見れば空気中がまるで土中のように水分などが豊富なので、空中からでも根を生やしてしまうという、ある意味かしこくてせっかちな奴かもしれない。
なんせ空中にも養分が豊富にある南国だからこそ、このような姿にもなれるのだろうとも思い、北国にはないこの木が何故か愛らしく感じられた。

枝から垂れ下がる気根はそれ自体成長を続け、自分の幹に巻き付くこともあり、さらに成長を続けると遂に地面まで到達して根付いてしまう。

根付いた気根の表面には樹皮ができて、最後には幹と区別がつかなくなり(支柱根)、さらにこの支柱根がしっかり四方に根を張り、りっぱな成木になってしまう。

枝(茎)から根っこが生えて、茎になり、幹になり、それが大木になる。
この境界線のない木が大木になった姿は、2年前にハワイ島で出会っていた。

          (ハワイオハフ島のガジュマル)

この樹木たちの、凄まじいまでの生命力には感嘆させられる。

台北のガジュマルの木は、都会に降り注ぐ強い日差しをさえぎって、市民たちに癒しの空間を提供していた。
台北の街の歴史を全て知っている、このガジュマルの木々たちは、今日もこの国の人々をやさしく見守ってくれている。

すべてがありのままで共存し、ありのままで疎通・交流し、ありのままを生かし合う、この台湾の台北の街に、私はいる。

人間の思考の中でつくられた観点などには、とらわれることなく、人は人として人のままで、自然は自然として自然のままに、それぞれが精一杯生きていた。

「生きる」ということは、例えば・・・

地球の中心で熱く燃えるマグマのように、今この瞬間一点に集中して噴出しながら、新しい生命を創っていく造山活動のようなものであり・・・
ガジュマルの木のように、空気中の根っこが疎通しながらいつの間にか大木の幹になり、その境界線を無くして循環そのものになって、どんどん成長するようなものでもあり・・・
台湾の人たちのように、歴史的に通過せざるを得なかった環境を全て乗り越えながらも、やさしさと素朴さと無条件さと、温かさと寛容さと包容力を持って、未来に前進し続けていくその姿、そのものなのではないだろうか。

では私たちは、この台湾の人たちと自然のように、ちゃんと生きているのだろうか。

観点の中だけを右往左往しながら、「生きる」ことを見失ってはいないだろうか。

既に現在は人工知能にデープ・ラーニングをさせて、人間以上の知能を備えるようになってしまった。

今この時こそ、人間の尊厳を爆発させるため、出会いと感動の機能を向上させ、全人類が「生きる」歓喜に満ち溢れる世界を、創っていきたい。

人工知能が真似することができない、人間一人一人の荘厳なる無限の可能性を、思う存分発揮することができる、集団知性体の安心の海である「共通の土台」を創っていきたい。

この台湾の人たちと自然たちが、しっかりと生きてきたように・・
私たちも、もう、しっかりと地面に足を付けて「生きる」ことを選択しよう。

荘厳なる自然の一部である人間として、自然に恥じることのない人間であることを選択しよう。

再びこの台湾の地を、訪れることを約束しながら・・・

猛烈な雨の中、台北上空の厚く鬱蒼たる灰色の雲を、一つの意志が貫いていった。

そこには、平穏なる太陽の光が、初夏の雲を照らし、熱く輝いていた。

     

                完

                           2017年8月6日  nurico

≪参考文献≫

「日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む」伊東豊雄著

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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡