ショートショート「朝食の時間」

「これは夜食なんです」と紳士はぼくに話した。
ある蒸し暑い日、ぼくは昼食をとりにカフェにでかけた。ところが、席は満席である。ぼくは肩をすくめ、その場を立ち去ろうとしたその時、声をかけてきたのが前述の紳士である。
「相席でよろしければ」
暑さの中、他の店まで歩くのはうんざりだったし、紳士の佇まいにも好感を覚えたので、ぼくは相席させていただくことにした。ぼくはメニューに目を通し、食事と飲み物の注文を給仕に伝えた。紳士の料理もまだ出されていなかった。手持ち無沙汰も手伝って、ぼくは紳士となんとなく話始めた。
紳士の言葉には、聞き慣れない訛りがあったが、その話題や話術はぼくを退屈させなかった。ある時はとてもペシミスティックであり、ニヒルであり、シニカルであり、しかしながらその一つ一つの話に卑屈めいたものはなく、聞いていて実に楽しかった。紳士は多弁だった。料理がテーブルに並んでからも、紳士は喋り続けていた。
「わたしは実は亡命者なのです」紳士はそう言った。「残念ながら、まだこの土地に来たばかりで知り合いがいないのです。久しぶりに人と話せて、わたしはとても嬉しいのです」
それから紳士は、ひとしきり自国の現政権の批判を繰り広げた。それはあまり知られていない、惑星の裏側の国の話であった。ぼくは紳士の話す政治家や、軍人について、全く知らなかった。それはあまりに遠いところで起きたことなのだ。
紳士の食事は、簡単なものであった。ぼくではとてもではないがそれでは足りないという量だ。
「ああ」と紳士はぼくの視線に気付いてそう言ったのだ。「これは夜食なんです」
「夜食?」
「わたしの国では、今頃ちょうど真夜中です。だから、これは夜食なんです。どうも身体がまだこの土地の時間に慣れていないようなのです。わたしの身体だけは、まだあの国にいるつもりでいるのです」
食事を終えて、ぼくは暇ごいをしてカフェをあとにした。それから紳士とあったことはない。
ぼくは時折、真夜中に、紳士が狭い部屋で、一人昼食を食べている姿を想像する。

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