ショートショート「未来の記憶」

小さな頃、夏になると祖母の家に滞在するのが恒例だった。祖母の家は二階建てで、その両方の階にトイレがあった。二階のトイレの窓からは背の高い煙突が見えた。白と赤で塗り分けられた煙突だ。昼にはそれがもうもうと白い煙りを吐き上げるのが見えた。夜になるとそのてっぺんのライトが瞬くのを見ることができた。
兄はそれを見るのが好きだった。おそらく好きだったのだろうと思う。一度もそれが好きかどうか確かめたことはないけれど、用を足したにもかかわらず長い時間トイレに籠ることがあったのだ。外で早く出るよう催促しても出て来ず、階下のトイレまで下りなければならないことがしばしばあった。ぼくと兄には二階の部屋が寝室としてあてがわれていた。夜中、尿意を催してトイレに入ろうとしても、兄が中で鍵を閉めてしまっていて、階下にまで行かないとならないことも幾度かあった。
兄は変わった子供だったろうと思う。周りの大人たちは兄をもて余していたと思う。いつもぼんやりしていて、人の話を聞かない。学校でもそんな具合で、成績はとびきり悪かった。ひどく無口で、まともに意思の疎通がとれない。
ぼくだけは、兄の秘密を知っていた。だから、なぜ兄がそんな具合だったのか、ぼくには理解できる。
兄は時折予言のようなものをすることがあった。誰かが大病を患うとか、大怪我をするとか、場合によっては死ぬという予言を。兄はそれをぼくだけに話した。話したと言っても、普通の言葉ではなく、兄弟の間でしか通じない言語で。兄には未来が見えているのだと思った。しかし、兄はそれを否定した。兄は未来を記憶しているのだ。普通の人間が過去を記憶するのと逆に、未来を。その代わり、兄は過去が記憶できなかった。だから、何かを学校で学んだとしても、兄はそれを忘れた。というかそもそもそれは兄の記憶に何の爪痕も残していないのだ。
兄は未来を思い出していた。それで予言をしていたのだ。
祖母の家は人手に渡ってしまった。あのトイレの窓から見た風景を目にすることは二度とないだろう。もしかしたら、兄はあの風景を見ながら未来を懐かしんでいたのかもしれない。
兄がその時何を思っていたのか、今では知る術がない。果たして、少しずつ記憶を失い、自分の死が近づいてくるのを感じるのはどんな気分だろう。

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