ショートショート「一瞬」

彼の右頬を彼女が平手打ちした、その一瞬。
彼がなぜ平手打ちを受けなければならなかったのか、彼女がなぜ平手打ちをすることになったのかは語られない。それには理由があるだろう。もしかしたら、込み入った話かもしれない。物事の原因はたいてい複雑に絡みあっていて、単一のそれに還元できない。むしろそういう場合の方が多いくらいだ。まあ、何はともあれ、それはここでは語られない。
そして、彼が平手打ちを受けた後、彼女が平手打ちをした後、どうなるのかもわからない。それはある程度は原因に関わる部分があるし、実際そうなってみないとどうなるかわからないのが世の中でもあるからだ。根本的なところで、全ては予測不能だ。この平手打ちが何を意味するのか、それは文脈に左右されるだろう。しかし、この瞬間、この瞬間だけを捉えるならば、文脈などというものはない。これは一瞬の出来事であり、一瞬のみを扱うからだ。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、太陽は天頂に達しようとしていた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、三十四人の赤ん坊が産声を上げた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、二十七人の人間が息を引き取った。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、彼らの隣の部屋では若い男がマスターベーションの絶頂をむかえる瞬間だった。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、街のレストランで、客が出された料理に髪の毛が入っていたと責任者を呼びつけた瞬間だった。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、ニュースを読んでいたアナウンサーが間違った言葉を言った瞬間だった。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、電車が揺れ、乗客の肩と肩がぶつかった。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、本を読んでいた人がページをめくった。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、売店の店員が人目を気にしながら鼻をほじった。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、料理をしていたお母さんはセロリが無いことに気付いた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、お父さんは顧客に頭を下げた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、息子は上級生に殴られた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、弾丸は空気を引き裂き、標的目指して飛んでいた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、社長が重大な決断を下した。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、社員はラーメンをすすっていた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、独裁者はため息をついた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、王はかしずかれるのに飽きはじめていることに気付いた。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにその瞬間、神様があくびした。
彼女の手のひらが彼の右頬に触れたまさにこの瞬間を、あなたは一瞬とは言えない時間をかけて読んだ。それは一瞬とは呼べないくらい長い一瞬だった。

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