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クサビのクルマと家 いすゞ ピアッツァXE ハンドリング・バイ・ロータス(1990年型)ISUZU Piazza XE handling by LOTUS(1990)


 東京都心から30kmほど北にある埼玉県の川越市は江戸文化を特色とする街で、中心部には蔵や古い建物が数多く残っていて、国内外からの旅行者の人気を集めている。
 相田祐次さん(55歳)は川越生まれの川越育ちで、いすゞ・ピアッツァXEハンドリング・バイ・ロータスに22年間も乗り続けている。
 ピアッツァが好きで、運転免許を取ってから、これとその前のと、自分のクルマは2台のピアッツァしか持ったことがない。
 最初に持った1983年型ピアッツァネロXEに7年間乗った。
「いすゞの乗用車はモデルチェンジの間隔が長いので、いずれ3リッターV6ターボエンジンを搭載した最上級版が出るのではと期待して待っていたのですが、そんなことはありませんでした」
 ”2代目ピアッツァ”と称されて出てきたクルマは、ジウジアーロのデザインしたものではなかった。いすゞがGM向けに開発製造した「ジオ・ストーム」をベースに製造され、初代の後輪駆動から前輪駆動に変更された。
 僕もこのモデルチェンジは良く憶えている。2代目ピアッツァは初代のように美しくもなければ、未来的でもなかった。メーカーの都合で造り上げられたようなクルマに過ぎず、車名が同じというだけで何の関連性もなかった。ピアッツァの名前を汚すもので、第一、デザインしたジョルジェット・ジウジアーロに失礼ではないかと我が事のように嘆いていた。

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 ここで、香港と中国の読者のためにいすゞ・ピアッツァのことを少し復習しておきたい。
 ピアッツァは、まず1979年のジュネーブモーターショーで『アッソ・ディ・フィオーリ』というコンセプトカーとして発表され、1981年にいすゞから2ドアスペシャリティカーとして発表された。
 アッソ・ディ・フィオーリはイタリア語で「クラブのエース」という意味で、当時、ジウジアーロは「アッソ・ディ・~」と名付けられたコンセプトカーを次々と世界各地のモーターショーに出展していた。
 いすゞは、アッソ・ディ・フィオーリのデザインのオリジナリティを極力損なわないようにピアッツァを造り上げようと尽力した。初代いすゞ・ジェミニのシャシーを流用するためにトレッドを狭めざるを得なかったり、当時の日本の法律によってドアミラーがフェンダーミラーに変更されたりといった後退点はあったとしても、いすゞは見事にアッソ・ディ・フィオーリの商品化に成功した。
 当時のジウジアーロは飛ぶ鳥を落とす勢いで、日米欧韓の非常に多くのクルマをデザインした。
 スポーツカーやスポーティクーペで彼が好んだのはウエッジシェイプである。贅肉を削ぎ落としたボディは直線基調に抑制され、クサビのように力強く前進していくようで、一目でジウジアーロだとわかった。
 マセラティのコンセプトカー『ブーメラン』やロータス・エスプリ、少し時代は下がってランチア・デルタなども、ジウジアーロ流のウエッジシェイプだ。ピアッツァはそれらのクルマほどには線や面の処理が鋭利ではなく、ボディの端々は丸められている。ヨーロッパ車にはない日本車の優美さを感じさせ、そこがピアッツァの個性と魅力になっているのだと思う。

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 相田さんはジウジアーロ作品ならば何でも構わないというわけではなく、ピアッツァが好きなのである。
「ゴルフは窓の形、シロッコはプロポーションが好みではなくて」
 いすゞとジウジアーロの関係は1960年代の117クーペ時代にまで遡る。まだカロッツェリア・ギアに所属していたジウジアーロがデザインした117クーペは、当時の日本の路上ではその存在が浮き上がってしまうほど華麗なカタチをしていた。
 だから、僕ら日本人は117クーペの後継車であるピアッツァには特別な感情を抱いているし、いすゞもそれを十分以上に活用していた。本来は黒子であるはずのカーデザイナーのジウジアーロをピアッツァのカタログの第1ページ目に大きくフィーチャーしていたほどだ。
 ピアッツァが今でも日本でカリスマティックな人気を保ち続けているのは、ジウジアーロの造形そのものが素晴らしいのと同時に、”カーデザイナーの造形を楽しむクルマ”という特別なポジションを認めているからである。
 実際にピアッツァのパフォーマンスは造形ほどには鮮烈なことはなく、シャシーもエンジンも時代遅れの初代ジェミニのものを共用している。
 しかし、それでピアッツァの名声が蔑まれるようなことが微塵もなかったのは、完璧な美がピアッツァに備わっていることを誰もが認めていたからである。

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 相田さんは”本物の”ピアッツァにずっと乗り続けたかったから、生産終了になったことを知り、程度の良い中古の初代を探した。見付けたのが現在乗っているXE ハンドリング・バイ・ロータスだ。
 3年落ちを1993年に購入して乗り続け、2006年に大規模なレストアを施した。ボディ各部の腐食を板金修理して、エンジンをボアアップ。当初は、オーバーホールのみの予定だったが、オーバーサイズのピストンがあることを知り、ボアを0.5mm拡大して排気量を1994ccから2017ccに増大させた。費用は全部で78万円。
 日本では2000cc以上の排気量を持つクルマは中型車に区分され、税金なども変わってくるため、相田さんは改造申請を行って受理された。
「その時は、少なくとも拡大した排気量2017ccにちなみ2017年まではずっと乗り続けたいので、交換できるパーツはすべて交換して将来に備え、ナンバーも2017として、できるだけ長く乗りたいなと願いました」
 それは今でも変わらない。相田さんは、何に対しても自分の好みをハッキリと持っていて、他人と同じものでは満足しないタイプだ。それを実現するためだったら、多少の手間も面倒臭がらない。凝り性なのである。

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 そんな人柄はピアッツァのレストアだけではなく、自宅にも表れている。
 自宅を建て替える時に、相田さんは東、西、南方向の屋根を、それぞれ片流れの傾斜屋根とした。家の中心に向かってクサビのように尖っているように見える。もちろん、ジウジアーロのウエッジシェイプへのオマージュである。
 建築会社が当初に提示してきたプランでは、西側の屋根は平らなものだった。
「設計に入る前の段階では、それぞれの屋根の外側を下げたカタチにすればクサビのように見えるとは気付いていませんでした」
 建設会社といろいろとやりとりをしているうちに閃いたのだという。家という、クルマよりもはるかに大きく、完成してしまったら修正は容易に行えない買い物を、自分好みに造らない手はないと相田さんは強く自覚した。
 建設会社を決めるのにも、建築事務所と大手ハウスメーカーとでコンペを行ったほどだ。建設会社とのやり取りは普通ならば3~4カ月で終わるところ、相田さんは半年掛かってしまった。
 家が完成してからも、好みは貫いた。自分と妻子が住む棟と両親が住む棟の間に、京都の龍安寺風の枯山水を作ったのだ。それは、親しくしている庭師に相談し、地元の鳶職に依頼した。
「ここもグラインダーで削ってもらって、ウエッジシェイプにしてあるんですよ」
 本当だ!
 コンクリートの壁の上部が斜めに削り落とされていている。ここもウエッジシェイプだ。見落としていた。
 ウエッジシェイプではないけれど、相田さんが自室から「太陽の塔」のミニチュアを取り出してきて見せてくれたのも、実に相田さんらしかった。
「仏壇には仏像ではなく、これを置きたいですね」
 その気持ちはよく分かる。1970年に大阪で開かれた万国博覧会は小学生だった僕に大きな影響を及ぼしたし、お祭り広場の天井を突き破って広い会場を睥睨していた、岡本太郎の傑作「太陽の塔」は僕らの世代こそが崇め奉るべき対象であるからだ。
「なにごとも、”見立て”で楽しむのが好きですね」
 万人受けを良しとせず、他人と同じことを嫌う。その方針が家の屋根からクルマのエンジンにまで気持ちが良いくらいに徹底されている。
 ただ、漫然と相田さんの家を眺めただけでは彼の想いは伝わり難いだろう。コンペの結果、任せたのはハウスメーカーのうえ予算の制限もあるから、使う工法や部材などは限られたものの中から選ばなければならない。だから、一見すると、よくある住宅にしか見えない。よほど家に関心のある人か専門家でないと、すべての屋根の外側が下がっていていることには気付かないだろう。それでも、相田さんは一向に構わないのだ。
「わかっている人に、わかってもらえればそれでいいですからね」

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 相田さんの運転で、ピアッツァの助手席に乗せてもらって、川越の中心部に向かった。川越の中心部は、近年、「小江戸」とか「蔵の街」といって観光客に人気がある。古い町並みが整備され、とても雰囲気が良い。昔の建物をリノベイトしたさまざまな商店やレストラン、カフェなどが充実していて、ブラブラと歩いているだけで楽しくなってくる。
 ピアッツァのウエッジシェイプは窮屈そうに見えるけれども、実際の車内はそれほどでもない。後席には大人が2名きちんと座れるだけの空間がある。
 空間の余裕よりも驚かされたのは、シートだ。ツィードジャケットのヘリンボーン柄のような表地を持つバケットシートはお洒落なだけではなく、実に掛け心地がよく、しっかりと身体を支えてくれる。経年変化によるヘタリがほとんどないのにも感心させられた。ピアッツァは見た目だけでなく、その車内空間も大人っぽいのだった。
 撮影のためにピアッツァが大きな池のほとりを往復する姿を眺めていたが、実にカッコいい。ピアッツァよりも速いクルマはたくさんあるけれども、こんなに優美なクルマは残念ながら今の日本には存在していない。
「通算して30年。リアルタイムでピアッツァに乗れている幸せを感じています」
 先日、ジウジアーロも長かった現役生活からの引退を発表した。あの頃のように、スターデザイナーのコンセプトカーそのままのようなクルマはほとんど姿を消してしまった。というよりも、ジウジアーロのようなスター性を持ったカーデザイナーが存分に腕を揮える時代ではなくなったというべきなのだろうか。
 走行性能でもなく、環境性能でもなく、ましてや経済性などでもなく、クルマが美というものに寄り添える時代が再びやって来ることを願っている。

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)

文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
Special thanks for TopGear Hong Kong http://www.topgearhk.com

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