クライミングにおける自己責任について考える

そこは静かで暖かかった。岩はほんのりと暖かくて静かで、まるで居眠りをしている巨大な生物にしがみ付いているような気持ちになった。

「そこちょっと高い位置にフットホールドないかなー!?」

ロープが小刻みに震える。このロープは今、僕とビレイヤーを繋ぐ文字通りの命綱だ。

フットホールド・・・これか?見つけたホールドは少し尖っているだけのなんとも頼りない突起だった。「本当にお前は効くのか?おい頼むよ」意を決してホールドに乗り込むと想像に反して恐怖感もなく安定した姿勢が取れた。

ボルトが手に届く位置にやってきたので、ハーネスからクイックドローを一つ取り出してセットする。えーと、進行方向はこっちだからカラビナのゲートはあちらに向けて・・・

ロープを辿った先にいる師匠の教えを思い出して丁寧に作業を進めた。

リードクライミングの経験が浅い僕にとって外岩でのリードはいつか実現できるかもしれない夢でしかなかった。初心者講習を受けてジムで何度か登っただけの若造にとってそのハードルは果てしなく高いように思えたのだ。

何気ない会話の中でそれを察して「じゃあ近々行ってみようか」と声をかけてくれたのが師匠だった。

師匠は外岩へ行くにあたって様々なことを教えてくれた。明確に弟子入りしたわけではなかったが、傍から見てもそれは師弟関係以外の何者でもなかったと思う。

師匠はどんな時も声を荒げずに僕の判断を待つ人だった。何に関しても否定された記憶がない。僕がやりたいと言えばやらせてくれたし、やりたくないと言ったことに対して煽ったり馬鹿にすることもなくそれを受け入れてくれた。

「怖いとか、やりたくないって言う気持ちは大事なんだよ」そんな感じのことを言っていた記憶がある。

基本的には僕の自主性を尊重し、僕が考えることを待って、その結果足りないものがあれば自然と補ってくれる。クライマーとして卓越はしていなかったが、自分自身もこうありたいと思わせてくれるクライマーだった。

小川山ストーリーをマスターで登る提案をしたのは師匠だった。師匠が判断したのであれば登れるのだろう。それでも不安が滲む僕を見て「ここは特に景色が最高なんだよ」とだけ言った。

小川山ストーリーは廻り目平キャンプ場の入り口ゲートから入った時に、左手に見える岩壁にある課題だ。初めてボルダリングで訪れた時に原色のシャツを来たクライマーが登っているのを見かけて驚愕した覚えがある。

映画でしか見たことのない光景。画面の中の出来事ではなく実際に誰かが登っている。現実感のない現実。いつか自分もあそこへ・・・なんて思うこともなくただただ衝撃だった。

実際に登り始めてみるとマスターでのリードは普段のリードとは違ってクイックドローを持っている分だけ重いし、それをボルトに設置する手間があるから想像以上に疲れるし時間がかかる。

独り言という名の岩との会話が増えて、なるほど自然と会話するとはこういう事か、と一人で勝手に納得した。時間はあるが話し相手が岩しかいないのだ。

つまらない会話を繰り返し、ただひたすら岩だけを見つめて着々とゴールへと近づいていく。途轍もない時間を費やしたような感覚。

だから小川山ストーリーの終了点に到達した時、後ろを振り返ってひたすら感動した。こんな景色が世界にあるのかと、涙すら出そうになった。

遥か下の方には廻り目平キャンプ場のゲートが見える。そこから僕の姿を見つけて「すげー」なんて声を上げている人がいるのかもしれない。

どれくらいの間景色を眺めていたかはわからないが、その間師匠は静かにロープを握り続けてくれていた。

「テンションお願いします!」その合図で師匠の待つ地上へと戻る。

降りてから僕は「ありがとうございます!」とか「最高でした!」とか、多分そんなことを言ったのだろうけれど、頂上で見た景色の印象が強すぎて何も覚えていない。


最近ふとしたきっかけで、自分がリードをしていた時はどんなことを考えていたかな、と思い出していたのですが、なんかもう単純に楽しかったなって言うだけでした。

リードなんかは特に自己責任と言う意識を持って登るべきだとは思うのですが、リードに置いての自己責任ってめちゃくちゃ主語のでかい自己責任って言うか、ロープの先にいるビレイヤーだとか、同じ岩に登る別のクライマーだとか、その場所を開拓した先人に対する責任も負うし、負ってもらうってことだと思うんですよね。

僕は師匠に恵まれたのでそういう意識が特に強くなったのかもしれませんが、昨今発生している問題だとか、クライマーの意識の低下に対して、なんでそうなるのかなって腹が立つと言うか単純に疑問なんですよ。

なんでしょうね。クライミングに不必要な要素が取り込まれると途端に本質が破綻するんですかね。

まぁ結局見守るしかないんですけど。今ってクライミング業界における分水嶺なのかなと思っているので、良い方向へ向かっていくように願っています。

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