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阿修羅に捧ぐ手記 #孤独死#絶倫男#年収1500万   

 私はそのひとを先生と呼んでいた。私が先生と知り合いになったのは大阪にある大学の学生寮である。私も先生も高校を卒業したばかりの田舎者であった。同級生に対してなぜ先生と呼ぶようになったのか?先生には誰かに気を遣うことのないよく言えば堂々とした、悪く言えば幾分高慢な雰囲気があり、奥手で引っ込み思案の私には恐れ多い存在だった。浅黒い顔色、太い眉、眼光鋭い野心的で精悍な青年であった。文学部のおとなしめの私、経済学部で遊び人の先生、タイプの異なる二人が還暦までの付き合いになるとは、出会った当時はまったく想像していなかった。
 7月...大学は休みとなったが、梅雨の終わりの荒天に学生たちは寮でくすぶっていた。すると3年生のK先輩から私と先生に出動の指令がくだった。昭和の封建的な大学寮では上下関係は絶対であり、先輩が思い立ったら後輩は猿と雉のようにどこへでもお供するのであった。「祇園祭にいくぞ!!」K先輩のカローラレヴィンは、雨の中を京都に向けて走り出した。2時間ほどのドライブの後、四条河原町に三人は降り立った。夜の京都は雨があがり、祭りの喧騒に包まれていた。そこでK先輩から私と先生は女子をナンパするよう厳命を受けた。男子校出身の私がおどおど自信なく女子に声をかける一方で、女子と遊び慣れていた先生は水を得た魚のように嬉々として女子に近寄っていった。何組かの女子に声をかけても収穫がないところに、しびれを切らしたK先輩自ら女子大生二人組に声を掛け、オトコ三人と女子二人で祇園のディスコに入店したのである。その晩がきっかけで、先生と私は友達となった。翌年は沖縄へナンパ旅行、またその翌年は石垣島に約1ヶ月滞在し壮大な自然を体感し、大阪に戻ってはともに道頓堀の飲み屋で働き、夜の街を朝まで二人で彷徨った。私が少年から大人になるまでの数年間の記憶には常に先生の姿がある。先生と私の共通点は、群れないところであろうか?先生も私も変にプライドが高く、寄り添い集まる群衆を冷めた目で見下すところがあった。群れないというと少しかっこよいが、単に人間嫌いだったのかもしれない。

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 男子校出身で奥手な私にとって、先生の異性との体験談はどれも驚くようなことばかりだった。高校時代、女友達と素っ裸で日本海で泳いだという話、大学寮は3人の相部屋にもかかわらず、頻繁に女子を連れ込んでいたこと、あるいは彼女のアパートに転がり込み、ひも生活をしながら、きゅうりやナスを彼女の体内に挿入し、それをまたおかずにして食べていること、、、など。武勇伝ばかりではなく、女子に振られることもあった。そんなときは、私の400ccのバイクの後ろに先生が乗り、振られた女子の家の前で「あしゅらあっー」と叫んだりもした。先生は鬼神である阿修羅をなぜか自身に重ねていた。先生は安寧よりも葛藤を好む破滅的な人格を持つ若者であった。悪ぶることで自分を強く装いたかったのであろうか?

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 野心家の先生は就職活動も順調だった。京都の名門メーカーから内定を得ながらも、証券という派手な金融の世界に就職した。入社後まもなく世の中はバブルに突入する。先生は学生時代にナスやきゅうりで弄んだ彼女をあっさり捨てて、二十代半ばで社内結婚をした。名古屋勤務の先生は地方独特の豪勢な披露宴を催した。虚構の宴であった。キラキラの羽織袴で演歌歌手のような先生の姿を私は忘れることはできない。子宝にもすぐ恵まれ、幸福の絶頂期のはずであった。

 しかし数年後、私は先生から離婚したという知らせを聞いた。かわいい盛りの娘さんと離れ離れになりながらも、先生は寂しいとも悲しいとも弱音を口にしない。それどころか新しい彼女がいかにお嬢様で美しいか、そして淫らであるかを悪びれることなく自慢してきた。先生の年収は一千万円台半ばに達し、休暇にはお嬢様の彼女とNYに飛ぶなど、バブルが終わっても贅沢三昧の日々であった。

 威勢のよかった先生にも30代半ばから影がさしはじめる。まずはお嬢様の彼女が先生のもとから去って結婚の道を選んだこと。また証券会社のパワハラ体質にも嫌気がさし、大手証券会社も辞めてしまう。しばらく後、転職先企業へ提出する保証人を先生は私に依頼してきた。先生には教職につく兄がいたのだが、堅実な兄とちゃらんぽらんな先生は仲が悪く、保証人を兄に断られたということだ。ギラギラしていた先生の顔にも疲れが見え始める30代後半になり、もはやナンパもできなくなった先生は、寂しさを埋める場所として、大阪桜川の風俗ビルに通うようになった。地下のショーパブでは、麗しいショーガールたちが、ほぼ紐という衣装で客を出迎える。ステージではポールダンス等の様々なショーが演じられ、ショーの合間にお気に入りのショーガールの紐パンツに夏目漱石を挟むと、彼女が手をつないでカーテンで仕切られた空間につれていってくれる。夏目漱石の枚数によって彼女たちは愛欲を身体で表現してくれるのである。私はボーナスが出たときだけその空間に足を運んだが、先生は頻繁に通いつめ、ご贔屓のショーガールとは店の外でも逢う関係性を築いていた。

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 40代半ばになり、知人の勧めで先生は2回目の結婚をした。本人はあまり乗り気ではなかったようだが、老後の不安も頭をかすめたのだろう。結婚を告げる先生の表情に笑顔はなかった。私は何とも言えない不吉な予感を覚えた。それでも一年後には娘を授かり、娘のかわいさ自慢をするような普通の男になっていた。一方で妻に対する不満や軽蔑の言葉を聞くこともあった。妻に対しては家庭的になれない冷徹なオトコであった。

 先生を襲った悲劇は突然であった。仕事を終えて自宅マンションに帰ると中はもぬけの殻だったそうだ。妻の家財道具一式も2歳になったばかりの愛娘も跡かたなく消えていたのだ。家を出る話も予兆も全くなかったそうだ。水面下でことを進めた妻に対する不信と愛娘を奪われたつらさは、憎悪の念となったことであろう。やがて家庭裁判所から離婚申し立てが届いた。DVを理由に妻とは連絡もとれない事態であった。先生は暴力は否定していた。ただし妻を愛していなかったことは事実で、言葉と態度で相手を攻撃していたのであろう。40後半となって愛娘を生きがいとしていた先生にとって、喪失感は半端なかったようだ。それまで強気一辺倒だった先生も気が弱くなってしまった。自己が崩壊し見境のつかなくなった先生は、先妻の娘に泣きの電話をしてしまう。20そこそこの娘にとって、何年振りかの実父からの電話が、再婚の妻子に逃げられたという情けない泣き言であることは、彼女にとってどれだけ残念なものであったろうか?先妻の娘は先生との関係を断った。先生は二人の娘を失った。30年来の付き合いの中で初めて私に弱音を吐露した。私は慰めるすべがなかった。若いころ阿修羅を標榜し悪ぶってみせていた先生はもはや強がることはなかった。

 絶倫を誇った先生の下半身も、次第に力を失った。長年の深酒もダメージとして蓄積されたのだろう。それまでは私と先生の間ではオンナの話題ばかりであったが、先生はほとんど下ネタを口にしなくなったきた。私は魔法の薬バイ◯◯ラを先生に渡した。もう一度絶倫の男に戻って欲しい、そう願っていた。しかし後日魔法の薬の成果を尋ねると、先生は「全然ダメだよ」と首を振った。先生は女子の前ではなく、一人のときに薬を試したらしい。それでは精神的興奮がないので薬の効果は出ない。先生はフーゾクに行く意欲さえ無くしていたのだ。
 先生はある飲み屋の常連となる。そこは韓国人姉妹のカウンターの店である。寂しい先生はほぼ連日通っていたようだ。美しく快活な妹に惹かれていたようである。かつてのナンパ師も50代になると飲み屋のママだけが心の拠り所になったのだ。先生はこころの隙間を埋めるため客とママという関係を越えようとしてしまう。ママに恋心をぶつけてしまった。ママは先生を恋人として受け入れることはなく、恋に破れた先生はママを罵る。遠いむかし、学生時代に振られた女子の家で「あしゅらあー」と叫んだ攻撃的な精神構造は変わっていなかった。先生が寄らなくなった店は御堂筋の一等地から場末の街に移転した。

 覇気のなくなった先生には、娘をサポートすることを心の支えにしてほしいと私は願った。そのためには育ての親(旧妻)に謝罪し金銭援助することが必要と私は先生に訴えた。しかし先生は旧妻への憎しみを隠そうとはしなかった。先生はだんだん破壊的な性質を強め、本当に鬼神阿修羅になりつつあった。酒を飲んで証券の顧客でもあるK先輩を罵倒し絶縁した。また長年の確執のある実兄が脳梗塞で倒れたとき、実兄からの助けの要請に耳をふさいだ。先生には憎しみと怒りという負のオーラが漂ってきていた。かつて人間嫌いという共通項をもった先生と私であったが、私は自身の家庭生活を通して、自分の心持ちや態度が相手から返ってくるという人としての基本を学んでいた。憎しみという感情を捨て、感謝と慈しみの気持ちで先妻や家族に接すれば別の世界が開けることを先生に伝えた。先生の答えは「オレにはできない...」であった。そんな先生に対し私は距離を置き始めた。

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 世間がコロナで閉塞していた間、わたしからの食事の誘いに先生は応じなかった。若かりし頃、破天荒な先生ではあったが、なぜかコロナを恐れ臆病になっていた。
 コロナが落ち着いた令和5年冬、先生から久しぶりに連絡が入った。早期退職募集に即決で応募し、60歳を前に退職したとのことだ。二人でお疲れさま会をした。ほぼ一年ぶりに飲む酒。結果的にはこれが先生との最後の酒であった。退職したものも将来展望が全くないという。前向きな話題がなくなった先生に私から連絡することも少なくなった。
 酷暑の長い夏であった。私は自身の日々の生活で手一杯で、退職後の先生を気遣う余裕がなかった。体調不良で入院したと先生から知らせが入った。しかし、検査も受けずに無理やり退院し、検査を拒否したから病名診断もないということだ。その時、なぜ私は先生を訪ねて顔を見なかったのだろう?私は何か不吉なものから逃げていた。ごみ屋敷に住まうであろう薄汚れた老人の姿をみたくなかったのだ。先生からのLINEには自身が死んだ夢をみたという不吉な記述もあった。病院を抜け出してひとりのマンションで死の影に向き合っていた60歳の老人。
 秋になり気候も良くなり、自身の仕事も落ち着いて、やっと私は先生の住む奈良県に向かう決心をした。駅から電話をして呼び出した。しかし先生は「歩けない、しんどい」という。私はマンションを訪ねた。呼び鈴を押すと長い間があき、やっとドアが開いた。そこにはやせ細り、目が落ちくぼんだ老人の姿があった。かつて自信に満ちた精悍な顔で数々の女子と浮名を流した面影はまったく消え去っていた。部屋のテーブルには食べ物らしきものはなく書類だけが積まれていた。壁には「◯◯ちゃんお誕生日おめでとう!!」という手書きの飾りが貼られていた。妻子に逃げられたときから10年以上の月日が凍りついていた。

 60歳の先生は自らを80代の老人の姿と語った。部屋の中を歩く姿はたどたどしい。食品の買い出しは体調のよいときに”BMW”に乗っているとのことだ。部屋で転ぶと自力で起き上がれないとも言った。それでも入院する気持ちも、診断を受ける意思もないという。早死にした父、兄と同様に梗塞系の病であろうと先生は自己診断していた。
 もはや自活は無理と判断した私であったが、どこから手を打てばよいのであろう?先生に前向きに気持ちになってもらうために、先生の背負う役割を再確認した。実母の看取り、中学生の娘の養育、そこは先生自身が力を出さないといけない、そのためにも自身の治療をしなければならいのだと伝えた。しかし、先生は「その通り」というばかり。「娘には連絡もとれない」と投げやりだった。私の助けやお手伝いもいらぬと断った。そしてあろうことか、私の前で焼酎をすするのであった。「俺はアル中だ」と開き直る姿に怒りがわき、私はマンションを出た。「また来るから...」それが私が先生に掛けた最後の言葉になった。その約束は守られなかった。

 その後も、生活維持のための行政サービス、生命保険や遺産相続の手続き、終活の心構え等についてLINEを送信した。しかし先生の返事は「その通り。感謝します」のみで、動く気配はない。遺言書を残さずに万一の場合となったときは、相続人全員の合意のもと「遺産分割協議書」を作成する必要がある。先生の相続人は実母と娘二人であるが、実母は要介護状態、二人の娘とは連絡が絶たれた状態、生命保険の受取人は先妻のままであり、これを整理する手間と労力は途方もないものと想定された。まだ中学に通う娘に遺産を渡すために、なんとか気力をふりしぼって手続きを進めておいてほしいと先生に訴えた。それは先生の最後の威厳をまもるためでもある。しかしついにはLINEは既読スルーとなった。私の説く正論が鬱陶しいのか、気に障ったのか、私を避けていると感じられた。そこで大学時代の友人に状況を伝えた。彼は正月休みに東京から帰省した際に先生に会うという。避けられている私より彼の方が先生のこころを動かすと思われ、私は先生への連絡を中断した。

 連絡を絶った1ヵ月は長かった。無事であるのか?倒れて起き上がれない先生の姿もよぎった。

 1月1日、新年の挨拶をLINEで送った。既読にならなかった。3日待った。既読にならなかった。1月4日 電話を入れた。先生は出なかった。
 老人サポートの行政窓口に連絡し事情を伝えた。担当者がマンションを訪問した。

 正月前に命は尽きていた。
               
               


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