明日を燃やせ


死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるだろう。明日死ぬとしたら、今日何をするか?その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない

寺山修司『さかさま英雄伝』

かつて強い共感と親近感を覚えて書き留めたこの一節も、今では懐かしく、そして痛々しいほどに眩しく映ってならない。

思えば、死を抱え込まない生を強いられて随分と時間が経った。
燃料を全て使い果たさんと命の炎を真っ赤に燃やし続けた日々は終わり、今はただ、いたずらに燻らせているだけの状態である。
今日この瞬間に人生の全てを捧げんと生きることが、かけがえのない生の充実と豊かな心を育んできた。
その達成感と幸福感が、明日も同様に生きるための原動力となっていたのである。

しかし、いち労働者に成り下がり、「明日を生きる」ことを強要された今の私にとって、人生は退屈なものである。
「朝起きて、飯を食い、金を稼ぎ、飯を食い、また金を稼ぎ、帰って飯を食い、眠る」という、無意味に死を防いでいるだけの日々を送っている。

キャリアアップのために仕事を頑張る、将来のために貯金をする、家庭を持つ日のため——。
社会というのは、未来を前提に成り立っていることを痛感する。
命の炎をあと数十年間保つために少しずつ少しずつ燃料を消費していくような、ともすれば明日のために今日を手放すような、そういう生き方を求められる。
確かに、末長く火を灯し続けることは尊いことかもしれない。
だが私は、あの炎が真っ赤に燃え上がった時の熱と煌めきが忘れられない。
「いかに長く」ではなく「いかに美しく」燃やすかを極めたい。
願わくば、あの灼熱と燦爛に我が身を置く日々に戻りたいものである。

思えば『明日のジョー』ほど、刹那主義の美しさを描いた作品はない。
作中で「明日を生きている」のはジョー自身ではなく、丹下段平やマンモス西、林紀子といったジョーを取り巻く人物である。
力石徹だって、初めは明日を向いて生きていた。
一方でジョーはいつだって「瞬間」を生きている。
周囲の「ジョーの明日」を心配する声をよそに、彼自身は力石徹やカーロス・リベラ、ホセ・メンドーサとの死闘に身を投じていく。
心が、身体が取り返しのつかないほどに蝕まれても、止まらず突き進む。
そして最後には満足と言わんばかりに真っ白に燃え尽きる。
それは彼が思い描いていた、理想の結末だったのだ。

若者よ、明日を生きるな。今日に殉ぜよ。
「明日があるさ」などというのは、今日を生きられない哀れな大人たちの言い訳である。
その命の炎を極限にまで燃焼させよ。
そしてそのまま、君たちの明日をも燃やしてしまおう。

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