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みんなのフォトギャラリー #1

この写真を7つのnoteの表紙として使っていただいたのでご紹介する。

何を撮ったか

IKEAのランプシェードを撮影した。「変わった形のものがあるものだ」と思ったのでシャッターを押した。あまりきちっと撮るよりも、この不思議なデザインを不思議な感覚のまま撮りたいと思ってこんな感じに撮影した。

撮影者の想い

結構気に入っている。何を写しているのかよくわからないところが好きで、それでも炎のような、内側から湧き出てくるような、そんなパワーというか動きを表現できているように思う。ランプ(≒灯り)というのはそういうパワーがあると思う。旧来は松明であり、暗闇の中に安心や希望を与えるものである。そういう意味で周りをしっかりと黒にできた点も良かった。

どう使われたか

2023.12時点でこの写真を使ってくれた記事を紹介する。

冒頭が印象的である。

自論。恋愛とかSMとかって宗教だと思う。

時間とともに流れ忘れられていくもののなかで、咲子さんの内側にあり続ける「何か」について語られていると思う。熱、傷、悩み、記憶、欲求、関係性、愛情、信じている何か、自分、エネルギー。それらが、咲子さんが生きる日常、モノ、体験、身体感覚から想起され、入り乱れ、「何か」に収斂されていく気配を感じつつも、形にとしてまとまることはなく、不安定さを保ちながらそれがある意味心地よいような。そんな人間の有り様を表す文章だと思う。

僕がこの写真に感じる灯りに似ているように思う。決してポジティブで確かなモノではない点において、モノクロで抽象的に表象できたことがよかったのかもしれない。

咲子さんみたいに、言葉でこういったことを表現できるのは羨ましい。

「誰かを信じている自分のこと」を信じていることになるから。

この記事でも「宗教」という言葉が出てきて驚いた。
宗教的な話にはいつも具体と抽象、いかにそれが人に伝わるかという問題がつきまとうのだと思う。

多くの宗教においては偶像が用いられることがあるが、現実世界と紐付けるにあたってのメタファー(具体)はまた別であり、結局は宗教の本質というのは非常に抽象的な世界観である。

写真を見ただけで恐怖も絶望も狂気も分かった気になるんじゃないぞ

ギョッとする言葉である。アルフレッド・ジャーは知らなかったので、この機会に少し調べてみたが、たぶん実際の展示を見ないとなんとも言えないであろうことがわかった。

コーチングを学び、進めるなかで、「自分がネガティブだと思っている、思い込んでいること」とどう向き合うか、といったテーマの文章である。
この写真には、自分の内面だとか、ネガティブだと思っている「何か」、燻っているものを感じて使っていただけたのだろうか。

今日は珍しく思いっきりネガティブなことを書きます。

たまたまだが、次に見たこちらのnoteの出だしも「ネガティブ」で始まっており、ドキッとした。
愚痴を書くというから、きっと「怒り」とか「爆発」みたいなイメージで使っていただいたんだろう。

愚痴の内容は本文を読んでいただきたいが、最後の段落がまたもハッとさせられた。

こんなしょーもない文章を投稿するのは私のプライドが許さない。
しかし、こんなネガティブな感情も間違いなく今の私の中に潜む本当の私なのだ。

ポジもネガもすべては本当の自分なのだ。

単純に怒りというよりは、日常のポジティブに覆われて隠されながら、内部で爆発したネガティブというイメージをもった。

noteの表示順がもはや伝言ゲームである。
次なるこちらのテーマは「『怒り』とは」

そして観音の写真で締めくくられる。

偶像とともに僕のこの写真が使われた点は興味深いと思う。

仕事で消耗していく自分について吐露している記事。
記事からは疲れが溢れているように感じられるが、

何とかだましだまし、取りあえず12年頑張ってきたので、とりあえずそれを文章にしてみたかったっていうのもあります。

この文章から、何か発信をしたい情熱がうかがえた。
このパッションを写真で表現していただいたのではないだろうか。

最後のえくぼさんのnoteだけ、少しこれまでと毛色が違う。
でも最初は僕の写真を使ってくれている意味がわからなかった。

彼氏と別れて「あの人」の荷物がなくなった部屋。「写真を使うならもっともの寂しげでノスタルジックな写真を使った方が似合いそうなのにな」と思いつつ、えくぼさんの文章の読みやすさと描写の豊かさにひたすら感心して読み進めていた。

が、途中のこの文章で頭を打たれた。

ふと視界がくすんだ。すぐには気付かないほどわずかな変化だ。少しして、天井の電球が切れたことを理解する。

えくぼさんは、僕の写真を「電球」というテーマで使ったのだ。
僕自身がこの写真に抽象性を求めていたが故に、具体性を理由に使ってくれた人がいたことは逆に新鮮な驚きであった。

そしてそれがこんな素敵な文章を書く方の、小説かと思うようなエッセイの一コマに使っていただけたのはとても光栄である。

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