配慮に欠けた言葉も言論の自由

>「自由な意見と配慮に欠けた言葉を一緒にしないでください」

だが、配慮に欠けた言葉も「自由な意見」の一種。
自分が傷付いた原因は「他者の発した言葉」には無い。
人は鏡。配慮のない相手は「その相手の諸事情に配慮しない己自身」の投影に過ぎない(自己投影による同属嫌悪)。
言葉狩り・言論封鎖・排除の論理では問題解決にはならない。

「はぁ?相手の事情?知るか、そんなもん。相手が勝手にこっちの世界に入り込んでワーワー騒ぐんだから、排除するのも表現の自由でしょ」

というなら、全く同じ理屈で排除しようとする相手の自由も尊重しなければならない。同じ自由を自分にだけ許すのは、エゴ・ダブスタである。

以下、弊サイトより抜粋。

どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。

感情を含むあらゆる体験の根本原因は体験者自身の固定観念自分ルール思い込み先入観。それが変わらない限り似た体験を繰り返す。
肉体的苦痛の原因は加害者でも、精神的苦痛の原因は被害者本人の固定観念。複数ある個別の因果を混同する限り苦悩は止まない。

人に歴史あり。同遺伝子同環境で同経験を経れば誰もが同タイミングで同じ過ちを犯す。その想像力がない者ほど当事者を非難。
低水準教育の犠牲者に必要なのは憎しみ(情報遮断・処罰・排除・放置)ではなく愛(情報共有・高水準教育・精神治療・救済)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?