見出し画像

大壹神楽闇夜 2章 卑 3賈具矢羅乃姫(かぐやらのひ) 10

 五瀨の正妻が国に戻って来たのは二月後の事である。この二月と言う期間は非常に大きいものと言えた。これが行って帰ってを三日で済ます事が出来ていれば状況は大きく違ったかも知れない。だが、実際は行くのに一月弱帰るのに又一月弱…。五瀨の正妻を孤立させるには十分な期間と言えた。だから、従者を連れて帰って来た正妻を迎える者は一人もいなかった。
 此れはあからさまに異様だったと言える。いつもなら従者の姿が見えたら誰かが其れを伝え人々は集落の入り口に集まり出迎えてくれていたからだ。

 其れが誰一人として出迎えに来ていない。

 否、其れどころか従者の姿を見やっても正妻の姿を見やっても素知らぬ顔である。正妻はピタリと歩みを止め周りを見やる。
 
 人と目が合った。

 だが、人はスッと視線を逸らしテクテクと歩いて行った。

 ゾクリと得体の知れぬ不安が胸中を締め付ける。
「何かあったのでしょうか…。」
 従者が言った。
「分かりません。ですが、何か変です。」
 と、正妻は五瀨がいるであろう竪穴式住居に向かって走り出した。

                  左主

 パタパタと走り正妻は竪穴式住居の中に入って行った。中に入ると其処には公務を行う五瀨と其の両脇に二人の妻が座っていた。正妻は其の姿を見やりホッと肩を撫で下ろした。
「正妻…。戻られたのですか ? 誰も知らせに来ませんでしたから迎えに行けず…。」
 と、二人の妻は腰を上げた。
「かまいません…。其れより何かあったのですか ?」
 正妻が問うた。
「何か ? 」
 と、二人の妻は首を傾げた。
「何もないなら其れで構いません。」
「は…い…。」
「其れより貴方達は何故其の服を着ているのです ?」
 と、正妻は二人の妻が着ている豪華な服を見やり言った。
「これは…。」
「私が与えたのだ。」
 五瀨が言った。
「五瀨…。只今戻りました。」
 と、正妻は五瀨の前に腰を下ろした。其れを見やり五瀨は二人の妻に竪穴式住居から出て行く様に告げた。二人の妻はニコリと笑みを浮かべ出て行った。
「無事に戻り何よりだ。其れで女会議はどうだった ?」
「女会議 ?」
 と、正妻は首を傾げた。
「誤魔化す必要は無い。」
「そうですか…。では、ハッキリと言います。私達は奴婢の扱いに異議を唱える次第です。」
「そうか。好きにすると良い。だが、周りを巻き込むのはいただけん。」
「巻き込む ? 其れで妻にあの様な服を与えたのですか ? ですが正妻は皆同じ意見です。」
「同じか…。だとしても私は私のやり方を変えるつもりは無い。」
「何故です。何故分かろうとしないのですか ? 現に伊波礼毘古(いわれびこ)は上手くやっているではありませんか。」
「だな…。伊波礼毘古(いわれびこ)は素晴らしい弟だ。」
「馬鹿にしているのですか。」
「否、今だから言うが私は伊波礼毘古(いわれびこ)を認めている。父上の後を継ぎ大王になるは伊波礼毘古(いわれびこ)だと考えている。」
「なら、何故伊波礼毘古(いわれびこ)の政策を取り入れ無いのです ?」
「無理だからだ。あれは天の才がもたらすもの。誰彼と出来る物では無い。だから私は私のやり方で国を纏めるのだ。例え間違っていようと、現に国力は上がり文明は開花し始めている。」
「魔やかしです。」
「魔やかしであっても良い。伊波礼毘古(いわれびこ)が大王になる迄に形になれば後は彼奴が何とかする。だが、其れ迄に又襲撃され国を落とされる様な無様な事は出来ぬ。だからこそ無駄な刻は使えぬのだ。」
「奴婢は兵にはなりません。」
「其れは女が危惧する事では無い。」
「そうですか…。」
「其れより長旅で疲れておるであろう。ゆっくりと休まれよ。」
「…。そうですね。少し休ませて頂きます。」
 そう言って正妻は竪穴式住居から出て行った。
 外に出て溜息一つ。結局分かり合えないままである。と、周りを見やり更に異様な光景が目に飛び込んで来た。人が奴婢を使い作業を行なっているのだ。此れは帰って来た時には気づいていなかった。帰った直後は人の態度が異様だった事で頭が一杯だったからだ。
「な、何ですか此れは…。」
 と、正妻は周りを見やりながら集落内を徘徊した。
 何処を見やっても奴婢奴婢奴婢。

 奴婢奴婢奴婢

 奴婢奴婢奴婢…。

 息が止まりそうになった。
 旅立つ迄少なくともこの集落に奴婢はいなかった。其れが今では当たり前の様に奴婢がいる。正妻は何がどうなっているのか分からないまま集落内を歩き回った。其処には既に支配者となった人達が先住民を我が物顔で使っている。
 当たり前の様に使い、罰を与え下げずみ罵声を浴びせる。許しを乞うても人は必要以上に奴婢を殴り、休む事を許さない。
「この怠け者 !」
 罵声を浴びせ乍人は棒で何回も奴婢を殴りつける。奴婢の体は腫れ上がり血が滲み出ている。其れでも人は殴る事を止めず更に殴る。別の人は足首の無い婢を侍女の様に使い、矢張り気に入らなければ殴り続けていた。
「や、やめなさい。」
 正妻は思わず止めに入った。
「誰だ、邪魔をする…。せ、正妻。」
 奴婢を庇う正妻を見やり人が言った。
「あなた達は一体何をしているのです。」
 正妻は人を睨め付ける。
「な、何をって…。正妻こそ何故奴婢を庇うのです。」
「当たり前です。この様な事が許される筈がないでしょう。」
「許されるも何もこれは奴婢です。」
「奴婢…。奴婢だからと何をしても良いわけではありません。この者を直ぐに解放しなさい。」
「解放 ? 冗談でしょう。奴婢を解放したら誰が働くんです。」
「あなたが、私が働けば良いのです。」
「ふざけた事を言わないで下さい。私達は五瀨様から奴婢の使用を許されているんです。」
「五瀨が ? なんて言う事…。」
 と、正妻は周りを見やり大きな声で言った。
「皆よ…。直ぐに奴婢を解放するのです。先住民は私達と同じ人なのです。この様な行いは間違っています。」
 正妻は最も正しい事を言った。だが、人の考えは違う。

 何が正しいのか ? 
 其れは其の時代によって大きく異なる。
 正しいとされる正妻の言葉もこの時代の人達には届かない。 

 正妻の言葉は悪でしかないのだ。

「解放 ?」
「私達から奴婢を取り上げるつもりか ?」
「私達から奴婢を取り上げるな !」
「そうだ ! 奴婢は私達の物だ !」
 と、周りにいた人達が騒ぎ始める。正妻は人の反応に何とも言えぬ恐怖を感じ乍も周りを見やる。狂気に満ちた表情。敵意の目…。浴びせられる罵声。正妻は意識を失いそうになった。
「正妻…。大丈夫ですか ?」
 其処に二人の妻が駆け寄り声を掛けた。
「あ、あなた達は…。」
「兎に角此方に。」
 と、二人の妻は正妻を連れてパタパタと走り出した。
 パタパタと走り兎に角人の群れから離れた。其れでも暫くは罵声が聞こえていた。だから、更に更にパタパタと走り人影のない場所に迄来ると其処に腰を下ろした。
「正妻…。大丈夫ですか ?」
「え、ええ…。」
 と、言った正妻は憔悴していた。
「人から奴婢を取り上げるのは危険です。」
「危険 ?」
「人は支配者になったのです。」
「支配者 ?」
「はい。五瀨様がこの集落の人にも奴婢を与え人は変わったのです。」
 と、二人の妻は言ったが、そうする様にそそのかしたのは二人の妻である。
「五瀨が…。」
「はい。だから私達も…。王の妻たるこの様な服を着なければ、人から敵意の目で見られてしまうのです。」
「そうだったのですか…。」
「正妻が居られればこの様な事には…。」
 と、二人の妻はシクシクと泣き出した。
「あなた達も辛かったのですね。」
 と、正妻は二人の妻を抱き寄せた。
「はい。私達は正妻の帰りをずっと待っていたのです。」
「そう…。でも私には…。どうして良いのか。」
「それでしたら、私達に妙案があります。」
「妙案 ?」
「はい…。」
 と、二人の妻は正妻を見やった。正妻は二人の妻を見やり其の案を聞く事にした。二人の妻は先ず奴婢が収容されている場所に行き其の実態を知り、其れから奴婢の待遇の改善を五瀨に求める様にと言った。
「待遇の改善…。ですが、私は…。」
「焦ってはいけません。今人から奴婢を取り上げるのは愚策。ましてや奴婢の解放などもっての他です。先ずは待遇の改善から行い徐々に人から奴婢を遠ざけて行くのです。」
「成程…。焦りは禁物。分かりました。やってみましょう。」
 と、言うと正妻は早速その日の夜に奴婢が収容されている場所に行く事にした。
 奴婢が収容されている場所は集落の中には無く少し離れた場所に作られている。正妻は松明を片手にテクテクと歩き其の場所に向かった。周りは真っ暗な闇であるが暫く進むと朧げに灯りが見えた。入り口に掲げられた松明と焚き火の灯りである。其れを目印に正妻は歩みを速めた。

 テクテク。
 テクテクと進むに連れ灯りは大きくなって行く。やがて其れは周囲を照らし門番が見える迄になると門番達も其れに気づき始めた。
「おい…。誰か来るぞ。」
「誰か来る ? こんな闇の中を誰が来るんだ ?」
「でも、松明が。」
 と、指差す。
「松明 ?」
 と、其の方向を見やると確かに誰が此方に向かって来ていた。
「誰だ ?」
 と、五人の番兵がジッと見やっていると徐々に正妻の顔が薄ぼんやりと…。
「せ、正妻 ?」
「皆さん。ご苦労様です。」
 そう言うと正妻は持参した酒を皆に振る舞った。本心はヒステリックに皆を責めたてたかったのだが二人の妻に其れは絶対にしてはいけないと言われていたので我慢している。
「しかし…。何故正妻がこの様な場所に ?」
 酒を飲みながら番兵が問うた。
「私も正妻として奴婢の施設を知っておく必要があると思いまして。」
「そうでしたか…。しかし、一人で来られるのは危険ですぞ。此処は集落から少し離れた場所。危険な獣がウヨウヨです。」
「ええ…。少し怖かったです。」 
「少しですか。」
 と、番兵達は勇敢な正妻を褒め称えた。
「其れより本当に中を見るのですか ?」
「はい。」
「余りお勧めは出来ませんよ。」
「構いません。」
 と、正妻は竪穴式住居を見やる。
 奴婢が収容されている竪穴式住居は三つ。其のどれもが非常に大きくまるで宮殿の様な佇まいである。
「では、此方に…。」
 番兵は腰を上げると正妻を扉の前迄案内した。
「覚悟は良いですか。」
 番兵が言った。正妻はどの様な覚悟が必要なのかサッパリ分からないまま”はい”と答えた。
「では…。」
 と、番兵は扉を開けて直ぐに口と鼻を押さえた。正妻は何もせず立っていただけなので襲い来る臭気に思わずその場に吐いてしまった。
「ウゲ〜…。ゲッゲッ…。ウゲ〜。」
「せ、正妻…。大丈夫ですか…。」
 番兵は急いで正妻を担いでその場を離れた。
「な、なんですか…。この臭いは…。」
 と、正妻は更に吐いた。
「だから覚悟は良いかと聞いたでしょう。あの中はとても臭いんです。」
「く、臭いなんて物ではありません。一体どうなっているのです ? 」
「あの臭いは奴婢の糞尿の臭いです。」
「糞尿 ? 奴婢はあの中で糞尿をしているのですか ?」
「はい。作業が終われば奴婢はあの中に入れられます。そして、一度中に入れば次の日になる迄外にはださないのです。」
「そ、そうだったのですか。其れにしても何故臭いがこもっているのです ? 窓は無いのですか…。」
「ありません。窓を作れば其処から逃げ出します。」
「そう言う事ですか…。」
 と、正妻は今度は鼻と口を押さえて扉に向かった。
「正妻…。」
「何です。」
「正気ですか。」
「当たり前です。」
 正妻は左手で鼻と口を押さえ、右手に松明を携え扉の前で立ち止まった。
 勇気が…。
 更に勇気が…。
 勇気が勇気が更に勇気が足らなかった。
 足が前に進まない。
 この臭気に立ち向かう勇気が…。
 然れど奴婢はこの臭気の塊の中に押し込まれている。
 自分が負ける訳にはいかない。正妻は覚悟を決めて松明を持つ右手を中に更に中に。だが、それとは逆に頭は後ろに更に後ろに…。
 襲いくる臭気は鼻と口を押さえていても強烈に臭って来る。これは三日放置したお股よりも臭い。
 臭気で右手が腐ってしまうのではないかと思えて来る。しかも、臭気で目が痛い。其れでも前に前に。腰は引けて後ろに後ろに…。
 其の中で正妻は中に目を向ける。中を見やり正妻は更にショックを受けた。中には夥しい奴婢がひしめきあっていた。しかも皆が皆膝を抱え座りながら眠っている。横になるスペースがないのだ。
「これは…。」
 松明を持つ手に力が入る。だが、正妻は押し黙ったまま口を閉ざした。そして扉を閉めると番兵に礼を言って集落に戻って行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?