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回復は続いていくよ、どこまでも

最近、自分自身の回復の物語について考える機会が増えたため、思考整理のために今の時点の考えをまとめたい。

私は幼少期から死にものぐるいで頑張って生き抜いてきたのに、殆ど何も表面的には身を結ばなかった。
過去の私は、こんなに何も成し遂げられていなくて、この年齢になってもこんなに回復していないとも思っていなかった。
それでも生きていけるのは、自分が少しだけ回復したからだと思う。

回復のスタート

私の回復のスタートラインは、学部4年生のときだった。そのときは、トラウマとは関係のない理由で大学の学生相談室を訪れた。
私の詳細な被虐歴については割愛するが、私は母親から医療ネグレクトを受けており、当時は精神科の受診を母親から禁止されていた。また、既にこの時点で自分が社会人になった暁にはトラウマ治療が必要であることを認識していた。ただ、学生相談室に最初に行くきっかけになったのは、自分自身の発達特性についてだった。
当時、私はアルコール依存だった。大学の研究室でワインなどのアルコールを、まるで安定剤代わりに飲んでいた。もちろん、家では四六時中アルコールを摂取していた。加えて、親の監視下にあり、トラウマの再演で性化行動もあり、トラウマ治療を行えるような環境ではなかった。そして、アルコール依存とトラウマの再演に関しては、当時は全くCoに話せていなかった。
しかし、当時の担当Coに母親からの被虐歴について軽く話したところ、社会人になった際になるべくスムーズにトラウマ治療を開始できるよう、カウンセリングというものに慣れていくのはどうか、と提案された。
ここから私の長いカウンセリング治療がスタートした。

カウンセリングがスタートした時点で、私は大学院への進学を決心しており、順当に大学院に合格すれば早くてもトラウマ治療を始められるのは3年後だった。学部4年生時点のカウンセリングは、ほとんど深入りすることなく、大学院進学によって担当者変更となり、終結した。

回復から遠ざかっても

大学院の学生相談室には、学部時代のCoの紹介状を持って訪れた。私は外部進学したのだが、この大学院が私自身のASD特性との相性が最悪だった。
トラウマの再演も悪化し、カウンセリング中に医原性のトラウマを負い、現状維持どころかどんどん悪化し、自傷行為や自殺企図が増えていった。
それでも死なずにsurviveできたのは、カウンセリングにめげずに通い続けたのはあると思う。何度も医療機関への受診を勧められたが、やはりどうしても親の監視下にあっては難しかった。

トラウマ治療を始める準備をする

大学院の学生相談室では、Co側の都合でM1とM2で担当者が違った。M2になってからは少し落ち着き、修士修了後のことを考えることもできるようになった。
私は本当はそのまま博士課程に進学したかった。しかしどう考えてももう限界だった。このままトラウマ治療をせずに博士課程に進学しても、博士在学中にこの世からいなくなっているだろうことは明々白々だった。
もし修士修了後に社会人になるのだったら、私はトラウマ治療を始める必要があった。
M2の初夏から初秋にかけて、修了後の支援者を探し回った。当時からいくつかのトラウマ処理技法について知っており、EMDRなどができるセラピストは数ヶ月待ちであることも知っていたので、シームレスに支援を移行しようと思ったら、遅くとも晩秋までに何らかの方向性は決めたかった。
そこでも紆余曲折あったものの、冬までには方向性が決まり、今のセラピストを紹介してもらった。

トラウマ治療を始めるも

修士修了後、私はすぐに今のセラピストの元に通い始めた。既に色んなものを諦め、ほぼ引きこもり状態だった私は、早く回復したかった。
当時の私は、EMDRさえ行えばすぐに回復できると信じていた。結婚の予定があり、環境変化も見込まれたので、タイミングを見てトラウマ処理をしたら、すぐに私は元のレールにもどれると信じていた。でも、そんな簡単なものではなかった。まず、トラウマ処理をできるような体調になるのに、かなりの時間を要することを知った。
最初の1〜2年は、私は回避をしていたこともあり、ほとんど治療は進まなかった。このまま回避をしたまま過ごせられれば、トラウマ処理も必要ないのでは?と思っていた矢先だった。本当に些細なきっかけでフラッシュバックの嵐に襲われ、私は収拾がつかないような状態になった。
本格的にトラウマと向き合うことになったのは、今のセラピストとの治療が始まって数年が経ってからだった。

トラウマに向き合い始める

本格的にトラウマに向き合い始め、回復に向けての動き始めたのは、このときからだった。今から約2年半前のことだ。
この段になってようやく、私はセラピストに性虐も含めた過去の被害の全容を話すことができた。
それから現在まで、何度も自殺企図を繰り返しつつ、まだまだsurviveをしているという感覚に近く、トラウマ処理をするに至っていない。
それでも少しずつ良くなってきているという自覚はある。そして少し前、体調次第では(必須ではないけれども)トラウマ処理に入れそうな状態に近づいてきたね、という話が出てきた。
じゃあ、私はトラウマ処理をした後、どんなふうになりたいの?

トラウマ治療後も人生は続いてゆく

前置きが長くなったが、トラウマ処理やトラウマ治療をしても、それはゴールではない。
私がかつて目標としていた博士課程に入り、Ph.Dを取得しても、また取得しなくても、どちらもゴールではない。
それらをゴールにしてはいけない。それらは通過点である。そして重要なのは、その間に自分が何を得て、何を感じ、どのように頑張ったかだと思う。

おそらく回復しても、失った時間やものが返ってこないことに対する虚しさと諦念と苦痛から逃れられるわけではない。
また、本来なら手に入るはずのもが手に入らなかったことに対する理不尽さと惨めさと哀しさからも逃れられないだろう。

私は大学院を修了するまで、親に精神科に行くことを許してもらえず、かと言って大学・大学院を中退することも許してもらえず、また自分自身もそれらの選択をゆるすことができず、死にものぐるいで頑張っていた。
結婚してからしばらくは、ほぼ誰とも交流せず、何も勉強することもせず、完全に引きこもっていた。
いずれも私にとって必要な時間だっただろう。でも、死にものぐるいで頑張っているときは、将来の自分はPh.Dを取得していると信じて疑わなかったし、引きこもっていたときは、このまま何も成し遂げることなく一生専業主婦をしていると絶望していた。
振り返って見ると、両者とも両極端である。そうした振り切れたものを目指すのではなく、そのどちらでもない中庸/中動態であることを目指していくのが良いのだろうと私は思う。
現に今の私は、無理のない範囲で働き、中途半端なキャリアを残しながらも、それが今の状態の私ができる精一杯だと諦めている。それは、死にものぐるいで頑張っていた時期にも、引きこもっていた時期にも、想像していなかった未来だった。
こうした折り合いをつけていくこと、それができるようになった自分を評価していくこと、その続きに回復の道は続いていくのだろうと思う。

回復の道のりは決して容易いものではない。これまで苦しんできたフラッシュバックや過覚醒が減っていくのとトレードオフかのように、これまで重宝していた解離や軽躁などの手段を手放していくことでもある。解離を手放せば葛藤を抱える必要が出てきて、軽躁を手放せば問題解決に時間がかかるようになる。
そして何より、これまで長きにわたって誰かの支援の下で生きてきた私が、(時には人に頼りながらも)自分の足で自分の人生を歩んでゆくことでもある。
だから私は、回復後に幸せが待っているとは思わない。それでも私は回復をすると決めたからには、またどこかで一休みすることはあるかもしれないけれど、自分にとっての回復の形が何なのかを考えつつ、回復を目指していきたい。

余談

私が回復を目指す理由はただひとつ、私自身に対して回復の責任があるからである。
でも、もし敢えてもうひとつ理由を挙げるとするならば、あんなめちゃくちゃだった私が回復した姿を、今のセラピストに見せてあげたいし、生きて終結を迎えたいと思っているから、かな?
なぜなら、何度でも私の支援を打ち切るタイミングはあったのに、苦節しながらここまで続けてきたからね。

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