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#054 箸を持つ手と嫁ぎ先

あんたは遠くにお嫁に行く

わたしの箸を持つ手を見て祖母はよくそう言っていた

長めに持つのが癖だっただけで何の根拠もないその言葉 長めに持てば遠くに嫁に行き 短ければ近場になんて迷信のようなことを言っているだけだと思った

家を出たいとは昔から思っていたけど それが地元を離れたかったわけじゃないんだと気づいたのは高校生の頃だった

学校生活をものすごく謳歌したわけでもないし地元に固執するほど仲の良い友人がいたわけでもないけど 地元を出たいと言って本当に出て行った姉や兄の背中を見て 何となく親や祖父母を安心させるのはわたしの役目だと思っていた

早く安心させたいという思いから就職に有利な高校を希望したにもかかわらず 親が出した条件に従って希望とは違う高校に進学した 結局は親が納得する利口な娘を演じたかった

ところが高校を出る頃には地元を離れることになっていた 親はあまり関心はなさそうだった 確かにわたしは地元に残るとたかだかと宣言していたわけではない それでも期待されていなかったことが寂しかった

わたしは昔からそうだ 親に期待されたことはない 勉強しろと言われたこともないし褒められたこともほとんどない 成績優秀で生徒会でも活躍していた姉や兄のように立派ではなかった 体も弱かったし 親が学校に呼び出されるようなちょっとした悪いことも多少は経験したから きっと出来損ないだった   

わたしを役に立つ人間だ と唯一言ってくれたのは 父方のひいおばあちゃんだったという わたしが生まれてすぐに亡くなったので わたしは彼女と言葉を交わすことはなかった 彼女は生まれたてのまだ何もできない赤ん坊のわたしを抱いて この子は将来役に立つ子になる と言ったそうだ

それを祖母がわたしに教えてくれた けれど祖母がそのように思っていたわけではなかったと思う あくまでひいおばあちゃんはそう言っていた という事実として口にしていただけだ

わたしは誰からも期待されたことはない そう思っていた だからわたしがこの家で満たされたことはなかった 親からしてみれば単純に早い段階で懲りたのだろう 子供は思い通りになんかならないのだと そういった意味でうちは放任主義だったと思う

それでも満たされないわたしはこの家に帰るのが嫌だった 夜が来るのが嫌で 家に帰りたくなくて 暗くなるまで友人を引き止めて泣かせたこともあった どうしてみんな家に帰りたいんだろう 他人が家に帰りたがる気持ちを理解することができなかった

家を出たい 自由になりたい こんな田舎じゃなくて こんな暗い世界じゃなくて

でも自分が家族を守るべきなんだろうってやっぱりまだ心のどこかで思っていた 期待していなかった娘が一番役に立つんだってことをいつかわからせてやりたいって むしろそんなふうに考えていた

わたしは結局家を出た 姉よりも兄よりも遠くに出た 箸を持つ手は長年の癖だ 相変わらず長めに持っている 進学 就職 結婚と節目ごとに家からはどんどん遠ざかっていった でもまだ一番孝行してやるつもりでいた 姉よりも兄よりも顔を見せに帰った どんな家でも家は家 家族は家族だ 箸を長めに持っていようと 孝行はできる

いつのまにか自分が思うよりも遠くに来ていた 人の役に立つ人間になったとは思わないが 祖母の言う通り実家からは遠く離れた 相変わらず姉よりも兄よりも家に足を運んでいる 離れてみると不思議と帰りたいと思うようにもなった 長年の癖のはずが心なしか箸を持つ手も以前より短くなっている気がする 昔はギリギリのところまで長めに持っていたのに比べて 今は少し余裕が感じられるのだ

最近娘の箸を新調した 成長に合わせて今まで使用していたものより少し長いものを買った 長さを変えても娘が持つ位置にあまり変化はなかった 娘の箸を持つ手を見てあの迷信のようなものを思い出した

この子は遠くに行くのかもしれない

だとしたらできるだけ娘にとって帰りたい場所になってあげたい でもどうだろう わたしは娘が自由に生きてほしいと思うがために過度に期待はしていない これはもちろんいい意味でだ 娘がそれをいつしか寂しく感じてしまうことがあるんだろうか そしていつしか遠くへ行ってしまうんだろうか 箸を持つ手は彼女が離れていくことを示している 例え迷信であっても意識してしまうのが祖母の教えというものなのかもしれない



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