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辞書をめぐるシスターフッドの物語―『小さなことばたちの辞書』


ピップ・ウィリアムズ 最所篤子訳 小学館 2022.10.2 原作は2020年

<辞書にも性別がある?>
 
著者あとがきにはこうある。
【この作品は二つの素朴な疑問をきっかけに生まれた。男性と女性では、言葉の意味に違いはあるのだろうか? もしあるとしたら言葉を定義する過程で、何かが失われることはないのだろうか?】
 本書を読むとこの問いの答えはふたつともyesであると著者が考えていることがわかる。ことばや辞書にも性別があるのだ。
 本書はオックスフォード英語大辞典(通称OED)の持つ男性優位的な性格に対する女性のオルタナティブの物語であり、それは同じ時代に盛んになった女性参政権運動と呼応している。この二つは一体となって、1886年から1989年という百年にわたる大河小説的なこの物語を貫いているのである。

<降ってきたことばースクリプトリウムにて>
 
スクリプトリウムーこの言葉を聞いてまず思い浮かんだのは、映画『薔薇の名前』の写字室だ。中世の修道院、黙々と聖書の写本を作る修道士たち。そこから生まれる金銀の装飾を施した美しい写本…。荘厳な雰囲気が漂う部屋を思い浮かべる。しかしこの本のスクリプトリウムは違う。OED編集主幹のマレー博士の自宅の敷地内に建てられた埃っぽい小屋で、壁一面に取り付けられた棚に積んであるのは膨大な数の用例を集めたカードの山、博士ががシャレで名付けたこの部屋で物語は始まる。
 幼くして母を亡くした4歳の少女エズメ・ニコルの”居場所“は父の働く辞書編纂室、通称スクリプトリウムの大きなテーブルの下だった。オックスフォード英語辞典の編纂作業中の人たちの靴を眺めている少女のスカートの襞の上にある日はらりと落ちてきたカード、それには<bondmaid>と書いてあった。エズメは、これは捨てられたカードだ、と幼な心に判断して自分のポケットに入れ、エズメの面倒を見てくれるマレー博士の家の女中13歳のリジーの古びたトランクにこのカードをしまってもらう。それからエズメの言葉集めの冒険が始まる。エズメはOEDから抜け落ちた「小さな言葉たち」「迷子のことばたち」を拾い集めて『小さなことばたちの辞書』を作るのである。

<辞書とは用例集なのだ>
 
辞書というものが言葉の意味を教えてくれるものであるのはいうまでもない。しかし、その意味はだれが決めるのか? それは、誰か偉い人や大きな権威が決めるではなく、膨大な用例から成り立っているのだ、という当然のことを今までうかつにも考えたことがなかった。辞書を引けば当然のように意味や使い方を教えてくれる。しかし、ことばは人が使うことによって意味を持ち、コミュニケーションのツールになるのだ。このことを、偶然平行して読んでいた『やっぱり悩ましい国語辞典』(神永暁)によって爆笑したり驚いたりしながら大いに納得した。一例をあげると、同書の冒頭「あ」の項目、「あわい」、神永氏によれば、この平安時代にさかのぼる言葉は、与謝野晶子が、不思議な雰囲気をもつ言葉としてあらたによみがえらせたのだという。彼女が使った用例が新しい定義となったのだ。一つの言葉でも時代によって、使う人によって、いろいろな意味を持ち、時には反対の意味にさえなるという。そしてその言葉の意味を支えるのは「用例」なのである。OEDの編集はこの用例集めの作業から成り立っているといってもいい。もっと古い用例はないか、最初に出てくる文献は何か…、辞典製作者たちはそこにこだわり続ける。

<辞書をめぐる女性たちー実在の人物と創作された人物>
 
この本には実在の人物が数多く登場する。というより、編纂室のメンバーはエズメ父子を除いてほとんど実在の人物だ。この本の最後には編纂室の人たちの記念写真(1915年撮影)が掲載されているが、マレー博士を筆頭に、彼の二人の娘を含むメンバーはみな作中登場人物として活躍する。
 実在の人物で最も重要な役割を果たすのがイーディス・トンプソンである。トンプソンは歴史家、作家で、「イングランド史」の著者として知られる。また、OEDの編纂に用例をたくさん集めて多大な貢献をしたことも有名で、マレーはOEDの序文で、特に名を挙げて彼女に謝意を表している。本書作中では、ヒロイン、エズメの両親の友人であり、エズメの名付け親であり、生涯親代わりとして、またよき指導者として彼女に寄り添い支えた女性として登場する。エズメは作中で彼女を「ディーダ」という愛称で親しみを込めて呼んでいる。
 また、マレー博士の妻や娘たちも登場人物として生き生きと活動する。この本にはサフラジェットの女性たちも大勢登場し、実在の人物と創作された人物が一緒になってうごきまわるのである。

<迷子のことばたちを集める>
 
エズメはスクリプトリウムで拾った(と、勝手に本人は思っている)ことば、この部屋では無視され相手にされずに捨てられることばを集め始める。成長してOEDの編纂室の助手として働くようになってからも仕事の傍らことば集めは続く。やがて彼女の収集先は写字室から飛び出しオックスフォードの下町、露天商が並ぶカバード・マーケットに広がる。この界隈に買い物に行くリジーについていき、手作りの木彫り細工を売る元売春婦のメイベルと知り合う。彼女はとんでもない下品な俗語やエズメがそれまで聞いたこともないような卑猥なことばをいろいろ教えてくれる。メイベルの住む世界では、OEDに掲載されている上品(?)なことばではなく、人がしゃべることば、生きていることばが飛び交っているのだ(OEDに記載される用例は文献にあるものという限定があるから、しゃべってすぐに消えてしまう話し言葉は掲載されない)。カバード・マーケットでエズメが聞いたことばのかずかずは、ディーダから「人前では口にしないように」と手紙が来るほどのもだった
 さらに、1906年、カバード・マーケットで女優でサフラジェットのティルダ・テイラーと知り合い、彼女の弟のビルとも親しくなったことからエズメの運命は大きく変わる。ティルダ演じるノラを見、サフラジェットの集会に参加し、ビラ配りに巻き込まれ…、リジーの心配をよそにエズメはサフラジェットに共感していく。
 サフラジェット、女性参政権論者を表すこの言葉は、訳者の最所氏によれば、参政権という意味の“サフレッジ”に、小さい、取るに足らない、という意味の-etteという接尾語をつけ、侮蔑語として生まれたものだという。これを女性参政権論者たちが自分たちを指すことばとして自称し始めたのだ(本書訳者あとがきp.526)。彼女たちは言葉に新しい定義をあたえたのである。
 

ポスターを掲げるサフラジェット:アニー・ケネディとクリスタベル・パンクハースト: 女性社会政治連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)メンバー  (ウィキペディアより)

このあとのエズメの運命は、目まぐるしく展開するが、このあたりのことは小説のネタバレになってしまうので控えるとして、彼女の人生を一貫して貫いているのは辞書編纂、ことば集めへの情熱である。本書のなかでおりおりにエズメによる経験にもとづく定義と用例が掲げられる。
 シスターズ  共通の政治目標によって結ばれた女性たち、同志。
      <用例>「シスターズ、闘争に加わっていただき感謝します」
              (1906年:ティルダ・テイラー)
(p.204)
 そして、彼女はあるときふっと思う。
   わたしたちを定義するために使われることばは、わたしたちが他者と
  の 関係で果たす役割を説明していることがほとんどだ。 (略)”乙
  女”、”妻“、”母“ですら私たちが処女であるかそうでないかを世間に向か
  って公言している。(略)夫人、淫売、コモン・スコールド(近所迷惑
  なガミガミ女)に相当する男性を指す言葉は? (p.336)

 マレー博士の死後、辞典作りはまだ続いているが、スクリプトリウムは移転することになり、リジーとともに最後の片付けを行っていたエズメは棚に残っていた最後のカードを リジーから手渡される。それはマレー博士が失った<bondmaid>の語釈、用例の束だった。それにはこうあった。
Bondmaid 奴隷娘、契約に縛られた召使、または死ぬまで奉仕することが
      定められている者

 読んでおくれよ、というリジーに、エズメが「奴隷娘、って意味よ、嫌だと思ったことない?」と聞くとリジーはいう。「あんたは昔っから言葉は誰が使うかによって意味が変わるっていてたでしょ。(略)あたしはねえ、あんたがこんなちっちゃこい頃からあんたのボンドメイドだったの、エッシーメイ。そしてね、それを喜ばなかった日は一日もないんだよ」(p.480)
これを聞いたエズメはBondmaidということばに新しい定義を与える。
Bondmaid 愛情、献身、あるいは義務によって生涯結ばれていること
 そして、用例としてこのリジーのことばを挙げるのだった。

 リジーのトランクに貯めてあった「迷子の小さなことばたち」はやがて、一冊だけしかない辞書として印刷され、のち、ディーダの手でエズメの娘メガンに届けられることになり、この物語は完結する。

<♡付け足し♡ OEDの“女性蔑視”に変化の波が…>
 
OEDに含まれる差別的な定義や用例については、近年さまざまな指摘がなされている(例えば、女性(Woman)という言葉の“類語”に、日本語で言うところの“あばずれ”や“売春婦”といった意味の英語「Bitch, besom, piece, bit, mare, baggage, wench, petticoat, frail,bird, bint, biddy, filly」があげられていることなど)。2019年にはこれらの女性蔑視的な定義や用例を改めるよう求めるネット署名運動がおこり、2020 年、これを受けて差別的な内容を変更するとともに、ジェンダーに配慮した定義に変更するアップデートが行われた。(https://front-row.jp/_ct/17409609による)
 また、2016年にはMr.や Msに代わる敬称として“Mx ”(ミクス)が、2018年には、she, heに代わるジェンダーニュートラルな人称代名詞 “ze”(ゼ)が加えられた。
 
 オックスフォード英語大辞典が「男性仕様」でなくなるのには百年待たなければならなかったのである。


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