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不倫治療外来

新藤誠は大手企業の営業職。妻と子供の3人暮らしで郊外に一戸建てを新築したばかりで平和に暮らしている。彼はある日の帰り道に妙なクリニックに引き寄せられた。「不倫治療外来」古めかしい洋館のような建物に忽然と現れた奇妙な看板。そこで彼が見たものは…




1.プロローグ


今夜も残業で夜中近くになった。
郊外に家を建てたのと、会社が都心でやむなく電車通勤なのだがこんな疲れた夜は車で一直線に帰りたい気分になる。
くたくたになった自分と同じように無表情な人間が詰め込まれた車内には疲労を倍増させる饐えたような臭いが蔓延していた。
市街から遠ざかる度に満員だった電車から人間の束がゴッソリ減っていき、車両に1人だけになった頃いつも通りの駅に到着する。
人の気配はない。田舎の駅はがらんとしていて小用で不在にしているのか運転手のいないタクシーが一台だけ止まっていた。バス停の街燈周りには大きな羽虫が飛び交っている。
遠くで暗闇を引き裂くように稲妻が走り、数秒遅れで音が追いかけてきた。雨に降られてはまずい、そう思い足早に帰宅を急ぐ。
自宅は駅から近い。
暗い夜道は慣れていてもなんとなく不安で、雨も降りそうで歩く速度は自然と早まる。足早を通り越してもはや競歩のようだな、と独り言をつぶやいた。
そのとき、夜更けの路地から看板の明かりが目に飛び込んできた。
「不倫治療外来専門」
見間違いだろうか。
足を止めて一文字一文字確かめてみた。間違いなくそう書いてある。
普段見慣れているはずの道のりのはずなのに、今まで気づかない方がおかしい。
疲れすぎて半分脳が眠っているのか、片手で強く目を擦る。いや、やはり見間違いではなかった。
入り口から入ってみますか?
「はい」
「いいえ」
こんな時、昔よく遊んだ趣味レーションゲームならこんな風に選択を迫られるにちがいない。
しかし連日のように残業続きで、今夜は疲れている上に遅い夕飯を用意してくれている妻といつも先に寝ていなさいと諭しても聞かないで待っている子供の方を優先したかった。

2.異質な部屋


俺には欠点がある。好奇心が強すぎるという点は未成年ならまだしもいい大人が社会生活のリズムを犠牲にするまで度を超すのは明らかにまずい。だが早く帰宅したいという思いと突然視界に飛び込んできた看板の謎を知りたいという好奇心とが拮抗していた。
それにこれがもし夢なら、現実ではないのだからどうせなら少しだけ確かめてみたいという気持ちも強い。人間という生き物はどうも冒険心の強さは進化の上で重要なものとして遺伝子に組み込まれているらしい。
俺は看板の明かりのほうに近づき、一見すると廃墟のように殺風景な建物の前に立った。
「戸隠(とがくし)医院」
入口の表札にはそう書いてあり、文字の一部が禿げている。
暗がりの中でもレンガで出来ているとわかる赤黒い壁には蔦がびっしりと生え、窓まで覆っているのがわかった。
蜥蜴が1匹、物凄い速さで壁づたいに駆け抜けて行く。
窓からは明かりが漏れ、ついでに誰かの話し声が聞こえてきた。
見ると数センチだけ窓は開いており、思わず俺はそこからそっと中を覗き見した。子供の頃に友達数人で探検ごっこと言いながら他人の家の庭に侵入して家の主人にげんこつをくらった思い出が懐かしい。
窓の隙間からもれる空気を嗅ぐと病院らしいエタノールのツンとする刺激臭がした。
薄明りの部屋の奥には真っ白なシーツのベッドや薬棚や本棚やソファーなどが並んでいるのがわかる。棚にはアンティーク調の人形が不気味に座ってこちらを見つめている。

何かがおかしい。
部屋の中の物全てに違和感があるのだ。
時代遅れの古めかしさはドラマのセットのように、日常を完璧に似せようとしたときに起こるズレを感覚に訴えかけている。
まるでこの部屋だけが100年ほど手を加えられず時が止まっているかのように現実からの隔たりが確かにあった。
話し声は途切れない。


「……。」

「………。」

かすかな声の正体を見極めようとさらに窓際に近づいて覗く。

「……。」


「た……すけて……。」


その時、突然俺の視界に顔が飛び込んできた。

「うわあっ!!」

咄嗟にのけぞって俺は弾かれたように後ろに飛びのき地面に転がった。
心臓が飛び出すかと思うくらい激しく脈打つのがわかる。よろめきながら起き上がり俺は回れ右をして全速力で走って逃げた。
足がもつれ、引っかかって転びそうになるのも構わず必死で逃げる。
女だった。異様に大きく血走った目でこちらを睨んでいる。
恐怖で全身から冷や汗が止まらない。妄想の中で女の顔は巨大化して、俺の頭上から見下ろし、空全体に広がって低い唸り声をあげながら迫ってくる。

「うわああああー!!」

叫ぶ事で正気を保とうとしているのか、これまで出した事のない大声で俺は叫びながら走った。

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