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小説『エミリーキャット』第75章・origin

しかしその下に現れた彼は恐らくは実年齢より、はるかに若く見える人懐っこい笑顔の英国紳士だった。
彼はその若々し過ぎる容姿とは裏腹にまるで玩具のように小さな老眼鏡を掛けていた。

ビリー・ダルトンは鼻先にまで、ずらした老眼鏡越しのその瞳で、まるで下から掬(すく)い上げるように貞夫を見つめると、満面の笑みを浮かべてこう言った。

『佐武郎さん彼がそうですか?』

その笑顔は時々画集の巻末でも見かける画家のプロフィール写真と同じ端正な中にも明朗で茶目っ気にあふれた、あのまるでアメリカ俳優のような笑顔だった。
佐武郎がその通りだと伝えると、ビリー・ダルトンはそのちゃちな老眼鏡をまるで顔から剥ぎ取るようにして取り外した。
そしてネモフィラの花とそっくりのその碧い瞳を向けて、彼は貞夫をまるで労(ねぎら)うように笑いかけた。

彼は目の前の肩で荒い息をする色蒼褪めた青年を見て、貞夫が佐武郎に散々、
玩(もてあそ)ばれ薔薇の迷路を目が回るほど連れ回されたに違いないと思ったが、そのことは敢えて口にしなかった。

ダルトンの暖かい歓待の微笑みを見た貞夫は惑乱を深め、逆に取りつく島も無い気持ちとなっていった。

しかし笑うとダルトンの目尻には、大きな笑いじわがまるで傷痕のようにくっきりと表れた。
加えて微細なしわも取り混ぜるように一斉に顔中に現れ、一見酷く若々しい童顔であるダルトンの真の年輪と同時に、日本で長く暮らす外国人としての端からは解りづらい幾多の苦労の重積を貞夫はいやがおうにも感じる思いがした。

異国人ならではのあらゆる類(たぐ)いの容易にはとても説明のつかない苦労や困難は、貞夫にも決っして経験の無いことではなかったからだ。
そこで彼は唐突に思った。

『もしかしたら彼は”若々しい”のではなく、本来はもっと”若い”のかもしれない』

だがそれが皮肉にもダルトンを陽気で晴れやかな、と同時に巨大で寛容な人物に見せていることもまた事実だった。

『はじめまして』

と貞夫は一気に緊張する我が身を感じながらも、名前の通り鷹のような、とよく人から云われるその鋭い眼光を意識しつつアメリカ帰りという英国人に向かい、握手の手をいきなり虚勢を張って差し出した。

ダルトンは白い歯を見せ、酷く嬉しそうに笑いながら貞夫の日本人としては大きく厳(いか)つい手を、まるで手繰(たぐ)り込むほど広やかな掌で包み込み、暖かい握手を返した。

溢れ零れんばかりのその笑顔と託し込まれそうな温かく心地好い握手とに、彼はダルトンから思いもかけぬ強い包容を受けたかのような錯覚を覚え、ますます困惑した。

貞夫の背後から、彼を庭の迷路を目が回るほど連れ回すという意趣返しを果たした意地の悪い佐武郎がまるでその様子を愉しむかのように、嬉々として横から口を出した。

『ビリーさあん、
ここにお客さんのぶんのお茶も持ってくんべかな?
それとも』

と佐武郎は言いながらまだ貞夫のことを爪先からその顔までをも値踏みするかのように、無遠慮丸出しで矯めつ眇めつ凝視しているのを感じて貞夫は今更ながらむっとした。

『庭は気持ちがいい、
でもちょっと…
小寒くなってきた、
さっきよりも風が冷たいようです』

貞夫は『小寒い』などという日本人でもあまり使わぬような日本語をどこか日本語を話す外国人特有のあの妙に畏(かしこ)まったような慇懃さを含みつつも繊細に話すダルトンに驚いた。
貞夫が驚いたような顔をするのを面白がる様子を微塵も隠さぬ佐武郎は、そんなダルトンの言葉の接ぎ穂を継ぐと、こう答えた。

『んだあ、ビリーさん今時期の天気は女心みてえに気まぐれだからな、
そろそろ家さ、入ったほうがいいとおらも思うべ』

ダルトンは佐武郎の言葉に屈託の無い笑顔を見せると、
円卓上のニューヨークタイムスと一緒に英国の新聞をぞんざいに束ね持ち、椅子から急に立ち上がった。
貞夫は180センチある長身でフランス留学時、
『サダオは背が高いから何を着ても似合う』
とフランス人から褒めそやされたほうであったが、立ち上がったダルトンは彼より遥かに長身で肩幅も広く、貞夫は平素、辛口の評論をダルトンにぶつけていた自分が肉体という一見些細でありながらも巨きな障壁である現実にぶつかったようないかにも若い男性的引け目を感じた。

『このたいした実力も無い癖に猫だの少女だの甘美で小綺麗な絵を描いて、日本だけでの人気取りに成功した三流画家のペースになんぞに呑まれてなるものか、
どんなに手厚くもてなそうがそんなことで俺を手懐けられると思ったら大間違いだぞ』

貞夫はそう思いながらも、
自分を酷評する若い美術評論家を一点の陰も見当たらぬ自然な明るさで迎えたダルトンの深い父性に触れたかのような戸惑いに、貞夫は逆にヒリヒリするような焦燥感を味わった。

『祖国英国はおろか世界的にはまったく無名のアマチュア画家同然の英国人の前で、
俺は今、まるで幼若な鼻垂れ小僧にでもなったような気分だ』

彼は唇を噛みしめたくなるのを堪(こら)えたまま、ただ敵と思いたい相手といついつまでも執念深く固い握手を交わし続けた。

そんな貞夫の心中に露ほども気づかぬダルトンの過度に軽やかな様子と、何やら傍目からは量り知れぬ敗北感を噛みしめている暗い若者とを、
さながら大人と子供の対比を見るように、佐武郎はいつまでも無遠慮に眺め続けていたがやがてそれにも飽きたのか、佐武郎は妙に渇いた口調で貞夫に向かうと唐突にこう言った。

『家へ案内しますんで、
こちらへどうぞ』

佐武郎の常にひょうきんな薄ら笑いを浮かべたその瞳は、さっきまでの人懐っこい訛りと共にいつの間にか消え失せていた。

佐武郎を先頭にダルトンと並んで導かれ、心弱りしたまま貞夫はビューティフル・ワールドへとまるで獲物を取り逃がした猟犬のように何やらしょんぼりと尾いてゆくしかなかった。

すると遠目にも広やかな硝子張りの茶話室が、巨大なサンルームのように前庭に向かって張り出すように在るのが見えてきた。

その硝子張りの扉の傍で辺りに繁茂する薔薇に向かう女性の後ろ姿が見えてきたが、やがて彼女は彼らの気配に気づくとふり返った。
そして貞夫に向かって静かな微笑みと共に彼女は密やかに目礼した。
彼女の手には薔薇に水を遣(や)っていたのであろう、
銀色のじょうろがあった。
顎は小さく尖ってはいるが、ややふくよかな頬は桜いろに明るみ、笑うその頬に浮かぶ笑窪はくっきりと鮮明で、
その女性はまるで少女がそのまま成熟して中年の婦人となったかのような風情を想わせた。

『美世子夫人ですか?』

と思わずその可憐さに単純に感動した貞夫は彼女に向かってそう問うたが、じょうろを持つ女は微笑みながら首を振って答えた。

『いえ、私はこの家の使用人で佳容と申します』

するとまた打てば響くといったようにあの図太くも陽気な声がした。
『カヨちゃんべっぴんさんだべ?俺の奥さんだ、
ビリーさんの奥さんは家ん中さ居るよお兄ちゃん』

その家は半分はサンルームだが、奥まったその室内は、普通に天井のある造りのティールーム兼居間という貌(かお)で貞夫を迎え入れた。
その室内へと足を踏み入れる前から貞夫は既に森の中まで途切れ途切れに響き渡る幽かなピアノの調べに、気づいて耳を澄ませていた。

ビリー・ダルトンの''ビューティフルワールド”こと愛妻の美世子夫人が奏でているのだろうと、貞夫は勝手に想像したまま館へとダルトン達に次いで足を踏み入れた。

その瞬間、彼の中で何かがカチンと硬質の音を立てて、
まるで転轍機のように動いた。

と同時に”それ”は互い違いでありながらもしなやかにすれ違い、相互の隙間をむしろそのすれ違いに依りぴったりと寸分の隙間無く埋め合った。
すると狭いながらもスムースな小径は造られ、
そこへ遣(や)り水のような目には見えぬ力が押し流された。
溢れ、流れ出すその力が先に待つ深みへと貞夫を誘(いざな)うのを彼は感じた。

"何かが始まる…"

と彼は”知”ではなく酸素を肺へ吸い込むような無自覚の本能で理解した。
だが鷹柳貞夫はまだその時は無自覚であるその理解に、
気づきもしていなかった。

それが思いもよらず自分の人生の深過ぎる深淵の秘奥へと滲み通ってゆく巨大な力なのだと覚(さと)るには、貞夫はまだ若過ぎた。

サンテラスに沿った硝子扉を開けて中へ入ると、ピアノの調べは急に鮮明なものとなった。
憂鬱な調べを貞夫は最初エリック・サティと思ったが、
よく耳を澄ませるうち、
そうではないことが判った。
”一体なんの曲だろう?
奏者は適当に弾いているだけなのかもしれない”と彼は思った。

室内へと足を踏み入れた途端、白襟に明るい水色のワンピースを着て絹のような金髪の中、高生とおぼしき少女が、テーブルの前で古風なお手玉を使い、なんとかそれを巧く操ろうと没頭している姿が目に入った。
少女は男達へと顔を上げると、その晴れやかな笑顔を向けて急に甘ったるい声でこう言った。

『パパ、ママに作ってもらったお手玉に挑戦しているんだけど、どうしてもママほど上手に出来ないの』

『そうなの?』
ダルトンは娘とおぼしき日本語で語りかけるその少女に英語で返した。

『パパは外に居たの?』

『そうだよ庭に居たよ』

『私もついさっきまで居たけど、パパを見なかったわ』

『さっきっていつ頃のことだい?』

『30分くらい前、』

『それなら居なかったかもしれないね、
僕はそう長く庭にはいなかったから、』

『庭でお茶を飲んでいたの?』

と訊ねる少女にダルトンは
『そうだよ』
と答えるかわりに少女の額にキスをした。

ダルトンは貞夫を振り返ると、まるで失礼を詫びるかのように急に少し硬い日本語に返るとこう言った。

『タカヤナギさん、
これが次女のハリエットです』

と父親から紹介された少女はとてもハーフとは思えないほどの淡いブロンドではあるものの、椅子から立ち上がると、その可憐な姿はおよそ155、6センチ足らずの小柄な日本人同然だった。
彼女は初めて見る珍客を矯めつ眇めつ見ていたが、ふと口を開くとこう言った。

『貴方がパパに意地悪をしてる人なんでしょう?
違う?』

貞夫が思わず言葉に詰まって返事に窮していると、
そのあどけなさが一瞬、愛敏(あざと)くすら見える少女はこう言った。

『だから戦争はもうやめにしませんか?って言う為に、
パパが貴方を呼んだのね?』

彼女は片手でその長い金髪を背中へと振り払うと、
『これからはパパをもうあまり苛めないでもっと仲良くして頂戴、
タカヤナギ先生お願いよ』
と言ってそのあどけない誰からもうっとりとされるであろう愛くるしい笑顔を保ちつつ、貞夫にいきなり抱きついた。
ダルトンの娘から思いもかけぬハグを受けて、貞夫は自分の耳にもはっきりとその心音の高鳴りが聴こえるのではないかと危ぶむほどだった。

貞夫から身を離した金髪娘は一瞬何故だか得意げな目つきをして、目の前の青年をその未だ幼さのまだ抜けない色香を感じる視線を放ちながら、部屋の隅にあるカウチへと腰かけた。
そしてカウチの上で昼寝をする三毛猫を抱き上げると、ハイソックスを履いた脚を片方だけカウチの上へ伸ばし、
手摺りへ凭(もた)れかかるような妙にしどけない姿態を見せつけるようにして寝そべった。
寝そべりながらも娘は誘うような媚態をこめた意欲的な瞳を貞夫に向かって頻(しき)りに向けてくるのを、貞夫は小さく奇異に感じながらも同時に悪い気はしなかった。

美しい金髪娘に誘惑されて嬉しくないはずがない、

と彼は思いながらも、彼女が自分の美貌に自信があり、恐らくは関心を惹く男には皆すべからくこうして秋波を送っているのであろうと変な確信を得て、貞夫の中でその悦楽を帯びた気持ちは小さく胸の内で萎える気がした。

通常、男はみんなもっと素直にドキドキおっかなびっくりではあっても、あんな風に歓待されて更には幼い色香を向けられて決っして悪い気などしないであろうに、
と彼は心の中で呟いた。

”いつも俺は疑心暗鬼の中にいる…同性と居ても、
異性といても、
歳上と居ても、
歳下といても、
世界のどこにいても…
それが何故なのか俺だけが知っている…”

『ビリー貴方のお兄さんがまた今年も娘のお誕生日にお人形を送ってきたわ、
不気味でもううんざりなんだけど、どうして他のものに変えてくれないのかしら?
貴方からも少しは言ってよ』

日常的な会話程度なら英語は充分理解出来る貞夫の耳に、時折ではあってもその日本人らしいやや語尾が消失して聞こえる英語が中年と呼ぶにはまだ若いほどの妙齢の女性の声で語られるのを耳にして、彼は思わず振り返った。

真っ直ぐで艶のある黒髪を尖った顎先のラインで切り揃えたような断髪の日本人女性が白襟の目立つ紺のシンプルなワンピースに身を包み、その胸に大きな人間の赤ん坊ほどもあるアンティークドールを抱きながらダルトンへと真っ直ぐに歩み寄るのが目に入り、貞夫は女が美世子夫人だと気がついた。

くっきりと大きな瞳なのに猫のように目尻がキリッと跳ね上がったような印象を受けるその貌は、もうさして若くはないであろうに、まるで少女のような風情すらある。
彼女は西洋人形を抱いた大きな美しい大人を模して作られた日本人形のようにすら見える、と貞夫は思った。

美世子は貞夫の隣りを訝(いぶか)しむようなぶしつけな視線を彼に送りながらも、
良人(おっと)に足早に近づくと、やおらその西洋人形をダルトンの目の前へ突き出すとこう言った。

『アンブローズは毎年違う人形を送ってくるけれど、
娘達はもう人形送られて嬉しいような年頃じゃないのよ?』

貞夫の存在を気にしながらも赤裸々に語る親族同士の半ば密談めいた会話を、聞くともなしに聞いてしまった貞夫は薄葉紙一枚ぶんくらいの居心地の悪さを感じた。

彼らは自分が全く彼らの会話を理解しないと何故だか盲信し切っているが、こういう場合はどうしたものだろう、
と貞夫は思案に暮れたものの良い解決策は咄嗟には見つからない。

『いいじゃないか、
アンブローズはアンティーク商としてはもうあまり数居ない世界的な目利きの一人なんだから、
これは娘達の将来の保険のようなものなんだよ、
少なくとも兄はいつもそう言っている』

『それは解るけど…
でももう充分でしょう?
うちはまるで人形屋が開けるんじゃないかって思うくらい沢山あるのよ、
…気味が悪いわ』

『今年の人形はアンブローズいわくマニアの間では可成りの垂涎ものらしい、
今年彼が送ってきた人形は、たとえどこかの国で見つかったとしても、必ずと云っていいほど躰のパーツが一部失くなってしまっていたり、
あっても破損していたり、
ここまで完璧な保存状態のものはもう世界に二体と無いはずだと言っていたんだ、
それほど完璧なものはこの人形一体だけでも東京の一等地に一軒家が建てられるほどの』
と言いかけたダルトンの言葉を佳容が急に遮るようにこう言った。

『さあさあもうこのお人形はまたあのお部屋へ仕舞って置きましょうね』

佳容が貞夫を見る眼はまるで
''この男はちゃんと理解している、要心が必要”
と言っているような気がして、貞夫はやむを得ずそこに居ながら家の中の凝った造りの調度品などを見入るふりをした。
だが無防備な美世子夫人の言葉は更に続き、佳容は諦めたように深々とため息をついた。
『今までだってずっとそうよ娘達が抱いて遊べないような人形なんて…
バービーやタミーのほうがまだ喜ばれたのに』

『これはそういった玩具じゃないんだ、
将来君や娘達が困らないように、兄なりの気遣いなんだからそんなことを言っては駄目だ、有難いことじゃないか』

『ならどうして妹の誕生日には価値が低いほうのセルロイドやブリキのお人形で、
エミリーには世界におよそ二体と無いと言われる幻のお人形だったりするの?
去年はコレクターやアンティーク商の間では幻の人形と呼ばれるA.T.で、"これは完全な保存状態だから、ティラノサウルスの凍った屍体が発見されるのと同じくらいの掘り出し物だ、"と彼は言っていたわね?
それを惜しげもなくエミリーには送るのにアディには同じアンティークといってもせいぜいキューピー人形か…』

と言いつのる妻を制して良人は諭すようにこう言った。

『ミヨコ、何を言うかと思ったらあれも素晴らしい価値ある人形なんだよ?』

『でも今年の人形は、
これは…
ブリューでしょう?
私だって何年もかけて嫌でも知恵がついたから少しは識っているのよ、
フランスのブリューのものに違いないわ、
キッドボディとこの意思の強い顔の造りは、
恐らく経営者が変わる前の初期の作品ね?
父親と息子で人形制作していた頃のものかしら?
これが本物のブリューだとしたらビスクドールの王者と呼ばれるものですもの、
世界的にも相当レアなはずだわ、
おまけにエミリーにだけは人形だけでなくアンティークのイヤリングまで?
あの琥珀のイヤリングは中に羽虫が入っていて相当な値のものだと素人の私にだって解るわ、
アディには人形だけでエミリーにはイヤリングもだなんて、いくらなんでも18歳の娘に琥珀だなんてまだ早いわ』

『そうかな?
いいじゃないか、
彼女も気に入ったようだし、今回は偶々(たまたま)だろう、
妹には価値が低いだなんて兄は姉妹両方に素晴らしい人形を毎年送ってくれているんだからそんな意地悪な粗捜しはもうやめようミヨコ』

『意地悪?そうかしら?
彼はエミリーがまだほんの子供の頃から酷く可愛がって贔屓(ひいき)にしていたし…。
アンブローズは常識人の貴方と違って変わり者だから、
きっと血の繋がりなんて無いのに何故か自分とよく似た変わり者のエミリーのほうが妹のアディ―より可愛いのよ』

『しぃーっ!
もう黙ってミヨコ』

と彼は何故かピアノの調べの方角へ視線を滑らせると妻を制した。
ふたりの会話は室内に充満するピアノの調べに紛れながら途切れ途切れに聴こえたものの、話のあらましを理解するにはそれで充分だった。

『正真正銘の私達の娘はアディなのよ
貴方のお兄さんは一体何を考えているんだか』

美世子夫人がそう言いつのったところで、ピアノの調べは斧で断ち切るようにどこか乱暴に終わった。

と同時にピアノの前にそそり立つこの家に似つかわしくない椰子の植木の葉群に隠れて、
判然としなかった人影がいきなり揺らぐように立ち上がった。

その人影はいつの間にか自分の膝に乗り上がってきたとおぼしき酷く大きな猫を抱き上げると、黙って庭へ出ていこうとした。

その少女と大人の狭間に居るように見えるその裏若い女は、
どことなくこの家に住む通訳者か?
下働きの男か何かと間違いそうになるほど一見その立ち位置も性別すらも総ての境界線が曖昧で判りづらく見えた。

酷く長身なその女は、不慣れでお仕着せられた女の装りを仕方無く身にまとった青年のように奇異に見えるものの、それが一瞬の目の錯覚と気づくにはそう時間はかからなかった。

長い手足の動きは決っしてなめらかではなく機械的で不安げにギクシャクしているものの、
育ちのよさが伺えるのは意識しない所作の目立たぬ節々にこそ猫の額の如く、
狭く小さく顕著であった。

その不器用な苦痛をたたえた優美さが、さほど美しくもないその女を恰(あた)かも美しいと錯覚させてしまうほどであることに貞夫は気づき、
彼女を思わず凝視した。

女は鏡のように反射して見える奇妙な眼鏡を掛け、
母親と妹とお揃いで色違いの白襟と白い折り返しの袖口が目立つ後はごく簡素な灰色のワンピースを着ていた。

女は貞夫の傍を通り過ぎるその瞬間、彼を藪睨みするようなぶっきら棒な視線を投げ掛けた。
横顔になった僅かな瞬間、
女の長い髪が幽かに揺れ動き、陶器にも似て冷たげなその耳朶にミヨコ夫人が言っていた"18歳の誕生日プレゼント"なのであろうか?
古風なデザインの琥珀のイヤリングが垂れ下がり、夕陽のような色で一瞬輝くのを貞夫は見た。

同時に女は無言で庭へ続くタイル張りのテラスへと一見、もうあまり若くはないその仏頂面の猫を抱いたまま出ていった。

庭へ出る彼女とすれ違いざま、貞夫が自分にぶつかりそうなほど近づいてきた女の為に一歩退くようにして道を開けると、女はそれを当然のように眼鏡の反映で定かには見えぬレンズの奥の冷たいその瞳を貞夫に向けたまま、
一瞬何かを言いかけてやめた。

代わりに貞夫に向かって鋭い威嚇を含んだ低い声で猫が哭いた。

ただそれだけの一瞬であったはずなのに、貞夫は女もそしてその愛猫も、まるで揃って自分を見下しているかのような心地となって憤懣やるかた無い思いが波立ち、その胸に突き上げるように疼いた。

共に苦虫を噛み潰したような表情の女と猫とは、人間と動物という生体としての圧倒的差異を超えて、あり得ない起源、根源を彼らの間だけで軽々と発芽させ、その不自然を当然のように自然としてしまっているかのように見えた。

女と猫とはまるで血縁同士のように酷似し、それは水魚の交わり、類友、などという関係ですらなく彼らはさながら濃厚なほど仲睦まじく近しい双子のように貞夫には感じられた。

無論鋭敏なとこのある貞夫だからこそ、そこまで深掘りして感じたり考究したりするのかもしれなかったが、女とその猫とはその不自然な自然がよく似合う寡黙で安らかな"異常"で強く繋がっていた。

''猫と人間の一卵性双生児”
…と貞夫は思った。

『変な女だな、
ああいうのを異女と云うのかもしれない、
あのハリエット同様、
この女も恵まれた環境で甘やかされて育った厭味な金持ち女であることに間違いはないが、
こんな乙に済ました輩のご令嬢ぶりに合わせてやるほど俺はお人好しじゃない、
しかしあの女は誰から見ても可愛げのないあのふてぶてしい大きな猫としか心通わす相手も他に居ないのかもしれない、
家族の中で孤立したお嬢様か
、こういうタイプの女は通常の家庭ではあり得ないくらい様々な恩恵を賦与されながら何の感謝も無く育ちの良さに反比例してとことん性根が悪い、
フランスでもこういう気障で厭味な女は腐るほど居たが、日本でも居るには居たというわけか、
こういうのは後年バチが当たっていずれ孤独なオールドミスになるに違いないんだ』

持って行き場の無い怒りを、彼は毒のある想像をすることでしか紛らわすことが出来なかった。

"それにしても"
と彼は森へと立ち去ってゆく猫を抱いた女の後ろ姿を見て今更ながら思った。

『あの女は一体誰だろう?』

ハリエットと紹介された金髪の少女がダルトンの娘というのは解ったが、彼女は一体誰なんだろう?
そう思いながらもそんな自分を彼は少しばかり滑稽だと思った。

彼女はダルトン家の一族に間違いないと頭の中で決めてかかっていた癖に、それと同時にダルトンとミヨコ、
加えてハリエットの三者三様が、なんの抵抗もなくなめらかでシームレスなマチエールのように見えることに反して、あの奇妙な眼鏡を掛けた女だけがそれら家族の中から浮き上がって見えるほど、
唐突な存在に感じられるのは何故だろう?

本当にこの女は彼らの家族なのだろうか?
他人ではないのか?
父親にも母親にも妹にも誰にも似ていない、
両親に似ていない子供というのは何処にでもいるが、
そういうのとは何かが違う。

何か言い様のない本質的なもの、根源的なものが違っているように見えた。
でもその"何か"がなんであるのかまでは当然ながら明確には解らない、

しかしそんな彼の脳裡にふとダルトンの描くあの娘の幼い頃の姿がよぎり、濃いブルネットの少女像が浮かんだ。

その童女や少女はよく絵の中で、毛足の長い非常に大柄な猫と共に描かれていたのを思い出した彼は、そういえばあのふてぶてしい猫は娘の肖像画に描かれたあの猫とそっくりだと急に遅れて気がついた。

では"あの女"は"あの少女"なのか?

彼は今更妙に慄然としてしまい、平素ダルトンの絵を小馬鹿にしてこき下ろしてはいたものの、そう思うと不思議な興奮と共にときめきにも似た感情が胸の奥から水泡のように湧き上がってくるのを抑えられなかった。

"あんなヘンテコな眼鏡を掛けているから一体誰だか解りゃしない"
と貞夫は思いながらも、ふと美世子夫人の会話に出てくる"エミリーとアディ"と言う女性名は一体誰のことを指すのだろう?
と、次いで湧き上がる好奇心が騒いだ。

ダルトン家にはそんなに沢山の娘がいるのだろうか?
噂では姉妹ふたりと聞いていたはずだが?
森奥へとその後ろ姿を小さくしてゆく女の背中を貞夫は今になって惜しいような、
悔しいような、と同時に切ないような複雑に入り混じった妙な気持ちで見送った。

そんな彼に向かって美世子夫人がまるで顎をしゃくるようにしてぞんざいに良人(おっと)に向かって言うのが聴こえ、貞夫は目が覚めるように急に現実へと引き戻された。

『ねえビリー、
さっきから居るあの人は一体誰なの?』

『彼はサダオさんだよ、
タカヤナギ・サダオさんだ』

『まぁ…貴方ったら、
本当にあの人を家に呼んだりして、
信じられないわ』

美世子夫人が眉をひそめるのを見ても、貞夫はあの女はあの少女なのか?どうなのか?とそのことばかりが気になって仕方がなく、内心自分に、こんなにミーハーじみたとこがあるとは思わなかったと、自分で自分に呆れるような気持ちになった。

『タカヤナギさん、
今夜はうちで夕食を食べて行きませんか?
それまでまだ時間もある、
奥の部屋でみんなでお茶にしましょう、
上の娘は森へ出て行ってしまったようですが、
恐らくすぐに帰ってくるでしょう、
もうすぐ雨が降り出しそうだから…。』

館の奥へと佐武郎と佳容からも誘(いざな)われつつ、
貞夫はまだ女の遠ざかりゆく後ろ姿を視線の端で拘泥するかのように追った。

『彼女がエミリーだろうか?いや、そんなはずはない』

『確か…』と彼は思弁した。

『長女の名前はガートルードだったはずだ、
あの金髪の娘は彼女よりは年下に見える、
なら彼女はダルトンの絵によく描かれている上の娘のガーティか?』

次いで彼はふと思った。

『ではエミリーとは一体誰のことなのだろう?』

ダルトン・ファミリーと揃って廊下へと向かいつつ、
彼はその扉の陰から重い鉛いろの雲が低く垂れ籠めた空の下、
芝を短く刈り込んだ広い前庭の彼方に天候の為、まるで昏い帷(とばり)に閉ざされたように見える深い森の入り口を見た。
その森はさながら山の麓にでもあるあの巨き過ぎる裾野(すその)を拡げた森のはじまりのようにすら見えた。

飼い主と血を分けたかのように酷似した不機嫌極まる面魂(つらだましい)とオッドアイの瞳で貞夫を睨みつけ、
老いても尚、強靭さを感じるあの低く嗄れた声で唸るように鳴く大猫を抱いた女の姿は、もうそこには無かった。





to be continued…

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