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小説『エミリーキャット』第77章・suddenly

『彩さん?ついたわよ』

順子の声に彩はまるで階段の最上階を一段、踏み外すような衝撃の中、急に目覚めた。

虚ろなウィンカーの音が小刻みに鳴っていることに彩は気づき、そこが順子の車中であることを、彼女は唐突に理解すると同時に酷く狼狽した。

そして身の置き所がたちまち失われてゆくような恐怖感に囚われて彩は声を失った。

運転席の順子を見ると、彼女はやや眠たげなあの重たい瞼の下からその小さいが妙に円っこい瞳を精一杯見開いて、こちらを疑(じっ)と見ていた。
順子の眉はハの字に下がり、何故か呼吸を止めて一心に彩を見つめている。
唇は半開きになり、その唇で順子はこう言った。

『ねぇやっぱりやめたほうがよくはない?
家へ帰りましょうよ』

『…やめるって…なんのこと?』

彩はようやくその重い口を開き、やっとの思いでそう答えたが、長く黙っていたので、その声はかすれてやや聞き取りにくかった。

『何言ってるの?
ここへ来たいと言ったのは貴女よ彩さん、だから連れてきてあげたんじゃないの、
憶えてないの?』

『ここって…』

と彩はまるでいつの間にか大きな事故に遇い、知らぬ間に手術を受けて見知らぬ室(へや)で目覚めた人のように、頭の中に取れない霞みがかかったかのようなどうにも不自由な自分の心身を感じて内心、惑乱し切っていた。
濃霧のような頭重感に支配される中、彼女は思わず瞳を閉じると囁くようにこう言った。

『…ここってどこ?』

『彩さんまだ昨夜のお酒が残っているんじゃないでしょうね?本当に大丈夫?』

と、順子の驚きを隠せぬ声が問うた。

『…私、違うところに居たの、どこか別の…此処とは違う…遠いところ』

彩は眉間に手の甲を当てたまま、問わず語りにこう答えた。
『そこでエミリーと…
鷹柳先生が……
ふたり揃って森を目指して遠ざかっていったわ、
私はふたりを追いかけたの、追いかけて…どうにかなるものでもないのに、
私もふたりと一緒に居たくって…でも駄目、
ただ見ることしか出来なくて…
私はまるで…
空気になったみたい、
声をかけることも触れることも出来ないの、
ただ二人を眺めるだけの…
まるで森の精霊か、
風のように無力なの、
私に出来たのはただエミリーの傍に漂いながら…
ゴーストのように、
虚しく彼女を見守っているだけ…。』

眉間に手の甲を当てたまま、彩の隠れた眦(まなじり)から熱い泪が溢れ、陶器のように冷たい頬を次々と伝い落ちた。
『夢を見たのね?
鷹柳さんが話したことが夢となって彩さんの脳裡に蘇ったのよ、きっと』

人の善い順子の声は既に同情の色に濡れたようなビブラートを車中に低く小さくエコーした。

『夢?』

彩がそのささやかな優しい反響を振り払うように言うと順子は深く頷き、きっぱりとした口調でこう言った。

『そうよ鷹柳さんの話してくれたことは大変な内容だったもの、全ては話し切れないと言いながらも、あんな内容を聞かされたら…
私だって夢に見そうよ、
彩さんなら尚更だと思うわ』

『そんなんじゃないわ、
あれは夢なんかじゃなくて…』

と言いかけて彩は再び眠りに吸い込まれるかのように銀色の淡い麗糸(レイス)の帳を抜け、さながら井戸の釣瓶のように闇の奥深く滑り堕ちてゆくように気を失いそうになった。

『一体どんな夢だったの??』

順子は彩の今にも崩れ落ちそうな危うさを感じ取り、咄嗟に彩の両肩を掴んで揺さぶりながらそう問うた。

『まだとても若い…
…あの頃はなんだか…
今と違って、蒼白くて背と気位ばかりが酷く高い感じのする…
でも肩幅は広くて素敵だった…だけどとても可笑しな服の趣味なの…
似合わないちょっぴり滑稽な帽子を被ったりして…』

そう言いかけて彩は、まるで夢の半ばに居るように思わず吐息を漏らすと同時に愉しげに笑うとこう言った。

『でも今と変わらないあの撲切棒(ぶっきらぼう)で強い鷹のような眼差しを持つ…
美しい青年の鷹柳先生を見たわ…
その青年と十代のエミリーとが初めて出逢うの、
そして…』

『そして??』

順子は今にも崩壊しそうな彩の心を支え持つ為に敢えて質問を、ぶつけたというのに、今や彩の話に惹き込まれるようにその身を乗り出してしまう自分を彼女は内心小さく恥じた。

『…それだけよ、
すぐに目覚めてしまったもの、でもあれは夢じゃないような気がする、
夢だけど夢じゃない、
そんな気がする、
私はきっと彼らのあの時代へ帰っていたのよ、
あの時代、あの世界は今の世界の陰に重なり合うように隠れているだけで、本当はまだ存在しているんだわ、
森に森奥があるように…』

順子は固唾を飲むと胸にそっと手を当て、暴れ馬のように自分の内で騒ぐ不安を無理矢理、抑え込んだ。
そしていかにも怜悧で気丈な声と口調とで彩を試みた。

『ねぇ彩さんさっき貴女こう言ったの憶えてる?
あのマンションの…
森の一部がほんの少しだけ残されたところへ行ってみたいって、是非連れて行って欲しいって』

『私、そんなこと言った?』

自分を見つめ返す彩の瞳が何やら焦点の定まらぬ、心此処に在らずのようであるその様を見て、まるで心臓を鷲掴みにされたかのような疼痛に近い恐怖を順子は感じた。
そして彼女は不本意ながらもまるですがるような口調となってこう言った。

『ねぇやっぱりやめたほうがいいわ、このまま私のうちへ一緒に帰りましょう、
どうせうちの人はまだまだ出張で当分帰らないんだから、今夜もうちへ泊まっていっていいのよ、
タロウだってそのほうが喜ぶわ、タロウったら彩さんのことが大好きなんだから、
彩さん、マンションへ帰ってもどうせ独りぽっちなんでしょう?
それならうちで私と居るほうがいいわよ、今こんな状態で独りぽっちだなんて良くないわ
なんだか貴女、様子がおかしくて…
私、彩さんが心配なの』

彩は頭の中にまるで蜘蛛の巣が張っているように幽かに混濁した意識の上澄みの中を漂うような不安に抗って、浅い呼吸を無理矢理整えようとした。

深く息を吸い込み、薄く長く吐くと同時に、少しずつ脆弱ではあるが、
確かな光のような意識が緩やかに自分の中へと立ち戻ってくるのを彩は感じた。

まるで深い青味泥の水の底から明るい水面(みなも)へとゆらゆらと立ち昇ってゆくかのように、
その蜘蛛の巣が濡れた銀糸のように鈍く輝くのを彩はかつて見た懐かしいもののように視界の外(はず)れで見送った。

『朝になったら絶対、撤去してやるからな!』

という馨(かぐわ)しい夏草の匂いを想わせるあの水々しく心地好い青年の声が、彩の脳の奥底から未だ現像されていない映像のように薄蒼い影となって揺らめいて彩を眩惑した。

そしてその幻影はさながら蝙蝠の羽ばたきを間近で聴くように一、二度強く彼女の耳朶(じだ)を打つように鳴り響いた。

その声に実態は無かったが、それは絶対に在るものなのだと彩はその孤独過ぎる確信をひっそりと深めた。

彩は改めて車窓の外へと瞳を放った。
順子の車は本来は禁じられているであろうあの高層マンションの敷地内へ入り込み、公園の傍に停車されていた。

『…ここ車停めていいの?』

と彩は今やなんの関心も無いことを形ばかりの質問に乗せて順子に振り向けた。

『マンション前の車道に停めようかと思ったんだけど…
そっちのほうがかえって目立つ気がして…
そのままこっちへ来てしまったの、ここだってマンションの私有地ではあるんだけど…
一時駐車許可証も一応は置いてあることだし』

言われて見ると、順子は一枚のボール紙を塵埃にうっすら塗(まみ)れたスヌーピーの小さな縫いぐるみで挟むようにしてフロント・ガラスに立て掛けていた。

外から見れば”一時駐車許可証”の印字は見えるのであろうが、車中からだと、ただ全体的に黄ばんだ地色に珈琲か何かをこぼした跡のある旧びて小汚ない紙にしか見えなかった。

『ここの許可証じゃないんだけどね、』

と順子が言うのが彩にはどこか遠く虚ろに鳴り響く、見知らぬ女の独り言のように聴こえた。

『でもせめてこうしておけば…少しの間だけ誤魔化せるかなと思って』

彩は順子の困ったような微苦笑からゆっくりと、その視線を目の前に続く公園に向かって巡(めぐ)らせた。

公園は何故か遥か遠くに離れて見えた。
ついこの前見たはずなのに、その公園は味気ないほど小さく頼りなくまるで現実味が無かった。公園もその奥の木立ちですらも、何かミニチュアのプラモデルか、適当に造ったジオラマを見ているかのような人工物じみた印象を受けた。

それらは見つめれば見つめるほどやけに無機質でちっぽけな印象を強めてゆき、彩はまるで髪の毛ほどの、か細いが切れ味のいい絶望にその身がそっと優しく圧されながら、ゆっくりと、だが確実に切断されるチーズケーキの悲しみを味わった。

そして彩は思った。

“このねっとりとした生理的な怖れと悲しみを、私は過去にも知っている”と…。

『…こんなに小さな公園だったかしら』

と彩はいつも通り鈍感を装うと、やっとの思いでそう呟いた。

『ええそうよ』

『私ここへ来たの二回目の筈なのにまるで…初めて来たみたい』

『この間は夜だったから…
今は昼間だから少し感じが、違って見えるんじゃないかしら』

さりげなく努めながらもそう答える順子の声は不安げだ。

『私ね、順子さん、
施設にいた頃…
よく他人の家へ何泊か泊まらされたの、そうして他人の家庭に2、3日の時もあれば、一週間、十日、二週間、
長い時であれば半月、一ヶ月
…そうするとね、
そのうちの家具や、毎日使う什器類、お箸やスプーン、
お茶碗やコップ、そこの家庭の趣味が滲み出ている…
お母さん達が使うフライパンやお鍋、ボウル、卵を割ってカシャカシャ掻き回す泡立て器…

そのうちの子供が持っていたぬいぐるみや人形、
ノートや筆箱、ランドセル、

けばけばしい色のアニメのタオルや親戚から貰ったという上品な刺繍のハンカチ、
ドラえもんが蓋に、プリントされたキャンディの空き缶、

その中に大切に仕舞い込まれた桜貝や玉虫の羽根、
片方だけになってしまったその家の主人(あるじ)の七宝焼のカフス・ボタン、
中身のもう無い黄金(きん)いろのキラッキラの口紅の容器、

一つだけの硝子の釦や、
川辺で拾ったという淡紫(うすむらさき)の素敵な小石、
何故だか時計の真っ赤な竜頭(りゅうず)だけが取れたもの、
痛ましい交通事故の現場で拾い蒐めたというあの砕氷のように光輝く名も無いダイヤモンドの欠片達(かけらたち)…

それら無価値で美しい、
様々なものが目に染みついてまるで自分のうちのもののように私の中でリアルに根づいてしまうの、

だってどれもが子供の目には奇跡的なほど魅力的で…

可笑しな喩えだけど、まるで半分自分自身のようだった…
なんにでもなれるとまだ信じていたあの頃の自分のように輝いて素直に見えた、
肌身に沁みた懐かしい原風景のようだった…

でも結局施設へ帰ってくる…
そうすると施設にある机も自分の持ち物も家具の一つ一つまでもが、今度は何もかも借り物のようにウソっぽく、まるで縮んだように渇いて小さく…そして味気無く見えたわ、
粗末とはいえないまでも、
確かに家庭にあったものよりは、機能的で地味ではあったけど…あれってきっとまだ幼かったからなのよね…
とても失望を感じて見たものだったわ…

一般家庭にある様々なものはタオル一枚、お皿一枚にしても家族の趣味や子供の好みがそこここにいかにも世俗的に反映されていることが普通だった、
仮にどんなにそれが悪趣味であったとしても私にはその悪趣味を選べることが羨ましかった…

でも施設のそれは…
なんというのか…そういった類いの俗っぽさが無かったの、
全然無いわけじゃないんだけど家庭の“それ”のようにそれが普通で同時に濃厚な選択肢として当たり前ではなかったの、でもそれがいいとか悪いとかでは無くて…
まだ幼かった私にはそれらがのっぺらぼうのように見えてしまって、
でもだからといって何故あんな風に感じたのかしら?
何もかもが小さく遠く縮んでしまったようだった、
あれは一体なんだったのかしら?私はそれを誰にも言えなくて…何故だか怖くなってしまって…

ただ黙って夜、布団の中に潜って独りで震えて泣いていたの、声を殺してね…

でも本当は独りで泣きたくなんかなかったわ、
誰かに抱いて欲しかったの、
大丈夫だよって髪を撫でて、背中をさすって欲しかった、
でも現実はいつも独りで耐えるしかなくて…

でも翌朝それらを目覚めて見たら…
それらはもう小さくもなければ味気無く渇いたようでもなく…いつもの見慣れたもう一つの懐かしい原風景に過ぎなかったの、
それはそれでもう終わったことなんだし、怖くなくなったんだからそれでいいはずなのに…
心の中に残るあのどうしようもない痛いほどのさみしさは…一体なんだったのかしら?

私の居場所はどこにも無いんだってそう感じたのかもしれない、

施設が不満だとか厭だったわけでもなかったし、よその子になれるわけでもなかったし、どこも皆、懐かしいのに懐かしくない、

それなのにまるで全然人に懐かない保護動物のトライアルみたいに、転々と預けられてはまた同じ地点へ帰らされる、
よその家庭に慣れる為の訓練のようなものだったのかもしれないけれど…
私は辛かった、
だってそれらは大人がやりたい実験でしかなくて、子供の私はいい加減うんざりしていたんですもの、
もうほっといて!
そっとしておいてよって、
だってそんなことをされるたびに凍らされてまた自然解凍されてを繰り返す何かのように、私の心はどんどん萎縮していったの…
まるで誰からも愛されない仔猫のように…』

彩は壊れたダムが崩水するように、問わず語りにそう言い切ると突然顔を覆って泣き出した。

『……彩さん帰りましょう』

順子は助手席に座る友をそっと抱き寄せると、自分も濡れそぼった涙声となってそう言った。

『その話はまた家でゆっくり聞いてあげる、
だからもう帰りましょう、
私達は…特に彩さんは…
もうここへ来てはいけなかったのよ、
帰ってふたりでよく話し合いましょう、温かい飲み物でも飲みながら、もっと落ち着いて…
私、貴女の話を沢山聞いてあげる、
女ふたり、また夜明かししてしまってもいいじゃない?
いろいろ話しましょうよ、
そしてね、
それを汐に…もう忘れるの、
此処のことも、
鷹柳先生が話したあの話も…。
…そしてエミリーさんのことも、もう何もかも』

急に眠りから覚めたように順子の腕を邪険に振り払い、
その身を突き放すと彩は悲鳴のようにこう言い放った。

『エミリーのことも?
そんなこと出来るわけないわ彼女は他人じゃないのよ、
貴女には解らないのよ、
私達は同じ魂を持っているの、ふたりは繋がっているのよ、ロケットペンダントの片割れ同士のようにね、
長く離ればなれだったけど、ようやくふたりは一つになれたのに!』

『なれていないから貴女は今此処にいるのよ、
私はそのほうがいいと思っているわ彩さん、
エミリーさんのことはもう諦めて、
美しいけど辛い夢を見たと思ってもう忘れましょう、
私も今、目の前にある現実を大切にして生きてゆきたいわ、彩さんもそうすべきなのよ』

『応援してくれるんじゃなかったの?私達のキューピットになってくれるって言ったじゃない、順子さんっ!』

『後悔してるわ、
何故あんなことを言ったのかしら?でもね私、本当のこと言うと、そう言ったこともよく憶えていないのよ、
あの時私、電話でこう言ったでしょう?
もしかして私の口を借りてエミリーさんがそう言ったのかもって』

『……』

彩はそれを聞いて順子から苦しげに視線を反らすと、遠い公園を潤んだ瞳で睨(にら)むように見つめ続けた。

しかしそれらはミニチュアの玩具か、マッチ棒で建てたように見える遊具も公園そのものも、その奥に在る遠い木立ちまでもがプラスチック・ツリーか造花のように無機質で渇いて虚無的にしか彩の眼には感じられなかった。

が、彼女は急に異様な存在の忽然(こつぜん)たる出現をそこに発見し、思わず瞠目した。

それは電話ボックスだった。

公園の向こうに僅かに拡がる森の名残りのあの疎林が、
花冷えを孕(はら)む春風に、心地好い葉擦れの音を立てていた。
それは離れた車中に居るというのに、彩の耳にも鮮明(はっきり)と届いた。
彩は思わず瞳を閉じてそのざわめきに陶然と耳を澄ませた。

”ああ…まるでビューティフルワールドに居るみたい、
エミリー、
貴女とふたり、
寄り添って聴いたあの懐かしい森の音だわ”

再びゆっくりと瞳を開いた彩は、あの疎らに立つ貧しい木立の奥に突如顕(あらわ)れた旧惚けた電話ボックスが、
同時にずっと前からそこに在ったかのように悠然とそそり立つのを、もう一度視線を絞って見澄ました。

電話ボックスは仕切り硝子を真紅(しんく)の木枠で取り囲んだ、どこか異国情緒のあるフォーン・ブースといった風情のものだった。

そしてそれだけが半分睡って覇気の失せた目の前の総ての事物の中、妙に冴えざえと鮮やかでそして生々しく現実的に見えた。

他のものがすべて縮んで嘘っぱちに見えるというのに、
電話ボックスとその内側に点る灯りだけが凛烈とし、同時に暖かく彩を見つめていた。

『ねぇ順子さん…あれって…
前にもあった?』

と彩は電話ボックスを見つめたまま、熱に浮かされたような口調でそう言った。

『え?』

と順子は彩の視線の先を手繰(たぐ)るようにして見ると、怪訝な声を出した。

『あら、本当だわ、
変ね、私何回もここへ来ているけど…あんな電話ボックス見たことが無いわ、
だってこの前二人で来た時だって…』

と言いかけて順子はふとその口を噤(つぐ)んだ。

エミリーの母親の白骨体が発見されたという場所に建てられた、あの小さな、ごく目立たぬ慰霊碑が遠目にも無いことに、急に気がついたからだ。
その代わり、ついぞ見慣れぬ電話ボックスが、ざわめく木立の中央に忽然(こつぜん)とそそり立っている。

『帰りましょう彩さん、
私達はもうここへ来てはいけないのよ、来るべきじゃなかったんだわ』

そう言うと順子は驚く彩の前で勢いよくエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。

『待って順子さん』
と彩は、眼には見えない蜘蛛の巣の向こうから泣き叫ぶように哀願した。

『お願いだからちょっと待って!』

そう言うか言わぬかのうちに彼女はその弱々しげな言葉とは裏腹な俊敏さで、いきなりドアーのロックを解除し開けようとしたが、目の前でドアーは再び切るような鋭利な音を立ててロックされた。
彩がもう一度ロックを解き、更に即、順子がロックする、この繰り返しののち、彩は運転席の順子を鋭く振り返った。

自分を泪ながらに睨み返す彩の瞳に負けた順子は深々とため息をつくと、
『解ったわ、
でも少しだけよ、
お願いだからすぐに帰ってきてね、
そのこと…
約束出来る?』

彩は深く頷いた。

するとドアロックは何かを突き破るようなブツッという鈍い音を立てて解除された。

彩は外へ滑り出るなり、フロントガラス越しの順子の前を、嵐に舞う何か判らぬ飛来物のように禍々(まがまが)しく横切った。
更に傷だらけのその飛来物が、風に煽られ、地面を大きく転がるように疎林に向かって不安定に跛行(はこう)しつつも、その動作は急に舵を切ったかのように途中からふいに正確となった。

そして疎林目指すと一目散に彩は駆け出して行った。

順子はハンドルを握ったまま絶叫した。

『彩さんっ!』

順子の車の周りの小径と離れた公園の周りには、桜並木がふたりを取り囲むように燦然(さんぜん)と咲き誇っていた。

渦を巻く一陣の風に、無数の桜の花弁が巻き込まれ、小さな薄紅いろの竜巻のように地面を滑りゆく。

その上を彩はまるで蹴るように前のめりになって走ってゆく。その様はまるで壊れた機械仕掛けの人形のようだ。

にも関わらず惑うことなく真っ直ぐ疎林目指して走ってゆく彩を見て、順子は思わず込み上げる嘔吐に酷似した恐怖を覚え、その顔からは一気に血の気が引いていった。

順子は車中から飛び出ると、恐怖に耐えてもう一度叫んだ。

『彩さんっ!
駄目よ!戻ってきてっ!!』

すると次の瞬間、順子はまるで事件のような恐ろしい風景になんの前触れもなく出くわして思わず卒倒しそうな心持ちとなった。

順子と走り去る彩との間に、見知らぬ男がふいに影のように踊り出るなり駆けてゆく彩にたちまち追いすがり、彼女に獣を捕らえる投網(とあみ)のように覆い被さったからだった。

彩は男に羽交い締めにされ、狂ったように悲鳴を上げながら抗っていたが、やがてもうひとりの歳かさの男が、そこへ飛び込むように参戦すると、二人がかりで彩を抑え込み、やがて彼女を一網打尽にしてしまった。

少なくとも怖れ戦慄(おのの)く順子にはそう見えてならなかった。

彩は号泣しながらその場に膝を突いて組み伏せられ、地面に泣き崩れた。

『彩さんっ!!』

順子はこんな時、嘘でも役に立つあの大きな臆病でのんびり者のシベリアンハスキーのタロウを連れてこなかったことを心の中で激しく悔やんだ。
今や身動き一つ取れないほど男達に取り抑えられた彩へと、順子は熱(いき)り立つ恐怖の中、全速力で駆け寄ろうとした。

『彩っ!馬鹿野郎!
どこ行ったのかと心配してたんだぞ!
電話にも全然出ないしここへ来たらもしかしたら彩が居るかもしれないって山下さんが言うから来てみれば!』

その声に順子は新たに湧き起こる戦慄と緊張とに思わず立ちすくみ、その場から息を飲んで彼ら三者三様を見守った。

『なんでこんなに心配させるんだよ!なんでこんなに俺を苦しめるんだよお前はっ!』

と言うなり若いほうの男は、地面に倒れた彩の身が反転するほど激しく平手でその頬を打った。
が、順子の眼にその様は何故か酷く痛ましく映った。
それは彩がというよりは、
その男のほうに共感じみた感情が訳も解らぬまま自分の中に湧いてくるのを、彼女は戸惑いつつもどうしても止めることが出来ないからであった。

順子は何故か安堵の余り逆にその場に凍りついたようになり、佇立したままただ呆然と震えていた。

その前で白髪混じりの男が、彩に再び手を上げようとする若い男の手首を、渇いた鞭のような音と共に受け止めるとこう言った。

『もういい!
やめなさい!
彩ちゃんは病気なんだ、
正気じゃないんだよ、殴るのはよせ!君の婚約者じゃないか!』

“婚約者?…じゃああの人が…”

順子はしっかりと固く握りしめた両手を唇にあてたまま、その唇が戦慄(わなな)き、
その奥で歯がカチカチと楽器のように震えて鳴るのをまるで他人事(ひとごと)のように彼女は聴いた。

泣き咽ぶ彩を荒々しく抱き締めると声を上げて自分も泣きじゃくる若い男の隣りで、若々しくはあるが白髪混じりの男がやがて順子の存在に気づき、酷く訝(いぶか)しげに彼女を凝視した。

彩を抱き締めたまま身も世も無いとばかりに慟哭する若い男の傍で立ち尽くし、こちらを黙って見つめる初老の男、

すると突然彼らの背後に遠く続く疎林が何故か順子の目に飛び込むように急に色濃く鬱蒼と深く蒼い森の始まりのように見えた。

それを見て”そんなはずはない”と順子は心の中で囁いた。

あの疎らにしか残されていない僅かな貧しい木々は、今や豊かに繁茂し、その張りのある葉群(はむら)を弾むように風に揺らす、遠く昏い、そして巨大な森と化してしまっていたからだ。

そしてさながら眼には見えない門扉を開くように内側に向かって木々は梵(そよ)ぎ、その奥にひっそりと赫い木枠の電話ボックスが屹立するのを順子は信じられないと思って見た。

昏い森奥でそれは誘蛾灯のようにぼんやりと灯りを点(とも)し、その全容を闇の中、
自らの光で露(あらわ)に魅せていた。

しかし順子の目にはさながらそれは優しい悪夢のようにしか見えなかった。

そこだけがまるで剃刀で切り取ったかのように真昼の中の夜を感じさせたからだ。

宙(そら)と森との間(あわい)に見る、それはいかにも不自然な自然だった。

しかし順子を含め、彩と男達とを取り囲むこの世界は、
あくまでも平常(いつも)見る真昼の穏やかな世界である。

順子はいったいどちらが本物でどちらが虚構なのか?
と惑乱しつつも森の上に拡がる空が、態とらしいほど象(かたち)の揃った雲を浮かべたまるで舞台の書き割りの絵のようであることを感じて、彼女は自分の領(うなじ)の毛が一本一本音を立ててまるで意志あるもののようにそそり立ってゆくのを感じてゾッとした。

そしてその不安感という牢獄にまるで閉じ込められたような気持ちの中から順子は必死で勇気を振り絞り、彩を救いたい一心でこう叫んだ。

『ここはもう…ビューティフルワールドなんだわ!
エミリーさんの眠っている場所は…もしかしたら近いのかもしれない、
鷹柳さんが神父となってエミリーさんに洗礼を授けたという場所も、
亡くなった彼女の遺灰を撒いたという場所も、

もしかしたら母親の美世子さんが見つかったという場所とほぼ同じところなのかも!
だとしたら、私達は長くここに居てはいけない!
ここは生きている私達とは違う世界、別の世界なんだわ』

何故そう思ったのか?
そして何故見知らぬ男達を前にして、そうまで言いつのったのか?
順子にはそんな自分が自分でも到底理解出来なかったが、同時にその考えは彼女自身の中へと突然、落雷し、つらぬかれるようにして感じたものに過ぎず順子にとってそれは今や確信以外の何ものでもなかった。

そして順子はその確信のまま、更にこう叫んだ。

『早くここから立ち去りましょう!ここは現実の中に在る白昼夢なの!
白昼夢だけど現実なの!
でもずっとここに居たら私達、白昼夢に飲み込まれてしまうわ、
特に彩さんはここに居ては駄目!私達は帰らないと!
私達の世界へみんなで帰らないと!』





  to be continued…


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