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小説『エミリーキャット』第10章・先の見えない不安

彩は二回目の乳癌の全摘手術以降、メランコリー性鬱を患うようになった。
全摘手術以降、暫くは何も出来なくなり、米を研ぐのも酷い苦痛が伴いコーヒーをこぼさずに普通にマグカップを持ち上げることすらままならなくなり、洗顔や洗髪、寝返りすら苦痛が彩の行住座臥の一挙一動を支配し、彼女の公私の営みにどうしようもない不自由を与えた。
やっと小康状態に移行してきたかと思ってもパソコンを打つことすら酷く辛い肉体労働と化し、またそういったあらゆる人間らしい起居に伴う動作という動作は人体のリンパの流れが正常な方向へ戻ろうとするのを阻止してしまうという皮肉な状態を生む為に、彩は以降、寛解(かんかい)した後も煩わしいリストレスト無しにはパソコンでの作業などは、全く出来なくなってしまった。
また長時間の仕事の為の、やむを得ないパソコンの作業ですら医師に完全に禁じられ、家事全般にも『なるべくしないように』という非現実的な御達しが下り、彩は“そうすると生活が出来ない、私は独り暮らしなんですよ。
上膳据膳のご身分でもなければ放っておいたら我が家はゴミ屋敷ならぬゴミマンションになってしまいます”と彩はムッとして年輩の男性医師に抗弁した。
『私には貴方と違ってなんでもやってくれる奥さんは居ないの、
なんにもしないでいたら私の暮らしは全く機能停止をしたままフリーズしてしまうわ』そう言いたいのを堪えて彩は医師に冷たい一瞥を何度もちらつかせて、鈍感な医師に一抹の苛立ちを与えてから薬を貰って慇懃な態度と微笑で帰宅するというパターンが増えていった。
彩は医師に嫌われることなどもうどうでもよかった。
それほど彩は絶望し、心身共に疲れ果てていた。
薬の副作用で酷い疲弊を感じる彩は、綺麗好きな心情とは裏腹にどうしても散らかり気味になる部屋や料理にせよ家事の逐一があまりの苦痛となぎ倒されそうな強い疲弊感とで、思うように出来なくなってしまった自分を彼女は責めた。

リンパ節を除去した為に全摘した胸のほうの腕がむくみ、医師からは『まだ軽症なほうです』と言われながらも浮腫が浮かび、それが心中ひっそりと美意識の高い彩を深く傷つけ悩ませた。
浮腫とむくみを軽減させる為の弾性グローブや弾性包帯が暫くの間彩の必需品となったが、保険が効いても尚そこそこ高額な為、それもまた彩の鬱を悪化させる沢山ある拍車のひとつとなった。
浮腫とむくみの為に別人のように相変(そうが)わりした自分の顔や、しなやかだった腕や手指がパンパンに張り切って、まるで大きな赤ん坊の手の甲や指を見ているようで彼女は毎日独りで寝室のベッドの上で泣き暮らしていた。
術後のむくみの為に彩の両眼共にバランスのいいくっきりと鮮明な二重瞼が、極度のむくみの為、腫れ上がり別人のようになってしまった時は慎哉と濃色のサングラス越しにしか会話をしないという他者から見れば一見奇怪に見える精神状態に彩は追い込まれていた。
本当に、もとの自分に戻れるのだろうか?
そのことのほうが癌が治るだろうか?以上に彩にとっては先の見通しのつかない冥(くら)いトンネルの中をひたすら歩き続けないとならないかのような、いたたまれない不安とストレスに、さらされ続けるのと同じだった。
医師もむくみや浮腫が癒える時期や、大まかであってもいいから目安を教えて欲しがる彩に対して、伝える目処(めど)がその都度変わったりと曖昧なので、彼女は疲弊し切ってしまい失望というより絶望に近づいていった。
それだけ彩に巣食う鬱は重かったのである。


上郷との別離、そして堕胎のことがひとつひとつについて回り、一挙手一投足、私は罰せられないことが無いのだと彩は総てがドン底にしか感じられなくなっていった。
傷だらけになり過ぎた彩は極度の人間不信の中で、独りで泣いて悶え怯える…。
そんな日々が延々と続いた。
毎夕のように彩のマンションを食材を携えて訪れていた慎哉は、自分が来る頃には、いつもきちんとごくシンプルな部屋着とはいえ、一日中パジャマで過ごすことを好まぬ彩は日々着替え、薄化粧をほどこし家事もそれなりに苦痛と拮抗(きっこう)しながらもなんとか徐々に元の生活のリズムに戻りつつある、一見立ち直っていっているかのように見える彩のうわべだけを見て、慎哉は安易に我がフィアンセに深く巣食う懊悩(おうのう)を全く知らないまま、すっかり安堵してしまっていた。
ずっと続けていた抗ガン剤をやめてもよいと言われ、ちょうど全摘手術をして1年経った頃、彼女は抗ガン剤治療の激しい副作用以上に上郷との子供を堕ろした罪悪感に日々苛まれ、またそれを打ち明け、苦しみや悲しみを吐露する他者が誰も居ないことに彩の苦悩は彼女の心の杯というキャパシティをやがて越え、杯すれすれとなりやがてはその面は盛り上がり、ひた隠すが故に苦悩が強度を増した。
懊悩呻吟(おうのうしんぎん)という液体はやがて
杯から溢(あふ)れ、杯の輪郭を舐めるように伝い落ちやがて罅(ひび)が入り、弱くなっていたダムが決壊するかのように彩の罪悪感は彼女を内側から破壊していった。


慎哉はそれら限界を越えた病みの果ての強い希死念慮が彩を支配していることをたびたび彼女が『死にたい』と漏らすようになったことによって知った。
慎哉は乳癌の為に女性ホルモンや様々なバイオリズムが極端に乱れ切り、彩を酷い情緒不安定に陥れてしまっているのだと最初のほうだけ憂慮したが、やがて一過性のものに過ぎないからと彼なりに断定してしまった。
やがて睡眠薬や精神病薬、抗不安薬を大量のウォッカで飲んでその為に記憶が飛んでいわゆるブラックアウトが起きたのであろう。
彼女は何故か寝室でそれらを飲んだにも関わらず、いつの間にか無意識に屋外に出て、マンションの傍にある公園のベンチの上に横たわり茫然自失となっているとこを、近所の掃除係りの男性に発見され、彼女は即、精神病棟へ搬送された。
自殺を防ぐ為の強制入院だった。
病院に駆けつけた慎哉は胃の洗浄という壮絶な苦しみを終えても尚、心身の疲弊の極みを越えてしまったのか、沌沌(こんこん)とただただ何日も何日も眠り続ける彩は、さながら『もう生きていたくないの、何も見たくないし聴きたくないのだ、終わらせてほしい、お願いだから私をそっとしておいて』と眠り続けることによって彩は体現しているかのように思えた。
そんな過度に傷つき過ぎた彩のもう二度と目覚めないのではないかと危ぶむほど、彼女の心身の傷の深さに比例して深く深くまるで自ら昏睡するかのような彩に慎哉は何故か母親の面影が過(よぎ)った。
不思議なことだが彼は母親の顔を何故かまったく覚えていなかったが孤独だった母を救ってやれなかった代わりに愛する彩だけは守ってやりたいと思った。
それがたとえどんなに甘く薄っぺらいとしても母への罪滅しや償いにも繋がるような気がしたからだ。
自殺未遂をした前の夜、彩は婚約破棄して欲しいと言い出していた。
結婚や家庭を持つことに自信がもともとなかったことと、仕事にだけ生きたほうが自分としても負い目を感じなくて済むのでいっそのこと気楽になるのだと言い放った彩は最後に毅然とした笑顔で『もっと私より若く健康な女性を選んだほうがよい』など言い出しその時の彩はむしろ凜としてどこか突き抜けたような朗(ほが)らかさすらあり健全で気丈にすら見えた。
よく自殺の前の人間は明るいと言われるが総てを喪(うしな)う覚悟を決めるまでに追い詰められた人というのはむしろ突き抜けてしまいある種の諦観にまで達してしまうことがある為に決して暗くなどないのだとこの後で慎哉は痛感した。


彩は一ヶ月間、乳癌の手術をした総合病院の精神科へ入院し以降、彩は月二回 現在も精神科へも乳腺外来へも通院していた。
やがて1年半目に近づく頃、ようやく抗癌剤治療を終えて一応は寛解の状態にある彩の顔はもと以上にすっきりとした輪郭に戻り可憐な小鹿を想わせる黒目勝ちながらも、どこか凛とした風情のくっきりとした美しい二重瞼は復活した。
だが彼女の長きに渡る苦労はいつまで経っても、どこかあどけなさの残る彩の顔つきにもの哀しげな深い翳りを残し、また人によっては神秘性と見て取れるような彩の望んだこととは裏腹に不思議な魅力を与えることにもなった。
彩の白磁のような肌色に希望と絶望とが様々な色彩となりそれらが彼女の表情に連動するかのように過ることがあった。
更に光と陰とが同時に彼女の透明感のある色青褪めた顔色や哀しげな瞳の奥に遊泳し、さながらオパールの遊光効果のように彩の頬笑みや不安な瞳に宿るようになった。
彩は時折不安感の為に円型脱毛症を作ったり、治ったり、もしながら今の彩は美しい黒絹のような艶やかでなめらかな髪をようやくセミロングにまで伸ばし始めていた。
手足には未だ若干のむくみは残るものの、顔はすっきりとむくみや腫れは引いてはいたが、自殺未遂によるショックから彩は一時的に失声症にまでなった。
失声症という病いは声を全く失う病気と思われているが、厳密には囁くような朧気(おぼろげ)な声や絞り出すようにすれば掠れた脆弱な声をかなりの努力とは裏腹に幽かには、出せたが強いストレスや強すぎる悲しみが彩の躰と心を次々と引き裂いていったのだ。
医師とのコミュニケーションも筆談を交えてのやりとりだったが彩をより消耗させる出来事にしか過ぎなかった。
またそれを慎哉は必ずしも理解してくれなかった。
彩の悔しさや辛さは今だけのもので、退院して日々の元通りの暮らしの中に戻れば、彼女は安堵してそれらはすっかり癒えるだろうくらいにしか考えていなかったのだ。
その為慎哉は彩の話をあまり親身になって聴くこともせず、あまりに言いつのろうと彩がすれば『そろそろ帰らないといけない』『まだ仕事が残っているから』とお茶を濁すような逃げ腰をいつも見せて彩を失望させた。
しかし退院して数ヵ月経つ頃、そんな彩が小さくともちゃんとした明(さや)かな声で鼻歌を歌いながらドレッサーの前に座り、腫れが引いてすっきりした顔にルージュを塗っている姿を見た。
ルージュを薬指の腹に取って唇に馴染ませながら嬉しそうに鼻歌を歌う姿を見た時、慎哉はそんな彩を美しいとしみじみ感じ同時に心からそんな彩のささやかな女らしい仕草を愛おしいと感じた。


彩の心身の病いも女性としての云うにやまれぬ深すぎる哀しみも、俺がなんとかして癒してやりたい、強がってはいるが彩は本当はSOSを発していたのだ、この人を守れるのは俺しかいない、それに俺自身何よりもそうすることを望んでいる、
人生を共にする女性は彩しかいないのだから…慎哉は心からそう思った。
彩はメランコリー性鬱との診断から今は鬱に不安障害が合併症として出ている状態と言われ抗不安薬と鬱に対する精神病薬少々と後は乳癌の寛解(かんかい)の状態にあるデリケートな彩の軆のことを考えて医師から処方された漢方薬とで彩は少しずつ心身の回復を辿りつつあったが、そこには慎哉という仲介者と絶え間無く注がれる深い愛情あっての道程で彩は慎哉に深く感謝していた。
しかし感謝しながらもどうにも胸の奥で鎮まらない不安と軋轢があった。
それらを抱えるもう一人の彩が彩に耳許で時折囁いた。
『ねぇ本当にこの人でいいの?本当にこの人が好きなの?本当は自分に嘘ついてるんじゃないの?違う現実から逃げたい為に…』
メンタルクリニックの帰り、バス時間に後一歩で間に合わず見送ってしまった彼女はまた40分近くもアンクルブーツの足元がすくみ上がるような寒気の中、バスを待つのをやめて彼女は諦めて通りかかったタクシーに向かって手を上げた。
桜木町駅に向かってそこに近づいたらまた口頭で説明しますと年輩の運転手に云うなり彩は疲れてタクシーのシートに凭(もた)れて寝てしまった。




(To be continued…)

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