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小説『エミリーキャット』第72章・メンデルスゾーン・コップ


いくらかけても2日前から全く電話に出ない彩にしびれを切らした慎哉は、彩のマンションに向かって車を走らせていた。
途中、急に強い不安を感じた慎哉は、コンビニのガレージに停車したまま一体どうしたらいいのか解らなくなってきた自分の深過ぎる動揺と混乱とを抑える為に、彼は彩のマンションへ寄る前にとにかく落ち着きたいとコンビニで自分が吸うメビウスやその他買ったこともない外国種の煙草を苛々と多種多様、不必要なまでに買い漁った。

その後買い漁ったたくさんの煙草の中からメビウス一箱だけを、ポケットへねじ込むと、あとは車の助手席のシートの上へ袋ごと、まるで激怒したかのように叩きつけた。
すると、そこにいつも座っていた彩の幻影が彼の中に蘇る気がした。
その彩は淋しそうな中にも拒絶の色を浮かべた横顔だったのを急に思い出し、慎哉はますます怒りと同じ沸点の悲しみでいっぱいになった。
”もうあんな奴どうでもいい!”と彼は思った。
歩きながら煙草に火を点けた慎哉は、その後、車を見捨てたかのようにガレージに置き去りにすると、その周辺の遊歩道を肩を怒らせて歩き回った。
その為彼はコンビニからいつの間にかひどく遠ざかってしまっていた。

彩のマンションへ直接行くべきなのかどうか?
慎哉の心の中でそのことはずっと彼をここまで突き動かした大前提として在るにも関わらず『もうこれ以上俺の人生あんな女に振り回されるのは御免だ!彼女とはもう婚約解消してきっぱり別れるんだ』という気持ちも彼の中に小さいが鋭い鮮度を持って芽生えつつあった。しかしその気持ちが苛烈なまでの新鮮さを伴えば伴うほど彼は悲しくなっていった。

痛いほどの不安感と辛苦とが、彼をなぎ倒しそうな勢いでまるで蜂の大群のような勢いとなって慎哉の中で黒っぽい渦を巻き襲来してくることに、彼は一見何事も無い様子で耐えながらひたすらにうつ向き加減になって歩いた。

『こんなに人を好きになったのは初めてなのに』と、今にも泣き出しそうな慎哉は思った。

『問題が多くその根が深い彼女だからこそなんとか力になってやりたかった、彩の力になっていた時の俺はいつだって彼女から感謝されて、生きているという感触をなんとなく薄ぼんやりしたこの人生の中で鮮烈に得ることが出来たんだ、

なのにこの頃の彩は何を考え、何を思って行動しているのか皆目、検討がつかない、想像すら出来ない、以前の彼女はどこかへ消えてしまって、今の彩はまるで見知らぬ別の女のようだ、それとも俺は婚約までしておきながら、そしてやむを得ず永い春を過ごしながらも、その実、彼女のことを本当はなんにも知らなかったということなのだろうか?』歩きながら彼は周囲の風景の異様なまでの大きな変化に、はたと気がついて顔色を変えた。

道路沿いを歩いていたとこまでしか記憶に無い彼はハッと顔を上げると目の前に拡がる大きな河面をかすめるように一羽のアオサギが飛んでゆくのを目の当たりにして茫然と立ちすくんだ。
彼はアオサギがその大きな銀灰色(ぎんかいしょく)を帯びた白い翼を拡げ、一度としてその翼を羽ばたかすことなくさながら空(くう)を滑るようになめらかに低空滑降するのを見た。
やがてアオサギは河の中央にこんもりと枯れ色に隆起するごく小さな中洲へと音も無く鎮かに降り立った。
その姿を何故だか呼吸を止めて凝視していた慎哉の顔を、泪が無自覚に一条(ひとすじ)伝い落ち、彼は心の中でこう叫んでいた。
『情けない…!
婚約解消しようと考えているのは彩からそう切り出されそうで怖いから、
切り出される前にこちらからふってやるんだと思っているだけなんだ、
俺は本当は彼女と別れたくなんかはない!
だがむしろ今彩に別れを告げたなら、彼女は安堵しむしろ喜んでそれを受け入れそうな気がしてならない』
慎哉は思わず空を見上げて涙ですっかり曇って何も見えないそこにあるはずの憎たらしい碧空を睨んだ。

『何故なんだ?彩!?』

すると新たに沸いてきた邪魔な涙を隠そうと、橋の下の影へ入ろうとした慎哉に向かって聴き覚えのある男の声が、まるで水辺に踊る明るい影のように上から降ってきた。

『あれえ?あんた、ねえあんた!
ほらほら何だっけ?芸名みたいな可笑しな名前の…ああ!そうだ松雪さん、あんた松雪慎哉さんだったよね?』

慎哉は驚いて遥か上を降り仰ぐように見上げたが、橋の上は眩しく声の主は逆光で影絵となって鮮明にその姿を見ることは出来なかった。

だが、だんだんに光に眼が慣れてきた慎哉にはそれはやがてはっきりと見覚えのある、ともすれば不快な印象の強いものへとそのシルエットはさながら秒針が進むかのように、不確かなものから確かなものへと収斂(しゅうれん)されていった。


橋の上から錆びついた欄干に身を乗り出すようにして話しかけるその男の頭部は、ウェーヴのかかった長髪が冷たく生臭い河口からの風を受けてまるで水中の水草のように派手に揺れ動いて見えた。

『あいつ…メンデルスゾーン・コップだ!』

と慎哉はまるで苦いものを噛み砕いたような渋い顔をして小さく舌打ちすると口の中で自分にだけ聴こえるようにして独りごちた。

『なんなんだよ?二度と逢いたくない奴と逢ってしまった、
しかもこんなところで…!』

にも拘わらず刑事はむしろ屈託の無い調子っぱずれな声を出すと、慎哉に向かって久しぶりに出逢った友人か何かのように煩く声をかけ続けてくる。

『おおいあんた!そんなとこでナニやってんだ?ウォーキングか?
それにしちゃスーツ姿だが』

慎哉は思わず『ナニしてようが大きなお世話です!刑事さんこそそんなとこでナニやってんですか?随分暇そうですね』
慎哉は厭味で言った積もりだったが、全く暖簾に腕押しだったと見えてメンデルスゾーン・コップは妙に朗るい声でのけぞるように橋の上で笑うとこう言った。

『だったらいいんだけどねえ、これでも結構忙しいほうさ、
でも今日はまぁ暇でね、だってさ休暇中だもん、俺は休みが一番困るのよ、一体全体ナニやっていいんだか全く解らなくて趣味ったって仕事が趣味みたいなもんだし休みがいちばん困るんだよ、
こういう俺みたいな人種は家でごろ寝してるか、テレビ見るか、映画ったってそうそう見たいものがいつもあるわけじゃないし、独りで行くってのもちょっとアレだろ?YouTubeでお笑い見てたって、独りは独りだもんね、やっぱつまんないよ、あんなもんずうっと見るもんじゃない、
神経病んじゃうよ、YouTubeが友達なんて気がふれてるのと同じだろ?
よくみんな暇さえあればスマホ見てると思うよ、
おかしい頭がますますおかしくなっちゃうぞ?って言いたくなる。
で俺、今橋の上から河を眺めたりなんかしながら、さて、せっかくの休みをどう過ごそうか?って…
今思案中なの』

『そんなところで河を見てたってどうせいい案も浮かばないでしょう?
下へ降りてきたらいいじゃないですか』

慎哉はメンデルスゾーンコップを嫌ってはいたものの、彩がもしや、また失踪したのではあるまいかという疑惑もある為に警察へまた行くような憂鬱を繰り返すくらいなら、今ここで個人的にその疑惑をメンデルスゾーンに吐露してみてはどうだろうか?と彼は思い立った。

案外『大丈夫だよ、あんたの考え過ぎでしょう?彼女、今夜電話したらきっと出てくれると思うよ、二日くらい電話に出なかったからってそこまでナーバスになっちゃ駄目さぁあんた、そういうの取り越し苦労って云うんだよ』とでも言って慎哉の中に巣食う指に刺さったアザミの小さな棘のように、本当は些細なことかもしれないと思えば思うほど、執拗なまでに深く痛むこのどうしようもない心緒の根っこを、あの無神経でむしろ痛快に笑い飛ばしてくれるかもしれない、嫌悪感を持ちながらも慎哉はメンデルスゾーンコップのあの傍若無人さに、今やむしろ期待をしてしまっている自分の中のもう一人の自分に気づいて彼は益々腹立たしくなった。よほど自分は今、弱っていて同時に思い煩うことにも熱心になってしまっているのだと慎哉は気づいて、自分で自分に呆れてしまったのはいつの間にか彼はメンデルスゾーンコップとふたり、まるで親子か歳の離れた親友同士のように肩を並べて河畔(かはん)を歩いているという現実に急に気づいた時だった。長い時間ふたりはそうやって並んで歩いていたらしくメンデルスゾーンコップは愉しげに笑い声を上げたが、慎哉はその笑い声の意味するところのそれまでのふたりの会話の経緯が全く記憶喪失になったように理解できなかった。陽気な笑い声を上げた後、メンデルスゾーンコップは須臾(しゅゆ)沈黙していたが今度は出し抜けに私的なことを問わず語りに語り始めた。『俺ね、若い頃あの橋の上で逢った女性のこと思い出して…本当のこと言うと時々その為にここへ来るんだ』

『へえロマンチックが似合いもしないのにロマンチックな休日しちゃってるんですね、じゃいいじゃないですか、そのロマンチック気分で暇潰しが出来るでしょう?刑事さん結婚はしていらっしゃらないんですか?』

『お前キツいこと言うな?なんだよ俺に恨みでもあるって言うの?』

『そういうわけじゃ』と言いながらも慎哉の心の奥底はまだあの日の怒りが燻(くすぶ)っていた。


『違うんだよ、その女の人は…最初初めて逢った時は橋の上で震えながら夜独りで泣いていて…当時まだ二十代で若かった俺は自転車での派出所のパトロール中だったんだけど、どうしたんですか?って声をかけたのが初めてだった…この高い橋から遠い水面(みなも)に投身自殺でもするんじゃないかと…ふと、心配になってね、
だって真夜中だっていうのにこんな橋の欄干に独りぽっちで顔を臥せて肩を震わせて泣いていたんだぜ、』

『へぇ…左様ですか』

『左様ですかじゃないだろう?ナニお前冷たい奴だなあ、』

慎哉はそんな話はどうでもよかった。
ただ彩の話を切り出したいものの何故かそれは錨(いかり)のように重く慎哉の心の襞(ひだ)の奥深く打ち沈んで、それを持ち上げてメンデルスゾーンコップの前に披瀝して解りやすく説明まで加えることが慎哉には過度な肉体労働のように思われた。
そう思い惑う慎哉の蒼白い横顔に露ほども気づかないメンデルスゾーンコップはきっとこんなプライベートな話題を平素、仲間内でも話すことなど出来ないのであろう、善良で今後も何ら事件性の欠片(かけら)も無い人生のまま終わるであろうことが解り切っている素人の一般人相手に、それとなく無邪気を装って話すことを、彼は一過性の水疱のようにすぐに消えて無くなる脆弱な交わりと知っていながらにして、その一過性を敢えて娯しんでいるように見えた。

『その女性に声をかけたものの“何でもない、ただ悲しかっただけ”だと言って俺が家まで送るといくら言ってもそれを断って夜明けの街を独りで歩いてそのひとは帰っていったんだ、』

『ふぅん』

『綺麗なひとだった、
俺より年上の人だったが…俺はその時以来ずっとその人のことが忘れられなくなったんだ』

『はあ?なんだそりゃ刑事さんパトロール中にそんなこと考えていたんですか?』

『そりゃ考えるだろ?
俺だって生身の男だよ?それにあの時はまだ若かったし偶々(たまたま)だけど凄く綺麗なひとと出くわして、あぁ綺麗だなあって…
なんだよ?それがいけないのかよ?
刑事だからそんなこと思ってもいけないってわけ?』

『そんなことないけれど…』

慎哉は内心こんなどうでもいいことで何故心乱されるほどモヤモヤしないとならないのか?それを一番解っていながら薄っぺらく見えて、実は鋼のように硬い虚栄心が邪魔をして、心襟を開くことの出来ない自分の弱さを彼は心の中で責めていた。
このどうでもいい重く無益な鋼の鎧を脱げば、俺はもっと彩と無理なく距離を縮めることも、そして自分の本心を素直に打ち明けることも、彼女を抱き締めて君が必要なんだと伝えることも、きっと容易になるやもしれぬのに、と彼は音も無くそっと歯ぎしりをした。

そんな慎哉の狂おしい心中に気づかぬメンデルスゾーンコップは自分の話したいことだけを一方的に縷々(るる)と語った。

『その女性ね、どうも日本人離れした外見で…
最初は本当に外国のひとかと思ったんだが、どうもハーフということらしかった。』

『そうですか』と苦いような口調ながらも律儀に相槌を打つ慎哉はそのことにすら自己嫌悪を覚えた。

『以来時々俺はあの橋の上へたいして用も無いのにパトロールへ来ては、またあの女性(ひと)と逢えないか?とうろうろしていたんだが、全く逢えないままその後二年くらい過ぎたある日、
俺は偶然その女性(ひと)を署の保護室へしょっぴく破目になってしまった』

メンデルスゾーンコップの顔が急に暗く曇ったように見えたと同時に、女の悲鳴のような鳴き声をたてながら、名も知らぬ野鳥がふたりの頭上を引き裂くように鋭利な飛行を見せて、やがて見る見る遠くの空へと吸い込まれるようにして消えていった。

ふたりはまるで示し合わせたかのようにその姿を見送ると同時に、黙って互いの顔を見合わせた。
慎哉はさして興味も無いその話に上司の昔話を仕方無しに聴いてやる部下のように、こう言って問うた。

『何かしたんですか?その女性、万引きとか…事件とか?』

『なんにもしてねえよ!
そんなわけねえだろう?
ただ自殺未遂というか…
そういった危険があったからなんだが、』

妙に過鎮静な怒気を含んだままメンデルスゾーンコップは急に歩みを止めて呟いた。

『…可愛そうだった…何もあんなこと…彼女はただ悩んでただけだ、
深く深く悩んで独りで困ってただけだったのに…
心ならずも自殺を思い迷ってしまうほど悩み苦しんでいた独りぽっちの女性を…その話を聴いてあげるどころかまるで逮捕同然な乱暴な捕らえかたを大勢でした挙げ句、あんなところへ閉じ込めるだなんて…
まだ当時若かった俺は先輩達の所業を見て心の中で思ったよ、
俺はこんなことをする為に警官になったんじゃないってね』

『……』

『お前彼女に共感とかしてやってっか?』

『共感?』

不意打ちのような刑事の言葉を聞いて慎哉は急に誰が投げたかも解らぬ石礫(いしつぶて)にしたたか肩を打たれたかのようにその身体をびくりと痙攣させると、その場に思わずそそり立って刑事のほうを蒼白な顔で向き直った。

『馬鹿だなお前、女の人はな、共感してあげてナンボな生き物なんだよ、もっと共感してあげないと?共感だけじゃないよ、彼女のことちゃんと褒めてあげてるか?彼女の労を日頃からもっとねぎらってあげてるか?
その反対ばっかりなんじゃないのか?いつも労われて共感を促してばかりで女はそういう役目の人なんだと思い込んでないか?
ずっと自分のペースや歩調だけでずんずん進んでいっちゃうと、最初のうちは何も言わずに合わせてくれているように見えて女性は内心全然違う想いを持っているからな?
なんかおかしいなって感じた頃には彼女どこか遠くへ離れていっちゃうぞ?』



慎哉は思いもよらないその言葉にやおら肩を突き飛ばされでもしたかのように慄然とした顔を刑事に向けて見た。
その思いもかけずに酷く傷ついたかのような青年の眼を見て刑事は一瞬怪訝な顔をしたものの、彼はまるで何かを一瞬で思案したかのようにまたもとの話へ逆戻りした。

『…俺はあのひとに保護室で歌を歌って上げたよ』

『歌?』

慎哉は居たたまれぬ思いの中、そう訊ね返したが不思議なことにその問いには今までのような惰性はなかった。
何故そうしたのか?むしろ知りたかったし聴きたくもあった。

何故だろう?どうしてだろう?と慎哉は思った。
そんなこと聴いて一体なんになるって云うんだ??慎哉は心の中で自分の孤独に抗うように叫んだ。
ところが返ってきた話は慎哉が稀求するようなものとは打って変わってしまっていたが、慎哉は黙って耳を傾ける他なかった。

『あんた、警察の保護室ってどんなとこだか知ってっか?
警察車両ってどんな車か、乗ったこと無いだろう?』

『あるわけないですね』と、慎哉は不機嫌極まりない、まるで唸るような声で答えた。

刑事はそれにはまるで頓着せず
『まぁそうだろうな、
黒塗りの…窓硝子までもが外からは中が見えないような黒っぽいスモーク硝子が嵌まっていて…まるで護送車みたいな風体のゴッツいヤツだ、
当時のは忘れたが今のは確か…ニッサンのキャラバンって車種で乗車数の定員がおよそ十人。警官が主に乗る運転席を含む前方からしかドアは開閉できないようになっている。後部座席に乗せた人間が後ろから逃げ出さないようにするためだ』

『……はぁ』慎哉は仕方無くそのまるで関心を惹かない刑事の話に、ため息混じりに頷いた。

『その女性はその後部座席へ無理矢理、ねじ込まれるようにして座らされると有無も謂わせずなんの質問も無しにただぶち込まれた、
あのほとんど牢獄といっても過言ではない非常に狭い室(へや)にな』

『……』

『そこは保護室とは名ばかりの…
まるでほら、映画で昔あっただろう?”羊たちの沈黙”っていうのが、
あれでハンニバル・レクターって人を喰っちまうアタマのいい気狂いオヤジが閉じ込められていそうなとこさ、いや、あっちのほうがまだずっと綺麗で広くておまけに清潔だな、
警察の保護室はな、
壁一面そこへ過去に、収容された人々の混乱と悲鳴と恐怖の跡がびっしりと重なりあって…まるで黒ずんだ鱗のように壁一面に犇(ひし)めいているんだ。
それはなんだと思う?』

『……さぁなんですか?』

少しだけ流石に好奇心を揺り動かされた慎哉は、そのことに妙な罪悪感を覚えてしまい、刑事を横目で見つめると温和しくも不本意そうな声でそう訊ねた。

『手型だよ、黒ずんで手垢じみた手型が大、中、小…。
きっと沢山の人々が悲鳴と共に壁に向かって飛びついたんだろうな、
そんなことしたって窓すら無い保護室から抜け出せるわけでもなんでもないんだが…人間は究極の不安や恐怖の真っ只中にたった独りで投じられると無意味な言動を壊れた機械のように繰り返したり、罠にかかって追い詰められた獣のようにほとばしらせたりもするんだ、
決してそう低くはない天井ギリギリの高さにまでびっしりと壁一面覆うように付着しているその無数の手型は、まぎれもなく人間が生きているという証しだよ、
その中には爪を立ててしがみつくようにして飛びついた人もいたんだろう、
蝦(えび)茶色に変色した血痕の滲む傷ましい手型も少なくはない、
一応保護室というくらいだから壁はクッション性のある柔らかい、ぶつかっても比較的安全な壁にはなっているものの、その本来白いはずの壁の色が定かには解らない惨憺たる状態と化しているのは、そこに居た人々の恐怖や不安や怒りや悲しみで染め上げられてしまったからだと俺は思っている…』


そう言うと刑事はスーツのポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出すと、煙草の箱同様、草臥(くたび)れた煙草の一本を指でつまみ出すとこう言った。

『保護室は…刑事の俺がこんなこというのも何だが…名前こそ保護室だが…
ありゃまるで懲罰房さ』

刑事は口許へ風よけの手をかざすと無色透明の百円ライターで火を点けた。彼は暫く我を忘れたように煙草を吸っていたが、やがて薄く紫煙を食いしばるようにして吐き出すなりこう言った。

『彼女ね…さぞかし恐ろしかったんだと思うよ、
あんなところに犯罪を犯したわけでもないのに無理矢理投獄されて怖くて不安だったんだろう、
泣きじゃくるそのひとに俺は慰めるために歌を歌ってあげたんだ、
だって他に何もしてあげられなかったからな…
その時は偶々、先輩達も居なくて俺独りが彼女の見張りを任されていたから保護室の鉄格子の向こうに立つ彼女のこちら側で、俺はパイプ椅子に座って小さな声でこんな風に』

と彼は急に歌い出した。
慎哉はその音痴も音痴な英語の歌詞のメロディーに聞き覚えがあった。

『…あ、なんか聴いたことある気がする、CMかなんかでかなあ』

『そんなことないよ、若い奴はすぐそんなこと言いやがる、あっそれ知ってる、聴いたことありますたぶんCMでって、CMなんかじゃねえよ!
俺の知ってる限りは多分使われてねえぜ、
少なくともネスカフェゴールドブレンドのCM曲じゃ絶対ないぞ』

『ネスカフェゴールドブレンドなんて俺一言も言ってないじゃないですか』

『若い奴はみんな言うんだ、あ、知ってるそれCMの曲って言ったあと大抵ネスカフェゴールドブレンドの曲ですよねって言いやがる』

慎哉は刑事とそんなどうでもいいようなやりとりをするうちに薄葉紙を剥ぐように徐々に不穏に波立っていた心が不思議と凪いでゆくのを感じた。

『彼女は、そんなところへ放り込まれていつ出られるやも解らない先の見通しが全く立たない恐怖の真っ只中、座る場所一つ無い保護室の中で立ち尽くしたまま、最初のうち恐怖心で一杯だったんだろう、
ここから出して!とずっと泣き叫んでいたが、そのうち泣き疲れて…
やがて俺の歌にじっと耳を傾けてくれた、
そしてまだ泣いてはいたがこう言ってくれたんだ。
『貴方、そういえばあの歌手に少しだけ似てるわよ』って。
そう言って刑事は慎哉に向かってやおらにっこりと酷く嬉しそうに微笑んだ。


『その歌手にだから俺、こうやって髪型も似せてるんだよ、
だからこの髪型は金田一耕助なんかじゃないぜ、俺らの若い頃はな、人気のある歌手だったんだ』

慎哉は大声で笑い出したいのを、こらえながら『え、嘘でしょう?だって刑事さんどう見ても俳優の鬼太郎さんにそっくりなんですけど』すると刑事は急に歩みを止めて慎哉に向き直るとこう言った。

『お前いったい俺に恨みでもあるのか?なんでそんな傷つくこと言うんだよ?』

『別に傷つけるつもりで言ったわけじゃなかったんですけど…
でもその男性歌手って外国人なんでしょう?その人の写真見なくても解りますよ、
きっと似ても似つかないはずだ』

『俺、今日帰ったら落ち込んできっと風呂入ってずぅっと泣いてると思う』

『なんで風呂場で泣くんですか??
やめてくださいよ
気持ち悪い』

『お前にはな!解らないんだよ!お前みたいな人類の偉大なる共感能力なんてものがない男にはさ、解らないんだよ!
その人は優しい気持ちを俺に傾けてそう言ってくれたんじゃないか、
俺が優しい気持ちを彼女に傾けて歌で慰めようとしたから彼女もそれに共感してそう言ってくれたんだよ、
つまり優しさは優しさで返されるんだよ、
だから俺は本当にその時の言葉が嬉しくて…中年になって刑事になった時、こういった髪に変えてみたんだ、
きっと彼女なら”あら素敵、そっくりねっ”て言ってくれるだろうなって思ってさ』

『えっじゃあその鬱陶しい髪はメンデルスゾーンじゃなかったんですね
僕はてっきりベートーベンかメンデルスゾーンかとばかり』

『メンデルスゾーンって…』
とメンデルスゾーンコップは慎哉を見つめ返すなり、うんざりしたようなため息を深々とついてこう言った。

『ベートーベンはさ、
よく言われるから解るんだけど俺、メンデルスゾーンって言われたのは初めてだよ、
だいたいメンデルスゾーンってこんな髪してんのか?
俺なんかそれすらもわかんないよ、
バッハみたいだとか、
かと思えばやれ金田一耕助みたいだとか、
いろんなこと言われてきたけど今度はメンデルスゾーンかいっ?』

もう一度彼は口の中で切るような短いため息を諦観と共に漏らすとこう言った。
『どうでもいいことほどバリエーションがどんどこ増えて豊かになってくんだ、
そんなことよりもっと増えてもらわないと困ることは世の中いっぱいあるんだがな、』

『その女性(ひと)…』


『うん?』

『保護室に一体、何時間くらい閉じ込められていたんですか?』

『…一晩中だよ前の晩、まるで引きずるように数名の警官達に無理矢理連れて来られて翌日の昼前に解放された、
出たあと彼女はショックと傷心のあまり一時的に廃人のようになっていたと後から風の噂に聴いたよ、


しばらくの間はちゃんと歩けなくて杖を突いていたともいうしな、
当たり前だ、犯罪者でもないのに家中引きずり回されるわ、
押し倒されて数名で一人の女性の身体の上に馬乗りになって怪我をするほど髪を掴んで顔を上向かせるわ、腕をねじあげ、無理矢理引き立てた挙げ句の果て、あんな誰もが恐ろしくなるような独房へ放り込むだなんて…』

刑事はその広い眉根を寄せて、そこに彼らしからぬ濃い影を造るとまるで呻くような悲しげな声を出した。

『でもあの保護室の中と外とで俺達は心がほんの一瞬ではあったが、通じあったんだ、そしてその時…』

そう言いかかったメンデルスゾーンコップはその後長い沈黙を守った。

『その時?』

思いきって慎哉が聞き返すと、刑事は目の前にある河とその前に横たわる目には見えない『何か』を頻(しき)りに見つめようとしているかのような視線の絞りかたをするとこう言った。

『保護室の鉄格子の向こうから彼女は急に不思議なことを言ったんだ』

『不思議なこと?』

『ああ…そしてそれと同時に俺は彼女が指し示した先にもまた…
奇妙なものを見た、
でもあれは…一体なんだったんだろう?』





to be continued…

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