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小説『エミリーキャット』第19章・森は生きている

大きく渦を巻くようなマジェンダの濃霧(のうむ)は、妖しく動く大理石模様のようにゆっくりと流れていたがタクシーが振り切るように疾走するうち徐々に晴れてきた。
とはいえまだ夜なので辺りは昏(くら)い。
紅紫(べにむらさき)の濃霧が晴れた途端、彩はあり得ない光景を見て唖然とした。
『ここまだ森の中なの!?』
森の木々はタクシーをよけるなんて人が生卵の殻を割ることよりよっぽど簡単なことなのだ、と言わんばかりのしなやか過ぎる俊敏さと、鮮やかな身のこなしで軽々とよけてゆく。
『まるで生きているみたいだわ』
『もちろん連中、生きているべさ』


『そういう意味じゃなくて、
なんだかちゃんと人間みたいな意思が働いていそうな気がして…』
『あいつら人間よりちゃんとしてるからな、
俺の車よけるなんざ畳屋(たたみや)が畳、ひっくり返すのと、おんなじくらいなんてことねぇんだよ、オネエチャン』
『私は生卵の殻を人が割るより上手だって思ったわ、
だって小さな子供は生卵を上手に割れないじゃない?』
『おんなじようなもんだなぁ』
といって運転手は笑った。
『うん、もっとぴったりな喩(たと)えがあるぞ、
人がため息をつくより簡単ってどうだ?』
『ため息か…そういえば私、ここ数年
ため息ばかりついてるような気がするわ』
『多分人は無意識なんだが、ついついため息をついちまうんだな、
ため息は不運を呼ぶからつくなったって、無意識についちまうもんはしょうがあんめぇ?
だけどそれだけため息つくってことは、ため息事態が簡単でもあんのかもしんねぇな』
『哲学者っぽいことおっしゃるんですね、
何か深い意味があるのかしら?』
『そんなことねぇよぉ』
運転手は笑って
『おら、ただ人間の肉体ってさ、
ため息は構造上つきやすく
出来てるんだから、そんなこと言ったって仕方ねぇべ?って思っただけなんだ、
ため息くらいついたっていいじゃないか、時にゃあつきたくもなるさぁ、
ため息くらいでナァニが不運を呼ぶだ、縁起がよくないだ不吉だどうだこうだ、
…はっ…!
みぃんなついてら、そんなもん、
そんなこと偉そうに言うスピリチュアルのセンセ―とか名乗ってやがる輩(やから)だって気がつかないだけで、
きっと毎日トイレでウンコした後、ウンコとおんなじくらいおっきなのついてんべ』
彩はこのあり得ない状況下で思わず笑い声を上げた。
すると森の木々が身をよじって、さも可笑しげに笑いながら車をよけてゆくのを見て、彩は思わず息を呑んだ。
『樹が…笑ってるわ』
『ああそりゃ笑うべな、
樹だって笑ったり泣いたりすんのさ、人がとろいから気がつかないだけでね』
『そうなの?凄いわ!
私、今夜見たり聴いたりしたこと、この夢から覚めても絶対に忘れないわ』
『夢?これは夢なんかじゃねぇよぉ、だったらエミリーさんのことも夢ってことになっちまうべ?』
『エミリーのことも…?』
彩は思わず眉根を寄せた。
『それはいやだわ…
もしそうならエミリーにはもう逢えなくなっちゃうかもしれないってことでしょう?』

『んだぁ、だからこれは夢のような現実なんだぁ、』
『現実?これが?』
彩は笑った。
『まさか、だって樹が笑いながら車をビュンビュンよけてゆくのよ?
あの子達がもし現実に存在するんだとしたら、たとえ踊ったり、
飛んだり跳ねたり出来なくたって、シルク・ドゥ・ソレイユからこの森全員の樹が、揃ってきっとオファーを受けると思うわ

だいたいここがまだ森の中だなんて』
彩はすっかり夢の中だと決めつけて安心してタクシーのシートの上で笑い転げた。


『どれだけ広い森なのよ?
一体ここの森は東京ドーム幾つぶんくらいあるって云うの?
ドイツやフィンランドじゃないんだから、
ここはニッポンよ

日本の東京と横浜のちょうど境い目辺りのはずなのに、しかも見て
、あの樹!』
と彩は遠くからでもはっきりと解るほど枝を両腕のようにして使い、
大笑いしている樹の様を指差して言った。
『お腹を抱えて笑う樹だなんて、
イマドキああいうのって人間でも、なかなかお目にかかれないノスタルジックなスタイルだと思うわ』

『ああ、あいつはエミリーさんのお気に入りのアカメガシワの奴だな、
もっと
秋が深まると、あいつぁ、まるで黄金(きん)色といっても可笑(おか)しくないよなそりゃあ見事な山吹色の大ぶりな葉っぱさ、いっぺぇつけるだよ、
赤いほうの紅葉(こうよう)じゃなくて、黄色いほうの黄葉(こうよう)だな』

『アカメガシワ…
なんだか勉強になるわ、
私だって一応女性だから好きな花くらいはあっても、樹の種類なんて桜や松や…そうね後は、ポプラ辺りは知ってても後はちんぷんかんぷんなの、
…なんだか不思議ね、
夢ってたいてい不思議なものだけど、この夢はそういう不思議とは、あまりにも
次元が違い過ぎてて…
いつもの私ならとうに気が遠くなって、気がついたら病院のベッドの上だった、なんてことになってそう、
でも更に不思議なのは…
私がこんな状況を、あり得ない!とか思いながらも結構、楽しんでいるって
ことね、
エミリーのお茶を飲んだからかな?
今夜の私はどんなにヘンテコなことが起きても少しも怖くないし、不安にすらならない』

『そうだべしたぁ?
エミリーさん、ピンクの薔薇から採れた蜜をお茶に入れてオネエチャンに飲ませたって言ってたからなぁ、
今夜はずっと不安無く安心して過ごせるはずだぁ、
おぉっと!ごめんよ、ここはこの森の中でもちょっくら厄介な場所だ、』
と運転手はハンドルを切って急カーブをした。
運転手がよけて通った場所は、夜目にも浮き上がるような白壁に囲まれたごく小さな一角だった。
タクシーのライトに一瞬、突き照らされて、その背の高い白壁に囲まれた敷地を閉ざすかのように、菠薐草(ほうれんそう)のような色に塗り上げられた居丈高な木製の門扉が、一瞬、漆塗りの表面の如く、車のヘッドライトを射(い)るような光にして乱暴に撥(は)ね返した。
『あぶねぇことしやがんな、
急に森の中さ、立ち現れたりして蜃気楼(しんきろう)じゃあんめいし、』
と言った後、運転手はこう独りごちた。
『蜃気楼のほうがまだ剣呑(けんのん)じゃねぇだけマシかもしんねぇな』

『あそこは何?何故、森の中なのにあそこだけあんな高い壁で囲われているの?
まるで森の奥の小さな要塞(ようさい)みたいね』
彩の問いに陽気で能弁な運転手が何故か押し黙ってしまった。
『私、何か悪いこと聴いたかしら?』
『いんやぁそんなことねぇけんども…あそこはエミリーさんだって近づけない特別な場所なんだ、』
『エミリーも近づけない場所?』
彩は意味も解らず息を飲んだ。
『何故?』
『…それはぁ…』
と運転手は言葉を濁(にご)すと、しばらく無言で運転していたが、何やらスーツの内ポケットから取り出したかと思えば、それはCDではなく随分古そうなカセットテープだった。
そのカセットテープを彼は運転席の前に差し込み、車中に、にわかには信じがたい曲が流れて彩は思わず、こう言いつのった。

『運転手さんお願い!
この歌、運転手さんのお気に入りなのかもしれないけど今、私が見ている夢には合わないの、
お願いだから“舟唄”はやめてちょうだい』
『なしてダメェ?八代亜紀、いいべしたぁ、
色っぽいよう?』
と運転手は子供のように口をとがらせて言った。

『八代亜紀さんが嫌いなわけじゃないのよ、
でも以前勤めていたとこで忘年会にこの歌、ちゃんと歌えるようになるまで帰さない、って脅されて社長から猛特訓受けたトラウマがあるの、
だからお願いだから舟唄なんかかけないで欲しいの、だってこれは夢の中よ、
しかも私の夢なんだから、私の言う通りにしてもらったってバチは当たらないと思うわ』
『解った解った、オネエチャンはどうしても今は夢の中だと思いたいんだな、じゃあまぁそういうことにしとくべ』
と運転手はカセットテープを取り出すと、それをサンドイッチか何かのように、もぐもぐと食べてしまった。

『何も食べなくたっていいじゃない!』
彩は悲鳴のような声を上げた。
『いやぁ食べちゃいたいくらいこの人のことが好きなのと、ちょっくら小腹が減ってもいたもんでね、
ちょうどいい軽食代わりにと思って、うん、やっぱり舟唄はうめぇね、炙(あぶ)った魚の味がすぅるぅ~』
と歌うようにそう言うと
運転手は頭をぼりぼりと掻いた。
頭をかくとどうやらカツラらしく上っ面(つら)がパカパカと動いたが、そのカツラがパカパカと動くたびカツラと後頭部の暗い隙間から黒点のように小さく絞られた黒目と橙(だいだい)色の広い白目とが光る、まるで猛禽類(もうきんるい)の眼のような一対のものがこちらを見ていることに彩は気がついてぞっとした。
運転手がカツラをパカパカするたびに、その猛禽類のような黒目の小さい眼
は最初、一対だったのに二対、三対とパカパカのたびにその数が増えてゆき、彩はもう見たくないと思って窓外へと急いで視線を移した。
車窓から外を眺めるのは楽しかった。
少なくとも気味の悪いものから目を反らすことだって出来る。

樹の一本一本が色とりどりの美しい蝋燭(ろうそく)を握っていて、その先で炎がまるで燃える純金のように大きく豊かに揺らいでいる。その為、森全体がまるで極彩色となって燦然(さんぜん)と光輝いて見えた。

蝋燭を手にしている樹は皆、彩に向かって木目(もくめ)や虛(うろ)が作り出した顔に柔和な笑みをたたえ皆、車が通り過ぎるたび蝋燭を持ったまま一様に礼儀正しくお辞儀をした。
彩は森の壮麗な気品に感激し、車中で思わず背筋を伸ばしてパチパチと拍手をしながらこう言わずにはいられなかった。

『よく火事にならないわね、
樹が蝋燭を持つだなんてなんて器用なのかしら、
器用以上の問題、いえ才能だと思うわ』
と彩は感心したが、次いでこう言い直した。
『だって夢なんだもの、
なんでもありよね、
とはいっても火事になんてなったら大変、
悪夢になっちゃう、
今夜の私は悪夢なんて見ないわ、
エミリーもそう言ってくれたもの、
怖い夢は私絶対、見ないわ!
だから私、たとえこの素敵な夢から目が覚めても森が大好きになった、この今の気持ちは、きっと忘れないと思う…』
『そいつぁ嬉しいな、
ところで蝋燭を持った樹は、森の中でも偉いさんなんだよ、
いわゆる長老達だな、
だから他の樹と違ってなんとなく威厳があって、アタマ良さそうだべ?』
『そうね言われてみれば』
『長老達のお見送りが見えるようになったら、この森ももうすぐ終わりだ』
『そうなの?』
『後はオネエチャンの住むいつもの世界に帰るだけだ』
『なぁんだ、つまんないの』
と言って彩はため息をついた。
『そうでもねぇぞ、
まぁ見てるがいい、今までオネエチャンが見てたのよりある意味ずっと見応(ごた)えがあって、勉強になる、面白いものがオネエチャンの街でも見れっから』
『なぁに?それ』
『人間の本当の姿だよ』
木々がざわめきながらカーテンを、一斉(いっせい)に、小人達が両脇に開くようにタクシーの通る小径(こみち)を造るとその先に黒塗りの背の高い鉄の門が見えてきた。


門扉は外側に向かって重々しい金属の軋轢(あつれき)の音をたてながらゆっくりと開いた。
その速度はゆっくりなのに素早くもあり、ゆっくりと素早いという、
右と左ほども違う『異(ちが)い』がなんの不自然もなくひとつに溶け合って同居していた。
そして門はゆっくり素早く、タクシーが滑るように通り抜けるタイミングに自然な呼応を見せ、その微妙でありながらはっきりとした時間差の合間を、タクシーはすり抜けるように疾走してくぐり抜けた。
『さぁもうこっからはオネエチャンの世界だぁ、
お楽しみはここまで、
もうすぐ家路だから後、
10分くらいはこっちの世界を見物、いや見学して帰るとよかんべ』
運転手がそう言ったと同時に、いつの間にかあの七色に輝く光の雨がやんでいたことに彩は気がついた。
と、同時に濡れ色に光るアスファルトの無人の道路がどこまでも続いているのを目の当たりにして、彩は思った。

『森と違って
ここはなんだか死んでいるみたいだ』と…。



(To be continued…)

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