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【物語の現場009】栄が引き裂いた双幅「日月瀑布図」(絵画紹介)

「融女寛好」の第三十二章で、栄が怒りに任せて引き裂いた掛け軸のモデルとなった作品があります。

 木挽町家第八代当主・狩野伊川院筆「日月瀑布図」

 紙本の双幅。伊川院の作品としては二番目に入手したものですが、とても気に入っていて、毎年正月に掛けています。

 伊川院は、伊川栄信のこと。彼は、物語ではまだ法眼ですが、後に絵師としての最高官位「法印」を得ます。
 法印の位を得ると、号が「〇〇院」に変わります。現代では、狩野伊川院と呼んだ方が分かりやいでしょう。

 さて、その伊川院、物語では敵役にしてしまいましたが、実は非常に好きな絵師の一人です。

 素人絵画ファンのざっくりした感想として、伊川院こそ、探幽以来の狩野派様式を守りつつ、時代に合った装飾性と写実性を取り入れ、狩野派の絵画を最終的に完成させた絵師である思っています。

 一方、敵役にしたことにもそれなりに理由があります。

 タイムリーな養子縁組で、結果的に、伊川院の子供たちによって、奥絵師四家の内、三家の当主の地位が占められることになるのです。
 幕末まで続く木挽町家一強体制。これが、伊川院の野心の所産か、善意の一門融和策だったか。様々想像する余地があり、面白いところです。

 息子の晴川養信も、当然の如く法印の位を得て、狩野晴川院となります。

 彼は、物語の時点では、本当は「玉川養信」でした。後年、第十二代将軍・徳川家慶の嫡子が幼くして亡くなり、その戒名と被るということで、玉川を晴川に変えたという経緯があります。ただ、「玉川」という号はほとんど知られていないので、最初から「晴川」としました。

 また、名前の読みも、その将軍嫡子が生まれた際に、「たけのぶ」から「おさのぶ」に変えています。お城勤めも大変ですね。

 それはともかく、晴川院も、父に優るとも劣らぬ名手でした。

 手抜きのない完成度の高い作品が多い印象。そして、彼の最大の功績は、約二百年ぶりに行われた江戸城本丸及び西之丸の建て替えにおける障壁画制作を指揮し、見事に成し遂げたことです。

 この人、本当に几帳面な性格だったようで、その際の作業記録を大量に残しました。晴川院が描いた伺下絵は、今も東京国立博物館に保管され、貴重な研究資料となっています。

 以上の如く、お栄さんが対峙した木挽町の親子は、画壇の総帥と呼ぶに相応しい実力と実績の持ち主だったのです。

 さて、物語本編は残り二章。何卒、最後までお付き合い下さい。

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