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香港が香港であった時代の香港


香港中文大学

香港が好きなわけではなかった。
正直なところ、あまり興味もなかった。

ふとしたきっかけ、と言うか弾みで、香港と深い縁を持つようになった。

大学では中国文学専攻だったが、次第に言語学に興味が傾くようになった。

交換留学協定のある大学の中では、ジョージタウン大学が言語学に強かったので、ここに応募するつもりでいた。

ところが、応募締切の数日前、香港中文大学の英文科にも充実した言語学の講座があることを偶々知った。

それなら中国文学と言語学、一石二鳥だ、という安易な考えで、急遽志願書を書き直して、留学希望先を香港に変えた。

もう半世紀近く前のことだが、いま思い返せば、わずか1年で二鳥を捕らえられるはずもなく、中途半端な留学で終わってしまった。

遊ばない大学生

香港中文大学

香港中文大学は、新界地区の山を丸々一つ切り崩して建てられている。

都会の喧噪を遠く離れ、緑の自然に囲まれた、東京ドーム 30 個分の広大なキャンパス。落ち着いた環境の下で、学生たちは勉学に励み、切磋琢磨している。

キャンパス内にいくつもの学生寮が点在していて、在校生の半分以上が寮に入る。留学生はみなどこかの寮に部屋が与えられた。

当時、香港に大学は2校しかなかったので、大学生は超の付くエリートだ。学生自身、エリートであることを自覚していて、

「自分たちが社会を先導していく」

という使命感を抱いて、学問に研鑽を積み、闊達に政治問題、世界情勢を論じ、香港の将来を真剣に語っていた。

香港の大学生は遊ばない。

遊ばない、と言うのは語弊があるかもしれない。正確に言えば、意味がない(と彼らが考えている)遊びはしない。

酒、タバコ、麻雀、パーティ、合コンなどなど、当時の日本の大学生がみな普通にやっていたことは、一切やらない。芸能ニュースやファッションにもまるで関心がない。化粧をしている女子学生はほぼ皆無だった。

ある時、米国の留学生B君とフリスビーで遊んでいたら、地元の学生が、

「その遊戯は何の意味があるのか」

と聞いてきた。

B君とわたしは、よく街へ飲みに出かけ、ほろ酔いでキャンパスに戻ったりしていたので、よほど浮いた存在だったにちがいない。

ルームメイトは、地元の哲学科の学生 Y 君だった。
机に向かってじっと本を読んでいる姿しか記憶にない。

ごく稀にわたしと会話を交わす時は、会話と言うより、議論と言うか、彼の一方的な演説と言うか、とにかくよくわからない哲学用語ばかりだった。

Y 君は、今は人権弁護士をやっている。

蒸気機関車で街へ

九広鉄路の蒸気機関車

大学と街を往復するには、九広鉄路の汽車を利用した。
シュッポシュッポと力強く白い煙を吐く蒸気機関車だ。

今は大学まで地下鉄が通っているが、当時は蒸気機関車しかなかった。

1時間に1本しかないダイヤなのに、平気で1時間以上遅延したりする。

車窓の景色を眺めながら汽車に揺られ、いざ街中に着くと、キャンパスとはまるで違う都会の喧噪が待っている。
 
混沌とした雑踏の空気には、何と形容していいかわからない香港の街独特の体臭が漂っていた。

スターフェリーの海風

スターフェリー

九龍側から香港島へ渡るには、海底トンネルを通るバスや地下鉄で行く方がずっと早くて便利なのだが、いつも「天星小輪」(スターフェリー)を利用していた。

尖沙咀(チムサーチョイ)から中環(セントラル)まで、乗船時間はおよそ10分間。

海風に吹かれ、ぼんやり対岸を眺めながら、何もせずただ座っているだけの10分間。香港を肌で感じる至福のひとときは、便利さと引き替えるわけにはいかなかった。

路面電車の風景

トラム

スターフェリーに負けず劣らずのんびりしているのがトラムだ。

香港の路面電車は、英語では tram(トラム) 、広東語では「電車(ティンチェー)」と言う。

愛称で「叮叮(ティンティン)」とも呼ばれる。運転手が注意喚起の信号でチンチンとベルを鳴らすからだ。

トラムは、香港島の北側の海岸線に沿って、東の端から西の端まで走っている。1世紀余りの長きにわたって香港の変遷と共に走り続けてきた香港人の「集合的記憶」だ。

香港の街はテンポが速い。料理は注文したとたんに出てくる。銀行の窓口はアッという間に用事が済む。モールのエスカレーターまで異様に速かった。

多くの他の大都会と同じように、効率やスピードが求められる社会だ。

平均時速10キロで悠々と走るトラムは、

「なにをそんなに急いでいるんだい?」

と、香港人にスローダウンするよう諭しているかのようだ。

2階建て路線バス

2階建てバス

イギリスの植民地であったので、香港のバスはほとんどがロンドンのダブルデッカーと同じ2階建てバスだ。

街中の移動はたいていバスを利用したが、決まって2階の先頭席に座った。
けっこう見晴らしがいいので、旅行者気分になれて気持ちがよかった。

地元の人たちは、この席は危ないから座らない。

繁華街は慢性渋滞で、バスの数がすごく多い。何台も前後に連なって走る。しかも、そこまで詰めることないだろうと思うくらい目一杯車間距離を詰めて走る。したがって、追突事故がよくある。

香港島は坂が多いので、急カーブで木にぶつかったり、勢い余って横転したりすることがある。もちろん稀ではあるが。

バスの横転事故

停留所のないバス

ミニバス

2階建てバスの他に、「小巴(シウパー)」と呼ばれるミニバスがある。

大通りから1本奥に入った横道に何台も並んで客待ちをしている。
時刻表はないので、満車になった時点で発車する。

行き先はいちおうバスの正面に表示されているのだが、当てにならない。
「〇〇行き」というのは、なんとなく〇〇方面あたりに行きますよ、くらいの意味だ。客の要望(や運転手の都合)でコースが変わることがある。

停留所はない。客が自分の降りたい場所に近づくと、

「落車(ロッチェー)」(降りま~す!)

と叫んで降ろしてもらう。

小回りが効いて運賃も安く、地元民には便利な乗り物だが、観光客には難度が高い。

書店めぐり

平日は、勉強しないとキャンパスで浮いてしまうので、一生懸命勉強した。
ひょっとして、高校受験の時を除けば、生涯で一番勉強した1年だったかもしれない。

週末は、息抜きに街に出た。目的は、書店めぐりであることが多かった。

一番のお気に入りは、旺角(モンコック)の田園書屋という書店だった。
古い雑居ビルの2階にある小さな書店だが、中国・台湾・香港で出版された文系の書籍が充実していた。

ここでしか手に入らないような専門書籍の海賊版(著作権違反の翻訳書)もたくさんあった。

あの頃の香港は自由だったので、今なら確実に発禁になるような政治批判の書物なども並んでいた。

田園書屋

田園書屋の後は、油麻地(ヤウマテイ)の中華書局へ行き、スターフェリーで香港島に渡って商務印書館へ行き、最後にトラムに乗って天地図書へ行くというのがお決まりのコースだった。

本を買うと買った分だけ頭が良くなると錯覚していて、1年間に随分と買い込んだ。

が、読まずに部屋の隅に積んだままになることが多かったので、買ったのを忘れてしまい、同じ本を2冊買ってしまうことがよくあった。

3冊買ってしまった時は、さすがに笑えなかった。

B 級グルメ茶餐廳

書店めぐりの日は、たいてい茶餐廳で食事をした。

香港人の外食の定番は、飲茶ではなく茶餐廳だ。

茶餐廳は、香港の街の至る所にある。とは言っても、小規模の大衆食堂なので、地代が高いメインストリートでは見かけない。たいてい大通りから1本奥に入った裏通りに店を構えている。

洋食も中華もメニューが豊富、安くて、早くて、旨いB級グルメだ。

茶餐廳には、茶餐廳独特の流儀がある。

一つ、すべて相席。
一つ、接客サービスはしない。
一つ、箸は自分のコップで洗う。
一つ、麺は「出前一丁」を使う。
一つ、チップは不要。
一つ、長居をしない。
一つ、政治を語らない。

空いてる席にスッと座って、ササッと食べて、ササッと出る。
庶民的な風情があって、お行儀よくする必要がないので、気楽でいい。

100万ドルの夜景

ビクトリアピーク

ビクトリアピークは、香港随一の観光スポットだ。

香港人は、単に「山頂(サンティン)」と呼んでいる。香港島西部に位置し、夜景の名所として知られている。

19世紀半ばに香港がイギリスの植民地となって以来、西洋人が「山頂」に 邸宅を構えて住むようになった。

当初、「山頂」は、地元の中国人の居住が認められていなかった。19世紀末のペストの世界的感染を受け、中国人の間で蔓延する流行病から身を守るという名目であったが、明らかな人種差別である。

20世紀半ばに至ってようやく中国人が「山頂」に住めるようになった。
現在は、富裕層や有名人が住む超高級住宅地になっている。

ビクトリアピークからは、香港島や九龍の超高層ビル群、港に浮かぶ船舶、周囲の島々などが一望の下に見渡せる。

黄昏時のピンク色に染まる夕焼け、宝石をちりばめたような「100万ドルの夜景」、どちらも素晴らしく美しい。

チョンキンマンション

チョンキンマンション

「重慶大厦」(チョンキンマンション)は、映画「恋する惑星」(原題「重慶森林」)の舞台となった雑居ビルだ。

九龍の尖沙咀地区の彌敦道(ネイザンロード)に面した繁華街のど真ん中に建っている。

もとは店舗と個人住宅からなる巨大な雑居ビルで、地上階は、両替店、雑貨店、食料品店、衣料品店、民族料理店など、雑多な店舗が密集している。

ビルの中には数多くのゲストハウスがあり、アクセス至便で宿泊料金が格安なので、「バックパッカーの聖地」と呼ばれている。

インドなどの南アジア、東南アジア、中東、アフリカなどさまざまな地域の 出身者が、ビルの中で店を営み、 働き、 住んでいる。そして、世界各地からの観光客が宿泊していて、さまざまな民族が寄り集まったコミュニティを形成している。

重慶大厦は、香港社会の多様性、多文化性を体現している場と言える。

香港の尊いところは、異なる人種・民族、異なる言語・文化・宗教、そうしたそれぞれ違う考えの人々が、一つの狭い土地で平和に共存してきたこと、そうした包容力のあることだ。

「重慶大厦」は、そうした香港社会の縮図と言ってよいかもしれない。

1997年香港返還

1997年7月1日、ビクトリア港で大々的に花火が上がった。
香港の中国返還を祝う花火だ。

香港庶民は、おおむね歓迎ムードだった。少なくとも表面的には。

しかし、富裕層や知識人の多くは、返還が視野に入った頃から、すでに続々と香港から脱出していた。

香港を離れる人たち

返還後の社会情勢に対する不安から、これまでに多くの香港人が海外に出ている。

返還が正式に決定された84年から返還が実施された97年までの間に、当時の人口の約1割に当たる60万人が移民した。「第1次移民ブーム」である。

返還後しばらくは香港に大きな変化はなく、社会が安定していたため、一度海外に移住してまた香港に戻ってきた人たちもいた。

ところが、この数年間、報道で周知の通り、香港社会には「大きな変化」が起きてしまった。

自分たちの親がかつて中国の故郷を離れたように、多くの香港人が、生まれ育った香港を離れる道を選択した。「第2次移民ブーム」である。

留学中に知り合った学友の多くも、相前後して香港を離れ、欧米に移住している。

返還を機に「中国の香港化が加速する」と予測する専門家が多くいた。
当時、経済面では、香港は繁栄の絶頂、中国はまだ発展途上であったから、そう予測するのはごく自然だった。

現実は、その逆のことが起きた。

消えたアイコン

以前、下のような記事を書いた。

九龍城砦、啓徳空港、JUMBO、ネオンライト・・・

この半世紀の間に、香港のカオスを象徴するアイコンが、一つ、また一つと後を追うように姿を消していった。

「東洋の魔窟」と呼ばれた九龍城砦は取り壊され、今は市民が憩う緑の公園になっている。

市街地のど真ん中にあり、世界で最も離着陸が難しいと言われた啓徳空港は閉港し、近代化した新空港が郊外にできた。

宮殿のような水上レストラン JUMBOは、不運にも、コロナ禍で破産した上に、洋上で沈没した。

雑踏に煌々と輝くネオンサインは、老朽化が進んで規制が厳しくなり、数が激減した。ネオンサインの減った街の光景を見ると、どうしても香港自体が元気がなくなったように思えてしまう。

九龍城塞、啓徳空港、JUMBO、ネオンライト

しかし、あれがなくなった、これがなくなったと恋しがったり残念がったりするのは、畢竟、わたしがよそ者だからだろう。

香港に住む人々にとっては、これら目に見えるものは、消えてなくなっても何のことはない。消えてすっきりしている人もいるのかもしれない。

香港人にとって切実なのは、目には見えないもっと大切なもの、これが消えたら香港が香港でなくなってしまう大切なもの、それがいま消えつつあることだ。

留学からほぼ半世紀が過ぎた今、香港が香港であった時代が胸に刺さるほど懐かしい。

香港とは縁があって、留学後、一時はほぼ毎年のように香港を訪れていた。

ここ数年は、香港へ行っていない。

出不精な性格だからということもあるが、香港でなくなった香港の姿は見るに忍びない、という気持ちが心の底にあるのかもしれない。


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