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【荘子】「胡蝶の夢」~チョウチョにとっては迷惑な話だという話

荘子については、こちらをご参照ください。↓↓↓

荘子は、名は周、戦国時代の人。
老子の思想を継承する道家の思想家である。

荘子

荘子は「絶対的自由」を唱えた。

この「絶対的自由」の境地に至るための思想が「万物斉同」である。

荘子は、このように語る。

万物の価値の差は、人間の作為による相対的なものだ。
「道」(タオ)の絶対性の下では、現実世界における、大小・是非・善悪・美醜・生死など、一切の対立と差別は消滅する。

抽象的でわかりにくいので、荘子は、いつものように寓話を使う。

「斉物論」篇に、「胡蝶の夢」の話がある。

昔者(むかし)荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
自ら喩(たの)しみて志に適(かな)えるかな、周たるを知らざるなり。


以前、わたし荘周は、夢の中で胡蝶になった。ヒラヒラと喜んで舞い、まさしく胡蝶であった。
自由気ままに楽しみ、心にかない、自分が荘周であることをすっかり忘れていた。

俄然として覚(さ)むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)有らん。此を之れ物化と謂う。


突然、ハッと目が覚めると、そこにいるのは、驚いてキョロキョロとあたりを見回す荘周であった。
荘周が夢を見て胡蝶になったのだろうか、胡蝶が夢を見て荘周になったのだろうか。
荘周と胡蝶とは、必ず区別がある。これを万物の変化と呼ぶ。

人間の荘周が夢を見て胡蝶になったのか、それとも胡蝶が夢を見て荘周になったのか、わからなくなってしまった、という奇抜な着想で「万物斉同」を説いている。

万物は絶え間なく変化する。すべての物は他の物へと変化し、それを永遠に繰り返す。したがって、現象面における形の上での区別は、変化によって生じた相対的な区別であって、実は本質的には同じなのだ、という論旨だ。

人間であろうと、蝶であろうと、それは現象面において、つまり形の上で、相対的に区別があるだけで、何ら絶対的、本質的な区別はない、と説く。

相対的区別を超越した世界が、すなわち「絶対的自由」の境地である。

「胡蝶の夢」は、形而上学的な「万物斉同」の思想を極めて簡潔に、象徴的に、かつ文学的に語った寓話である。

『幽夢影』

さて、荘子の時代からおよそ2000年の時を経た清朝の初め、張潮という文人が著した『幽夢影』という書物がある。

その中に、このような一節がある。

荘周の夢に蝴蝶と為れるは、荘周の幸なり。
蝴蝶の夢に荘周と為れるは、蝴蝶の不幸なり。

荘周が夢で胡蝶になるのは、荘周にとっては幸せだ。
胡蝶が夢で荘周になるのは、胡蝶にとっては不幸だ。

さすが江南の粋人、着眼点がユニークだ。
荘子の形而上学的な議論を、洒脱な人生美学の小品にすり替えている。

空中をヒラヒラと舞う胡蝶の姿は、逍遥自在の象徴だ。
人間はと言えば、世俗のしがらみに縛られ、なかなか自由には生きられない生き物だ。

自由気ままに舞っていた胡蝶が、ある日、突然、人間にされてしまったら、いったいどう思うか。

チョウチョ曰く、
えっ? あたし、人間になっちゃうの? イヤよ、そんなの!

塵埃まみれの窮屈な生活なんて、真っ平御免!と思うに違いない。

胡蝶にとっては迷惑な話だ。


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