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黄家駒(ウォン・カークイ)「海闊天空」~香港音楽界のカリスマ、悲劇のロックンローラーが歌う遥かなる夢

Beyond

黄家駒とBeyond


黄家駒(ウォン・カークイ 1962-1993)

いま日本で、どれだけの人が彼の名を知っているだろうか。

1980年代、香港で一世風靡した音楽界のカリスマだ。

黄家駒は、1962年生まれのミュージシャン。
83年に、ロックバンド Beyond を結成し、リードボーカルを務めた。

Beyond は、80年代末には、すでに香港を席巻するバンドになっていた。

日本の音楽をよく知る香港人は、しばしば黄家駒を尾崎豊と並べて語る。
黄家駒は、何から何まで、尾崎に似ている。

黄家駒は、尾崎より3歳年上、同世代のミュージシャンだ。
シンガーソングライターで、ロック歌手。
人生、理想、夢、愛を熱く歌い、既存の社会に抗い、若者から絶大な支持を得た。

そして何より、二人とも、あまりに若くしてこの世を去った。

黄家駒

香港の音楽界


80、90年代、香港の音楽界は、独創性に欠けていた。

当時、香港のヒット曲は、ほとんどが日本のポップスのカバーだった。

日本でヒットした曲は、必ず香港でもヒットする。
独自の音楽を創らなくても、カバーでまかなえば、手っ取り早く確実に収益が得られる。

中島みゆきの曲は、実に70曲がカバーされた。
同じ曲を歌詞を変えて、複数の歌手がカバーしたケースもあるので、それを加えれば、100曲を超える。

ミュージシャンは、自分で曲を作らず、コンサートやテレビのバラエティーで金を稼いだ。


黄家駒は、そうした娯楽本位の香港の音楽界に安住することができず、

「香港には真の音楽の場はない。あるのは、娯楽のビジネスだけだ」

と言い残して、香港を去った。

日本に渡った黄家駒


92年、トップスターの地位を擲って、ロック歌手として造詣を深めるため、バンドの仲間と共に海を渡り、日本に新天地を求めた。

しかし、黄家駒の日本での生活は、決して愉快なものではなかった。

日本の社会は、閉鎖的で息苦しい。言葉の壁があり、社会習慣や人間関係も、香港とはだいぶ異なる。

また、日本の芸能界には、一種独特のしきたりや流儀がある。

それよりも彼を苦しめたのは、自分が思い描いていた通りの音楽活動ができなかったことだ。

日本で活動するには、プロダクションに所属しないわけにいかない。

たとえ香港でカリスマと呼ばれたトップスターでも、日本では無名の新人に過ぎない。プロダクションの商業的意向に従わざるを得ない。

1993年6月24日、不本意ながら、フジテレビのお笑いバラエティー番組、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』に端役として出演した。

番組の収録中、お笑いゲームのためのゴンドラが高く吊り上げられていた。
黄家駒は、水浸しのセットから足を滑らせ、内村光良と共に転落した。

ヘルメットを被っていた内村は軽傷で済んだが、そうでなかった黄家駒は、頭部を強打して意識を失い、病院に搬送されたが、1週間後、死亡した。
31歳であった。

テレビ局の安全対策が問題視され、黄家駒に対する配慮が不十分だったことが指摘された。

かつての香港のスター黄家駒の訃報に、香港社会は大きな衝撃を受けた。

香港の誇りであったミュージシャンに対するリスペクトを欠いた。
香港の音楽ファンは、どうしてもそう感じざるを得なかった。

香港の人々は、悲しみと共に、怒りの感情を隠せず、メディアは、連日特集を組んで事故のニュースを伝えた。

事故の経緯に関しては、下のサイトに詳しい。


もともと、商業化した香港の芸能界に失望し、新天地を求めて日本にやってきた黄家駒が、彼自身もっとも嫌っていたお笑いバラエティーで命を落としてしまったのは、なんとも皮肉で悲しい。

黄家駒最後の曲「海闊天空」


「海闊天空」は、黄家駒が、日本滞在中に作詞作曲した歌だ。

広東語版と日本語版がリリースされた。

日本語版のタイトルは、「遥かなる夢に 〜Far away〜」という。

▼「海闊天空」(広東語)


▼「遥かなる夢に」(日本語)


この曲が完成して2か月足らずで、黄家駒は亡くなった。

黄家駒最後の曲となった「海闊天空」は、Beyond の結成10周年を記念したものだった。

彼らが歩んできた10年間の心の旅路を歌っている。 
自由を愛し、理想を抱いて、故郷を離れ、自分の夢を追い求める若者の姿を歌った歌だ。

苦悩と失意の中にも希望を見出そうとしていた黄家駒の姿そのものだ。

「海闊天空」は、爆発的なヒット曲になった。
広東語版は、ネット視聴が1億2000万回を超えている。

「海闊天空」には、このような歌詞がある。

今日 ぼくは 寒夜に舞う雪を見ながら 
冷えきった心を抱え 遥か彼方を彷徨い歩く

雨と風の中 追い求めて走る
霧に覆われ 行く先も見えない
果てしない空 果てしない海に きみとぼく
ぼくらも 変わっていくにちがいない

幾度となく浴びた 冷たい視線と嘲笑
心の中の理想を 捨てたことはなかった 

許してくれ ぼくは自由を愛し 一生放浪のまま
いつか 躓き転ぶかもしれないけれど
理想を捨てるなんて できない
たとえ この世に きみとぼくだけになったとしても
 
ずっと 自由に 心のままに 
永遠に 声高らかに ぼくは ぼくの歌を歌い 
千里の道を翔け抜ける

今天我 寒夜裡看雪飄過
懷著冷卻了的心窩漂遠方

風雨裡追趕
霧裡分不清影蹤
天空海闊你與我
可會變(誰沒在變)
  
多少次 迎著冷眼與嘲笑
從沒有放棄過心中的理想

原諒我這一生不羈放縱愛自由
也會怕有一天會跌倒
背棄了理想 誰人都可以
那會怕有一天只你共我

仍然自由自我 
永遠高唱我歌
走遍千里

音楽家としての理想を抱きつつ、やむなく香港を去って行った黄家駒の複雑な思いが込められている。

挫折があっても、どんなに辛くても、夢と希望を決して諦めない。
彼の歌の歌詞は、今も多くの香港人を鼓舞し励ましている。

ちなみに、「跌倒」(躓き転ぶ)という歌詞の言霊が、日本での悲しい事故を招いた、という都市伝説を生んでいる。

歌い継がれる「海闊天空」


2016年冬、東京新宿の街角で、一人の男がギターを片手に歌っている。
歌っているのは「遥かなる夢に」、日本語バージョンだ。

それを立ち止まってじっと聴いていた一人の女性。
彼女は、16年前、日本に嫁いで来た中国人。
間奏に入ると、ギターの音色に合わせ、広東語の歌詞をくちずさみ始めた。

それに気づいたギターの男が、広東語に切り換えて歌いだした。
その時、彼女は初めて、彼が中国人であると知る。

彼女は、涙を堪えながら、同胞と共に「海闊天空」を歌う。

ちょっとした感動シーンだ。

時代を超え、違う空間で、違う言語で、黄家駒の歌は、今日も歌い継がれている。

動画詳細(中国語)→ https://kknews.cc/culture/x5rlzmr.html


2014年、民主化運動で揺れた香港。

巨大な政治の波に押し流されつつあったデモ隊の中に、「海闊天空」を合唱する若者たちの姿があった。

そして、物語は、さらに続く。

「海闊天空」は、中国政府にとっては、決して聴き心地の良い歌ではない。
禁歌になるのでは、という噂まであった。

ところが、この歌は、次第に、中国でも若者の支持を受けるようになった。

2022年6月、山東省、青島大学の卒業式典、卒業生全員が手を振りながら「海闊天空」を大合唱している。


2023年6月、貴州の地下鉄構内、ストリートミュージシャンに群がった若者たちが「海闊天空」を大声で歌っている。広東語を話せるはずのない人たちが、広東語の歌詞で歌っている。

とうとう、政治イデオロギーを超え、中華圏全体で、この歌が自由を愛するすべての若者の魂となった。

真の音楽を追い求めていた黄家駒。
彼が音楽に託した夢、それは、こんな光景だったのかもしれない。


「海闊天空」

詞曲:黄家駒

今天我 寒夜裡看雪飄過
懷著冷卻了的心窩漂遠方
風雨裡追趕
霧裡分不清影蹤
天空海闊你與我
可會變(誰沒在變)

多少次 迎著冷眼與嘲笑
從沒有放棄過心中的理想
一剎那恍惚
若有所失的感覺
不知不覺已變淡
心裡愛(誰明白我)

原諒我這一生不羈放縱愛自由
也會怕有一天會跌倒
背棄了理想 誰人都可以
那會怕有一天只你共我

今天我 寒夜裡看雪飄過
懷著冷卻了的心窩漂遠方
風雨裡追趕
霧裡分不清影蹤
天空海闊你與我
可會變(誰沒在變)

原諒我這一生不羈放縱愛自由
也會怕有一天會跌倒
背棄了理想 誰人都可以
那會怕有一天只你共我

仍然自由自我
永遠高唱我歌走遍千里

原諒我這一生不羈放縱愛自由
也會怕有一天會跌倒
背棄了理想 誰人都可以
那會怕有一天只你共我

原諒我這一生不羈放縱愛自由
也會怕有一天會跌倒
背棄了理想 誰人都可以
那會怕有一天只你共我



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