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【エッセイ】八ヶ岳とお酒と私(続)

 文三郎道で私を追い抜いたのは、単独の女の子一人。降りて来てすれ違ったのは、単独男性二名に家族連れ一組。

 小学校低学年ぐらいの男の子に、
「山頂、ガスってるから気をつけて下さい!」と言われてしまった。マジか。こう見えても、おじさんはね、若い頃……。

 余程心配だったようで、その子は何度も振り返りながら、「頑張ってね!」と手を振った。

 のんびり休憩するフリを装いながら、心の底ではもう下山しようかと思い始めていた私は、覚悟を決めた。考えてみたら、朝から何にも食べてない。シャリばてかもしれん。ポカリも尽き、塩気もなかったが、ベタっとしてきたスニッカーズを一本食べると、少し元気ご出てきたような気がする。早く山小屋でビールを呑みたい!

 ビール、ビール、ビール! 脱水症状にアルコールは良くないと理性ではわかっていても、理屈ではないんだよ、山登りは。

 森林限界を過ぎて、岩場を三点支持で這うように登ってゆくと(足だけで登るよりよっぽど楽)、ようやく霧に包まれた赤岳山頂に。人生何度目かの登頂だが、人っ子一人いないのは初めてである。まったく展望がない上に、追い討ちをかけるように雨が降ってきた。先ず足下で雨音がして、ここは標高が高いからまだ大丈夫かと思ったら、やっぱり上から降ってくる。

 ここでブロッケン現象を目の当たりにしたのは、いつのことだったか……。

人っ子一人いない山頂は初めて

 山頂のすぐ横に山小屋がある(よくこんな険しいところにつくったものだと感心する)。赤岳頂上荘。しかし、私が泊まることにした小屋は、そこから20分ほどの下りにあって、もう悔やまれて仕方がない。頂上荘の受付で雨を避けさせてもらって、雨具を身につけるとすぐに出発。

 実は10年ほど前の正月、この山頂から下の肩にある展望荘までの尾根の下り道で吹雪かれて、ヤバかったことがある。その時にはすでに山岳会から足が遠のいており(山岳会では小屋泊まりは許されていない。テント泊かビバークのみである)、やはり単独だった。

 尾根を下りてゆくと急激に気温が下がり、突風に揉みくちゃにされた。目を開けていられないほどの強風。ゴーグルを出そうと、手探りでザックを開けると、何かがあっという間に吹き飛ばされて行った。ゴミ? 地図? 山頂で遭った、反対方向から来た登山者に「この先は気をつけろ」と言われたことを思い出す。いや、止めろや。

 ゴーグルをかけても、曇って視界がまったく利かなかった。強風にもみくちゃにされ、みるみる体力を奪われてよろよろとしか進めない。正月とはいえ、まさか一般縦走路で遭難? ほうほうの体で山小屋に逃げ込んだ私を待っていたのは、しかし薪ストーブで快適に暖められて、皆がコーヒーを呑んだり、山の写真集を眺めたりしているのんびりした日常であった。壁を隔てて大荒れの外と平穏な時間が流れる屋内のこの違い。この後、地蔵尾根から登ってきたパーティが避難してきたが、皆真っ青な顔をしていて、軽い凍傷になっている者までいた。天候の急変はかくも恐ろしい……と言っても、それは冬の話。しかし、三千メートルの稜線で冷たい雨に打たれるのは、実に嫌なものである。

 さて話は現在に戻って、展望荘に到着すると、完全な脱水症状であった私は先ず500円のポカリを一気飲みした。それから、缶ビールを注文したのである。生き返る。昨夜はほぼ満員ということだっだが、日曜日の小屋は空いていた。単独男性自分を含めて五名くらい、単独女性一名(涼しい顔で私を抜かして行った若い女性)、夫婦一組、子ども連れ一家族。ミステリだったから、ここで第一の殺人事件が起き、山が荒れて警察も辿り着けないクローズドサークルが成立するはずだ。

 山行にはいつもポケットウイスキーを持って行くことを習慣にしていたものだけど、今回は久しぶりなので遠慮した。その代わりに赤ワインをグラスで頂く。やっぱり山には酒が必要。冬の日光白根山に缶ビールを持っていったら完全に凍りついて呑めなかったことがある。あのときは、ワインもシャーベット状になっていて、瓶を逆さに振ってコッヘルに落として、匙で掬って食べたものだった……。

 水分補給して、酒を呑んで、飯を食うと、眠る以外何もできないほど疲労困憊していた。

 夜中にふと目覚めて、外を見ると星の瞬きが見えたのはたしかに夢ではなかったとは思うけれど、朝になるとぼそぼそ雨が降っていて、いつの間にか天気予報も素知らぬ顔で変わっている、というか完全に外れていた。

「どうします?」相部屋の右隣の寝床で地図を睨んでいる禿頭の老人が訊くと、左隣の若者(パッキング中)が、「無理でしょう。もう下山しますよ」と答える。

 せっかく苦労して、汗水垂らしてここまで登って来て、さあこれからが本番というときに、雨に降られてはね。あーあ。

山小屋の夕飯。朝ごはんは撮り忘れました。

(続く)

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