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【エッセイ】『山月記』ラストの一文問題

 その昔、小さな編集プロダクションで働いていたとき、散々ダメ出しされたものだ。毎日毎日個人的にはまったく興味のない事に関する文章を書いて、書いて、書き続けて、それだけで心底ウンザリする日々だったのに、その上で文章にダメ出しされ続けたのである。

 ここを直せという指示やアドバイスを素直に聞けば良かったものの、新入社員で下っ端、修行中の身でありながら、不服で仕方がなかった。愚かしくも恥ずかしいことに、口答えが多かった、と記憶している。

 早稲田卒の社長は、「東大に落ちたから、ぼくは大して頭が良くないんだよ」が口癖の自惚れの強い方で、知性を鼻にかけ、人を見下してるようなところがあったから、反発したのかもしれない。

「君の文章は主語と述語が一致していない。悪い癖だ」
「別に意味が通れば良いんじゃないでしょうか」

「ほらまた、ここ主語がないよ」
「主語がないんじゃなくて、省略しているんです」 
「だから意味が通らないから、省略するなと言ってるんだ」
「それはリテラシーの問題でしょう」

 実に嫌な新入社員ではないか。

「君と議論するつもりはないんだ。言われたとおりに直すように」
「はい……」とふくれっ面。納得がゆかない。

 ぶっちゃけ、主語なんていらないんだよ。

 しかし、トーシローが雑誌やWebの雑文に一体何をこだわっていたというのか。こんな議論など意味がなく、社長の方に利があることは、今となってはわかる。

 ちなみ、今までの文章(上記)は、なるたけ主語を省略して書いたもので、
「早稲田卒の社長は……反発していたのかもしれない」というのが、主語と述語が一致していないと批判された文の例である。「私は」が省略されているだけで、とくに意味不明な文ではないと思うのだけど。

うとうとして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。

夏目漱石『三四郎』冒頭

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

川端康成『雪国』冒頭

 目がさめたのは、誰なのか。一体何が、もしくは誰が国境のトンネルを抜けたのか。そんなことをいちいち問う読者はいないだろう。しかし言うまでもなく、一流の文学作品とヘッポコの書いたその辺の雑誌記事とを同列には語れない。

 ところで、日本語文法で主語(という概念)廃止論を唱えた学者がいたということを、当時は知らなかった。

 この本で主張されていることをザックリ言うと、英語などの主語-述語関係は日本語の構文には見られないよということである。係助詞「は」は、必ずしも主語を表すわけではない。

昨日は、雨だった。

象は鼻が長い。

 ここでは「は」は、主語ではなく、題目を表わすのだよ、と。現在、三上先生の説がどのように評価されているのか(あるいは退けられているのか)、全く知らないけれど、「象」は大主語で鼻は小主語なんて無理矢理な説明よりはよほど説得力があるのではないかな。

 さてどういう文脈であったか、この本の中に中島敦『山月記』について触れている箇所がある。教科書に載っていて、日本人なら誰でも一度は読んだことがあるはずの名作であるから、最後の一文を引用しても、ネタバレにならないだろう。

 李徴というやたらプライドの高い小役人が職を辞し、詩人を目指すが、家族を養えず発狂して、ついには人食い虎になってしまうという話である。結末では、危うく旧友を襲いそうになってしまい、身の上話を語って聞かせる。そして、

虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

中島敦『山月記』ラスト

 やはり漢文の素養があるとちがうなあと思わせる、格調高い見事な文章である。

 ……ん、でもなんかおかしくない?

 三上先生曰く、「虎は……再びその姿を見なかった」ではなく、「姿を見せなかった」が正しい。あの編プロの社長が絶対に指摘するようなことを、主語廃止論者である文法学者が言っているのである。残念でならない。

 いやいや、先生、ここは「(旧友は)その姿を見なかった」の「旧友は」もしくは、「誰も」が省略されていると考えるべきではないですか!

 この一文の虎は主語ではなく、題目なのだと考えればわかりやすい。「(虎の)姿を見なかった」のは誰か?という問いに、「それは虎です」なんて答える人は、平均的な国語能力を持った人の中にはいないはずだ。

 それとも、そんな風に中島敦を擁護したくなるのは、編プロ時代のダメ出しのトラウマによるものなのだろうか。

 さて、↑の文の主語は何だろうか? 「私」だろうか、「中島敦を擁護したくなること」だろうか、それとも「私が中島敦を擁護したくなる理由」だろうか?

 やっぱり、英語の主語-述語関係をそのまま日本語に当てはめるのは、無理がありそうだ。

(了)

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