見出し画像

【掌編】赤鬼/青鬼

 郊外で暮らしていると、朝は上りの電車が混み、夜は下りの電車が混む。逆に言うと、朝は下りが空き、夜は上りが空くことになる。

 だから都心へ通うナイトシフトなら、行きも帰りも座って通勤できる。

 改札が一階にあって、ホームが二階にある高架線の駅の階段を上っていると、血相を変えた駅員が駆け下りてきてぶつかりそうになる。

 駅員が上でこちらが下、突き飛ばされたら、階段を転げ落ちて大怪我をするところだった。朝っぱらから(実は夜)腹の立つことだ、客を何だと思ってやがる、と舌打ちする。すると、後ろから警察官が三人、一段飛ばしで追い抜いていった。さては何かあったな、車内トラブルか、人身事故か。迷惑なことだ、遅刻したらどうしてくれる?

 階段を上り切ると、上りの電車があり得ない位置、ホームの半ばあたりに停まっている。そこから男が一人ふらふらと歩いてきた。

 鬼だ、赤鬼だ、慄然として立ち尽す、初めて目にした。まさか、お面を被っているのさ、節分でもないのに酔狂な。

 いや、ちがう、つのがない、顔が血まみれなのだ。自殺未遂か、酔っ払っいか、ホームから落下して額を切ったが、電車が急停止して、あわや一命を取り留めたといったところか。今頃になって、人身事故を告げる構内放送が流れ、線路を挟んだ反対側、下りホームでは帰宅客の人だかりができて、携帯電話をこちらへ差し伸べて撮影しようとしている輩までいる。

 赤鬼はベンチまで来ると、がっくりと頭を抱えて座り込み、それを先ほどの警官三人がおっかなびっくり取り囲む。肩を震わせしゃくりあげる鬼を、一人は落ち着かせて質問しているようで、あとは無線で報告するのと、腕を組んで黙って見ている(つまり何もしていない)のと。

 手当てしてやれよ、と思わなくもないが、包帯も消毒液も持っていないし、血に素手で触れるのは憚れるのだろう。

 男はいつまでも泣き止まず、教科書に載っていた『泣いた赤鬼』という童話のタイトルが連想されたが、はて赤鬼はなぜ涙を流したのか、そのストーリーがどうしても思い出せない。しかし、赤鬼といえば、頭の中で決まって青鬼とセットになっている。たしか青鬼がどうかしたんだ、死んだとか、病気になったとか、旅に出たとか。

 青鬼の青からの連想で、都心の方の駅でつい先日見かけた光景が蘇ってきた。大柄な初老の男が心臓発作でも起こしたのか、行き交う大勢の乗客の流れを遮るような形で階段の途中で倒れていて、駅員らがAEDで心配蘇生を試みていた。シャツのボタンを外され肥満した肉体を晒し、胸に電極パッドを貼られ、電気が流れる度にびくりびくりと痙攣するが、カッと見開いた、しかし何も映していないような眼は瞬きもしない。顔面は蒼白で、半開きの口から紫色になった舌が突き出していた。呼吸が止まってからもうずいぶんと経っているように見える。

「立ち止まらないで下さい、見ないで下さい」と駅員が絶望的な調子で声を張りあげた。

 まったく今まで見たことがないほど青い顔をしている、つい惹き込まれて立ち止まり見下ろしていると、若い女性駅員がとうとう泣き出してしまった。

「見ないで下さい、お願いだから見ないで!」

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?