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誰が「コワーキング」(という言葉)を殺すのか

※この記事は2022年7月16日に公開されたものです。

昨日、大阪福島のGRANDSLAMさんで、コロナ禍の落ち着きを見計らって(と言いながら、また感染率上がってるけれど)コワーキングスペース運営者が久しぶりにリアルに集い、情報交換しようというミートアップに参加した。

集まった面々の中には、このコロナ禍のさなかに開業した人もいて、その前の時代を知らない人も多かったので、ぼくなんかにしたら非常に新鮮だった。それにやっぱりリアルで会うとハッとする言葉に遭遇するし、そこから思考が拡がる。オンラインは便利だけどまだまだ限定的。仕方ないけれど。

で、イベントが終わってから、2〜3人の方と立ち話した。そこで考えたことを記しておく。

コミュニケーションがない共用ワークスペースだって必要

今回の参加者はどちらかと言うと「コミュニティありき」のコワーキングの運営をヨシとする人が多かったが、中におひとり、あえてコミュニティを持たないコワーキング(という言い方がすでに矛盾してるが後述する)を運営されている方がいた。

この方は、居並ぶ面々がコミュニティ志向であることを承知の上で、自身が場違いであるであろうと思いつつ、果敢にも出席しそのことを発言されたのだが、むしろその堂々ぶりが満場の共感を得て大いに沸いた。これを多様性を許容するなどとわざわざ宣うつもりはないが、コワーキングとはすべからくそういうカルチャーを持つものだから不思議でもなんでもない。

いわく、「たとえコミュニケーションがなくても、仕事が捗る環境があればいい、というユーザーはいる」。そう、まったくそのとおり。

ぼくもまた、コミュニティ(=コミュニケーション)が中核にある共用ワークスペースがコワーキングであると考えて運営しているひとりだが、だからといってコミュニケーションがないワークスペースを全否定するつもりはさらさらないし、していない。

というか、日頃はぺちゃくちゃ話し好きなぼくでも、ひとりで没入感に浸りながら集中して仕事することも、こう見えて実はあるわけで(本当です)。まあ、生来、夜型なので、そういうことは深夜、だいたいカフーツを閉めてからだけど。

そもそもコワーカーはひとつのワークスペースに固執するのではなく、適宜、複数のコワーキングをその日の事情と気分によって使い分けたほうが合理的だと考えている。だから、カフーツに来る人にも、「もっと他のコワーキングも使ったほうがいい」と常々言ってきた。その時は怪訝な顔をされたけれども、今なら彼らも判ってるだろうと思う。

で、話してて気づいたのは、この方がご自身の経営されている共用ワークスペースを「コワーキング」と呼ぶことに違和感、あるいは引け目、もしくはジレンマを感じている、ということだ。だから、こういう会合に参加するのに相当な勇気が要る。なぜ、そういうことが起こるのか?

それは「コワーキング」という概念が世間で正しく共有されず、各自が間違った理解のままで、同じ言葉を使っているからだ。

コワーキングの5大価値

ぼくの主張としては、何度も繰り返して恐縮だが、「コワーキングの5大価値」を提供しないものは、たとえ「共用」であろうとも「コワーキング」とは呼ばない。

「コワーキングの5大価値」とはこれ。

まさに、コワーキングがコミュニティ足らしめる要件だが、これを解説した記事はこれ。ちと長いが、未読の方はぜひ読まれたい。

CoworkingのCoは文字通り「共同」の意だ。なので、コワーキングを実行するところは「共用」のワークスペースという発想であることには間違いはない。ちなみに、よく「共有」と書く人がいるが、誰もコワーキングを所有なんかしていない。使っているだけから「共用」が正しい。

ただし、コワーキングの方法論はいくつあってもいいし、ひとつの定型に収まるものであるべきでもない。そこに集うヒト、そこで行われるコトによって、その姿は自在に変化する。そもそもコミュニティというものは生き物だから、変化して当たり前だ。

よく見ていただきたいが、上記の5つの価値に、「場所」という概念はない。あくまでコワーキングとは、人と人をつなげる仕組みであって、その過程で、もしくはその結果として、コトが起こり成果を生み、それに関わったヒトと、引いてはその地域(ローカル)に価値を産み落とすスキームだ、ということ。

つまり、Co を「場所」で捉えるからおかしくなる。そうではなくて、ヒトの「行為」のことを言う。「場所」ではないのだ。

そのことを8つのテーマに分けてくどくど書いたのがこれ。

ではなぜ、そういう間違った発想で「コワーキング」という言葉が使われるのか。そこへミスリードする原因は、あくまで私見だが大きく2つあると思っている。

イノセントをミスリードする2つの原因

ひとつは、「場所」でしか考えられない者、つまり不動産事業者が共用ワークスペースをローカルコミュニティの手段ではなく、ビジネスの目的として業界(この言葉もキライだが)に参入してきたからだ。

それは2012年頃からだったか。ハコが彼らのビジネスの目的であり、そこで繰り広げられるであろうコミュニティなどおよそ興味の対象ではない、というか、一部を除いてそんなところまで考えが至らないのが本当のところではないか。

そもそも、コワーキングを単に作業場、あるいはオフィスと考えているところからしてボタンを掛け違えている。どうやら流行りの言葉(バズワード)らしいから、それに乗っかっていこう、そういう了見だったのではないかと思う。

ちなみに、不動産系が大挙してコワーキングになだれ込んでいるのは、なにも日本に限った話ではない。コロナ禍を挟んで世界中で起こっていることであって、当然の成り行きだ。ただそこでは、これまでの不動産賃貸借とは違った「フレキシブル・ワークスペース(フレックススペース)」という概念が支配的でどんどん先に行っている(後述)。

もうひとつ、こうした現象を前にしてコワーキングの根源的な意味を理解しないまま、上辺だけの知識で文字化=記事化するメディアの責任も重い。とりわけ、東京などの大都市圏にあるコワーキングを取材して判った気になった一部の書き手の記事は、中身が薄いだけに罪深い。

これは、自分もモノを書くひとりとして、また、正しくコワーキングを理解してほしいと願い、機会があるごとに説いて回っている当事者として忸怩たる思いがあるが、彼らが単に勉強不足なだけだから始末が悪い。

とはいえメディアの影響は大きい。そういう記事に接した読者はそれを事実と思い込み、その理解でコワーキングを考え、そして語る。←この点、特に活字に弱い日本人はアブナイ。「ホントか?」と疑うマインドが極めて希薄で、易易と刷り込まれる。きっと小さいときから無思考へと導かれる教育制度のせいだろう。

これが繰り返されて、いつの間にか、「あー、コワーキングってノートパソコン持ってきてヘッドフォンしてキーボードをパチパチ打ってフリードリンクがぶがぶ飲んで誰とも喋らずにそっと帰っていく、そんな快適なところよね」となる。

彼らにミスリードされて、「コワーキング」という言葉が、共通の概念としてまったく共有されないまま、それぞれに使われている。

繰り返すが、コミュニケーションがない共用ワークスペースもあっていいし、むしろ時には必要だ。だが、それを「コワーキング」とは言わない。

問題は、そこにあると思う。けれども、その根が深いのは、彼らは皆、知らないだけ、イノセントであるということだ。「だって、そうとは知らなかったんだもの」。

ちなみに、昨日のイベントのある参加者が、「人が来てもコミュニティになりそうになかったので、それでコワーキングに変更した」と発言したのを聞いて、腰が抜けそうになった。

コワーキングにコミュニティなんてものはないという前提。それ、逆じゃないのか?個室のカラオケを改装して、「コワーキング」などと言って売り出す、あの感覚とほぼ同根だろう。

と思ったが、その運営者もまた、それがコワーキングなんだとミスリードされたイノセントなのだと思う(そういえば、東京の会社だったし)。

「コワーキング」(という言葉)を殺してしまわないために

それとは逆に、くだんのコミュニティのない共用ワークスペースの経営者は、「コワーキング」という言葉を使うことに躊躇する。「コワーキング」の本当の意味を了解しているからだ。至極、真っ当な感覚であり、同情を禁じえない。

だから。

コミュニティなしで、前述の「コワーキングの5大価値」を提供しない、しかし、複数の利用者が共用するワークスペースのことを、他の言葉で表現することを提案したい。そうすれば、この方もスッキリするはずだし、ぼくらもスッキリする。

でないと、このままでは、「コワーキング」(という言葉)を殺してしまいかねない。

前述のように海外では「フレックススペース」という概念が浸透している。これは、従来のように、特定のテナントがビルのフロアを賃貸借契約で借りるのではなくて、複数の企業もしくはワーカーが利用契約の形態でワークスペースを共用するスタイルを言い、その中にシェアオフィスやサテライトオフィス、そして、コワーキングスペースが包含される、というもの。

だから、コミュニティ(=コミュニケーション)があろうがなかろうが、とりあえず「フレックススペース」と称した上で、「うちはコワーキングだから、もちろんコミュニケーションありきですよ、ワハハ」、「コミュニティなしですけど、仕事に集中できるワークスペースですよ、それが何か」と宣言すればいいのではないか。

あるいは、何かもっと気の利いた呼称を考えるか…。いや、ここがアブナイところかもしれない。

とかく日本人は言葉を約める傾向が強い。なんでも名詞化してしまう。名詞化したらわかり易いと思っているフシがあるが、そこが間違いで、誰でも共通の認識ができるとは限らない。

加えて、カタカナ英語に弱い。判っていないのに、雰囲気で判った気になる。ワーケーションなんかその最たる例だ。世界のそれとぜんぜん違うものが、日本でワーケーションと呼ばれている。なので、安易に「一言」でまとめてしまうことを少なからず危惧する。

言葉は難しい。でも、それだけに言葉を尽くしてきちんと伝えたい。「コワーキング」の意味を正しく理解した上で使いたい。ぼくのブログが長文になるのはそのせいだ。と、言い訳して、終わる。

それでは、また。

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