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直樹の焼きうどん|連載「記憶を食む」第5回|僕のマリ

思い出すことのかたわらにはいつも、食べものがあった。
大切な記憶も、ちょっとした記憶も、食むように紡いでいく。気鋭の文筆家・僕のマリによるはじめての食エッセイ連載。
第5回は、高校時代のちょっと大人っぽい思い出とともに、違う方向の「美味しい」に思いを馳せます。

 昨年、やたらとお祭りに行った。ほぼ毎週と言って良いほど行っていた。家から歩いて行ける距離のところしか行かなかったけれど、それでもどこかしらの神社や小学校でいつもお祭りがあった。夕方までに家事や仕事を済ませ、明るいうちから缶ビール片手に会場へ向かう。浴衣姿の人や、はしゃいでいる子どもたちが増えてきたら、自然とこちらのテンションも上がる。盆踊りの音を聞きながら屋台で何を買うか考えているとき、やけに楽しい。たこ焼きやイカ焼き、じゃがバターやりんご飴。いつも大体、迷った末に焼きそばを買う。芯ばかりのキャベツや、豚肉の端っこが申し訳程度に入っていて、ほとんど麺しかないけれど、やけにそそる。焼きそばというより、炭水化物という感じがするけれど、やけに美味しい。自分で作ったほうが美味しくできるはずだけれど、でもそれとは違うベクトルで美味しいと感じる。そういえばこんなこともあったなと、思い出したことがあった。

 高校三年生のときに仲が良かった千夏とは、休みの日に遊ぶことはあまりなかったけれど、学校ではいつも一緒にいた。ノリがよくて楽しい千夏といるのは居心地がよく、くだらないことでいつも爆笑していたものだ。なぜ休みの日に一緒に遊ばなかったかというと、休みの日の千夏は大体彼氏と遊んでいたからだ。一年生のときから彼氏が途切れない千夏は、常に誰かと付き合っていて、四六時中連絡をとっていた。当時、ウィルコムというメーカーのPHSが流行っていた。月額三千円ほどで、ウィルコム同士であれば通話がし放題だったので、仲の良い友だち同士やカップルがよく使っていた。千夏も例に漏れずウィルコムを所持しており、携帯と二台持ちで常にどちらかを触っている。

 「あ、直樹」というのが千夏の口癖であった。コンビニのバイトで出会ったという年上の彼氏である直樹とは、休み時間や昼休みもずっとメールか通話をしていた。携帯をいじっているときにわたしと目が合えば、「あ、直樹(にメール打ってる)」と言い、ポケットの中でウィルコムが震えれば「あ、直樹(から着信だ)」と目を輝かせる。直樹まみれの一日だった。直樹は二十歳で、高校生の自分からすればやや大人に感じる。どんなデートをするのであろうか。高校生同士の、マクドナルドやサイゼリヤでえんえんと粘っているような時間は過ごさないのだろうか。たかだか二、三歳上の男性に対して、なぜだかすごく期待のハードルを上げてしまっていた。 

 卒業まで二ヶ月を切った頃、千夏が「直樹んちに行くけど、一緒に行かない?」と誘ってきてくれた。その日は確か土曜日で、一般受験組だったわたしは、本来なら朝から晩まで勉強しなければならない。遊びに行っている暇などない。しかし、そのときのわたしは好奇心に負けた。「夕方までには帰る」と母に言い残して、地元の駅でお土産のミスタードーナツを買って指定された駅へと急いだ。千夏と落ち合い、直樹のアパートへと歩く。当たり前かもしれないけれど、「彼氏が一人で住んでいる家に、いつも行ってるんだなあ」と思うと、憧れと気恥ずかしさが一気に押し寄せる。直樹も大人だが、千夏も大人だと思った。二階建ての白いアパートの一階に、彼は住んでいた。インターホンを押してから家主が出てくるまでの間、異様に長く感じた。ドアノブが廻り、直樹が出てきた。片足だけをサンダルに突っ込み、前のめりになるような姿勢で出迎えてくれた。彼は想像したより小柄で、痩せていて、眉毛がほとんどなかった。

 手土産のミスドを渡し、三人で床にぺたりと座る。間取りは1Kで、料理をしない前提で取り付けたような簡素なキッチンと、洗濯機と、ツードアの小さな冷蔵庫、布団だけがあった。長さの合っていないカーテンから察するに、引っ越して日が浅いのかもしれない。わたしたちは何をするでもなく、他愛もない話をした。学校であった面白いことや、バイトでのエピソード、千夏の双子の妹のこと。脈絡のないことを話しているようでいて、嫉妬深い直樹に配慮して同級生の男の子の話はしなかった。束縛とか嫉妬とか、そういうナイーブな感情さえ、高校生のわたしたちには愛情のバラメーターのようだった。

 ドーナツを食べたきりでお腹が空いていた。テレビもない静かな部屋では、めいめいのお腹の音がよく響いた。「コンビニでも行く?」と提案しようと考えた。もしくはどこかに食べに行ってもいい。すると直樹がやおら立ち上がり、冷蔵庫を開けた。「作ってやろうか」とわたしたちに問いかけ、「食べたーい」と千夏は甘えた声を出した。

 シンクの下の収納から、フライパンが出てきた。コンビニで買ったようなミニサイズのサラダ油をひき、直樹はもやしを炒める。チルドのうどんを二袋加える。三分ほど炒めたあと、醤油を一回しほど入れた。それで調理の全行程が終わった。「皿とか、ねえんだよな」と言いながら、やっと見つけた紙皿に焼きうどんをよそってくれた。一枚しかなかったので、直樹と千夏はフライパンから直で食べることにしたらしい。しかし、箸もなかった。さっき炒めていたときの菜箸しか彼の家にはなく、割り箸もねえ、と舌打ちしていた。仕方ないので、三人で菜箸を交代で使って焼きうどんを食べた。

 当たり前だが醤油の味しかせず、普段食べてきたそれとはだいぶ違う味だった。具がもやししかなくて、だしの香りもない焼きうどんは初めてだ。みんな空腹だったので、もくもくと食べた。キャベツも人参もネギもお肉もないけれど、なんだかやけに美味しく感じて衝撃的だった。あっという間に食べ終えて、その頃には日が暮れていた。直樹はわたしと千夏を駅まで送って、「またな」と言って帰っていった。その日は帰ってからずっと、直樹の焼きうどんのことをぼんやりと考えた。美味しすぎなくて美味しい、という謎の境地を体験したのは、これが初めてのことだった気がする。手間暇かけて、それなりによい食材や調味料を使って作ったもののほうが美味しいと決めつけていた。空腹状態で食べたから、という条件を抜きにしても、なんだか癖になる味だった。千夏とは卒業して以来会っていない。成人する頃に連絡をとったときはまだ付き合っていたような気もするけれど、今はどうしているんだろう、とぼんやり思う。

 できるなら、美味しいものを食べたいし作りたい。人に贈り物をするときだって、外さない良いものを選びたい。でも、美味しすぎなくて美味しい、という喜びも確かにあって、そういうものほど心に残ったりする。それはわたしにとって、お祭りの屋台の食べ物だったり、ファストフードだったり、コンビニの肉まんだったりする。おしゃれして食事しに行くという豊かさもあれば、家ですっぴんで眼鏡の状態で食べる適当なごはんにも豊かさはあるはずだ。お昼を食べ損ねて変な時間に食べる卵かけごはんが、妙に美味しかったりする。忙しい日々の合間に心をほぐしてくれるのは、案外気取らない食べ物なのかもしれない。

僕のマリ
1992年福岡県生まれ。著書に『常識のない喫茶店』『書きたい生活』(ともに柏書房)『いかれた慕情』(百万年書房)など。自費出版の日記集も作っている。

次回は3月22日頃の更新です。
隔週金曜日に更新予定です。

過去記事は以下のマガジンにまとめています。


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