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移動遊園地 〔5〕

 そんな僕ら三人の仲だが、大学生ともなるとさすがに変わらざるをえなかった。僕らは首都セントレル・ポルテにある中堅大学に大した勉強をすることなく入学した。入るなら都心が良いというのが彼らの言い分で、僕もとくにしたい勉強がなかったからそれに従った。
 大学があったエースタ・レヴァ区は、当時三つのブロックから構成されていた。ひとつは流行の発信地でファッショナブルなブロック、ひとつは高級マンションとブランド・ショップの立ち並ぶブロック、ひとつは格安の住宅地とボロの酒場が軒を連ねるブロックだ。まさに都会のすべてを代表するようなところだった。
 リーディとイリィは入学してすぐに都会のまばゆさに目が眩んだ。彼らは進学に際して大学寮に入ったからとくにその傾向が強かった。リーディは同寮のだらしなく浮ついた同級生たちとグループを組み、いつも煙草の箱をポケットに入れては煙を吹かしたり、ほとんど毎日安酒場に行って酒を飲み交わしたり、ボロのクーペに乗りこんでカーラジオから大音量で音楽を流しながらドライブしたり、車窓から気に入らないグループを見つけては喧嘩したりしていた。のちに同じグループの何名かが大麻所持で書類送検・逮捕されたから、もしかしたらリーディも吸っていたかもしれない。
 どういう心境の変化があったのか、そんな生活をしていたがゆえなのか、彼はいつの間にか女子に緊張するくせを克服したらしかった。彼には当時、イリィのほかに多くのガールフレンドがいた。あいつはとにかく女なら誰とでも寝てるぜ、とゼミの友人のボキーが言っていた。「もうここらじゃ有名さ、あいつの悪ガキっぷりはね。おれの狙っていた女も簡単に奪われちまった。講義室に彼女の肩を組んで煙草を吹かしながら入ってきたんだからな。でも、彼女はすぐに捨てられた、あの野郎。顔の良いことは認めるが、それにしたって紳士じゃない。聞いたけど、あんた、あいつの長い友人だって? これは助言だが、縁を切る時期ってのもそろそろ考えたほうが良い。あいつはクズ中のクズさ」
 そうしたリーディに失望したせいか、イリィも同じように素行が悪くなっていった。仲良くなった同寮の女子や講義のクラスメートに連れ立って安いバーやクラブに入り浸り、リーディと同じく煙草と酒に溺れた。聞いた話だが、彼女も多くのボーイフレンドを抱えていたという。一度だけこの頃の彼女の姿を見たが、美しいブルネットの髪は脱色され、造形の美しい顔は原形が見えないほど化粧で厚く覆われていた。
 この時期の彼らについて僕が語れることは非常に少なく、しかもその多くは伝聞だ。ボキーに言われるよりも早く、僕は彼らとの交友関係を絶っていたからだ。入学当初は以前と同じように三人で会うことも多かったが、彼らが完全に寮生活となると会う機会が減り、ついに意識的にお互いの顔を合わせないようにするまでになった。
 大学二年生になるまでには、ときどき話しかけてくるボキーもついに近づかなくなり、僕はほとんど誰とも会話をしなくなった。パートタイムで働く古本屋もクビになった。僕は、講義以外をほとんど大学ちかくの区立図書館でチャンドラーの小説を読んで過ごした。休日には『シネマ・ハリウッド』に行って一日中映画を観た。そのときに知り合ったガールフレンドがいたが、付き合って一週間後に「ファック・オフ」と書かれた手紙が送られてきた。
 僕が彼らと再び交友関係を取り戻したのは四年生になった年で、皮肉なことに、彼らの身の回りで事件が立て続けに起きたからだ。まずリーディのグループの数名が大麻所持で捕まり、リーディ自身も酔っ払ってほかの客に暴行して数ヶ月の停学処分を受けた。イリィは連れの女が飲酒したのを知っておきながら、運転させて物損事故を起こしたとして書類送検された。
 六月には最悪の事件が起きた。リーディがそのときのガールフレンドを妊娠させたと噂になり、その彼女のボーイフレンドが彼ら馴染みのバーを嗅ぎつけたのだ。彼女の浮気現場を目の当たりにした男は、リーディの顔面をウィスキー瓶で何度も殴打し、割れた瓶で腹部を複数回刺した。男はその場で現行犯逮捕され、リーディは顔面の複数箇所を骨折する大怪我と腹部の多量出血で緊急入院となった。
 僕はそれをボキー経由で知った。夜中にボキーが電話をかけてきて教えてくれたのだ。それを聞いた僕は急いで病院に向かった。受付で事情をうまく誤魔化して、彼がいる病室に通してもらった。向かった先の廊下では、項垂れている同世代の女がいた。彼女に話しかけると最初は動揺して何も話さなかったが、「僕はリーディの古い友人だ」と言うと少し落ち着いた様子を見せた。彼女はリーディが殴られた現場にいたガールフレンドだった。
 彼女の肩は大きく震えていて、涙が廊下の上にいくつもこぼれていた。辛いとは思うが事情を訊かせてほしいと僕が言うと、彼女はその真っ赤な目で僕をひとしきり睨んだあと、椅子に座り直してもう一度項垂れた。そして、震えた声で起こったことを話した。
「リーはわたしを庇ったの」、彼女はさらに大きな涙をこぼした。「ディール(どうやらリーディを殴ったボーイフレンドらしい)は、バーに入ってきてわたしたちを見るなり、カウンターにあった瓶を手に取ってわたしを殴ろうとした」
「どうして君に対してだとわかった?」
「わたしはディールに背を向けていた」
「リーディがその男の来る方向を見てたんだな」、僕は大きくため息をついた。椅子がぎしぎしと鳴り響いた。病院の廊下ではいやに冷たく聞こえた。
「こんなこと、するべきじゃなかった」、彼女は大きく首を振った。いくつかの涙の粒が僕の左膝を濡らした。「いつかはこんなことになるって、わかっていたのに。何もできなかった…ただリーが殴られるのをわたしは怖くてずっと泣き叫んでいた」
「僕にこんなことを言う権利があるかわからないけど」、僕は椅子から立って彼女の前にしゃがみ込み、彼女の目を捉えた。「今後悔したってリーディの潰れた顔面が戻るわけじゃないし、君と誰かさんとのあいだが元通りになるわけじゃない。するべきではないと気づいたところで止めるべきだった。それを君はしなかった、君もリーディも、あるいは瓶を持った男も。僕は結構残酷なことを言っていると思う、その自覚だってある」、僕は大きく息を吸って、一拍置いてから吐いた。「でも、これだけは言いたいんだ。今後いっさいリーディに関わらないでくれ。僕らのためにも、君のためにも。じゃなきゃ、次は僕が君とリーディを殴り殺さなくてはならなくなる」
 そのときに僕は無意識のうちに彼女、あるいは彼女を含んだ彼ら全員に腹を立てていた。吐いた言葉は強迫じみていたし、それをあえて訂正しようとも覆い隠そうともしなかった。僕はひどく憤慨していた。あの美しかったものが誰かに台無しにされるだけでなく、本人の手でなされることに、僕はもう我慢ならなかった。
 前期のセメスターが終わるころ、リーディは何とか大きな後遺症もなく退院した。それまで僕は時間を見つけては彼の病室に通っていた。僕以外に誰一人として彼を訪れなかった。あの不良グループも、多くのガールフレンドたちも、イリィさえも。彼はベッドに臥せながら別に構わないと言った。表情は多くが包帯に覆われていたからわからなかったが、そのくぐもった声はすでに以前の明るさを失っていた。「おれも変わらなくちゃいけない」
「変わる必要はない。元に戻ろうとすれば良いんだ。斜め前に出した足を、元に位置に引くんだ」
「そう簡単にはいかない、ジャン」、彼は抑揚のない声で言った。「変わってしまったんだよ、すでに。そこから元に戻るだなんて、机上の空論でしかない。せめて理論上は、と言うべきだ。おれはすでに斜め前に足を踏み出したんだ。だから次に俺がすべきは、いくら歩数を重ねたって良いから、何とかして足がまっすぐに向くようにすることだ」
 退院したリーディは長かったブロンドの髪を短く刈り込み、ダーク・ブラウンに染めた。ジムとプールに通って身体を鍛えはじめ、不健康そうな顔はどんどんとハリと明るさを増し、健康的に引き締まっていった。目は深く落ちくぼみ、眉間の上の筋肉が盛り上がり、頬骨が張って目立つようになった。ほとんど中毒となっていた酒と煙草を止めるのには苦労したが、数年ののちに克服した。バーに通うのも止め、女子との交際をいっさい止めて拒絶した。
「おれはもう何かのシンボルになりたくない」、彼は『シネマ・ハリウッド』で流れるクレジットを観ながら言った。たしかブラッド・ピット主演の映画だったが、題名は忘れてしまった。「あいつらと一緒にいるとき、その反社会的な行為自体に意味があると思った。煙草を吸って、酒を飲んで、他人を尽く侮蔑して。盗みもやったし、無免許で車も乗った。飲酒運転なんか何度やったかわからないし、何度も人を殴った。それでもおれらは最高にクールだと思っていた。おれらは若者の不満の代弁者で、反社会的なシンボルだ、と言わんばかりに」
「それを心から信じていたのか?」、僕はスクリーンを観ながら言った。
「あのときはね」、彼は鼻で大きく笑った。「ああいう行為は、というより、グループでいると、まるで自分がタフにでもなったような気分になるんだ。あいつら、いつもナイフを隠し持っているんだ。大学生とか後輩からも巻き上げていたみたいだ。おれも一度だけした。くそほどつまらなかった」
「だろうな」、僕はあごを引いて少し息を吐いた。
「この前観た『レオン』で言っていただろう? 初心者は遠距離のライフルだって。ターゲットと距離が取れるからな。熟練者になるほど近づいていくんだ。だからナイフは確実に相手を殺せるプロがようやく持てる武器なんだ。おれらは何も知らなかった。ナイフを持っていれば自分がセガールにでもなった気分になれたんだな。ある種の幸福のなかにいた」
「そうだろうな」、僕はふと彼のほうを見た。彼の目は何も見ていなかった。「僕が言えるのは、お前がそんな大馬鹿者になったのが悔しかったことだよ。イリィにしてもだけど。見るに堪えなかった。どうして類い希なる美しさを持つヤツばかりスポイルされていくんだ? どうして失ってはならない自分のエッセンスばかりを選んで台無しにしていくんだ? そんなことばかり考えたよ。実際にストレスで少し髪が薄くなったし、いささか生え際が後退した」
「それが二十前後の男女には当たり前なんだと思うね」、彼は僕のほうに首を向けた。「誰もお前みたいに大人びた感性を持っているわけじゃない。世間に殴られて殴られて手に入れる人間だっている」
「よくわからないよ」、僕は席を立ってホールから出て行った。
 イリィが僕らの前に姿を見せたのは、卒業の二ヶ月前だった。僕は就職先がすでに決定し、卒業論文を提出し終えて一息をついていた。リーディは単位不足で留年が避けられなかった。彼は教授への嫌みで論文を提出したが、もちろん受け取りを拒否された。大学図書館のある建物一階のラウンジで、彼の愚痴を延々と聞いているときに彼女が姿をみせた。
 彼女もまた元に戻ろうと努力していた。髪も以前ほどの艶がなくなっていたが、ブルネットに戻していた。メイクもずいぶん薄くなり、身なりも小綺麗になったが、肌の青白さと目のまわりの青あざのようなくまが長い間消えなかった。
「ごめんなさい」、彼女は口を開くとそう言った。
「なぁ、僕はそれになんて答えたら良い?」、リーディが答えようとしないので僕が答えた。
「それは」、彼女は眉を引きあげて今にも泣きそうな表情をし、言葉に詰まって全身を震わせた。
「悪かった、意地が悪い質問だった」と僕は椅子から立ち上がって彼女の前に立った。「イリィ、ここまで来てくれてありがとう。僕が言いたいのは、誰も君に『ここにいちゃいけない』、『ここから出て行け』だなんて言っていない、ってことだ。君たちがあいさつもなく勝手にどこかへふらりと行って、そしてボロボロになってまた帰ってきた。それだけだよ、それだけなんだ」
「ごめんなさい」、彼女はまたそう言ってついに泣き出した。僕は彼女を椅子に座らせて、リーディを見た。お前の言葉が必要だよ、とリーディに向けて小声で言った。彼の瞳は少し動揺したような様子を見せたが、すぐに光と熱が灯り、イリィに向き直って声をかけはじめた。それを見守ったあと、僕は彼らのもとから立ち去った。それが僕らの青春の一幕だった。
 僕が大学を卒業したのち、リーディとイリィは留年した。彼らは一度書類送検されたせいで就職活動にはとことん苦労したが、それでも彼らの更正を理解した会社が内定を出した。問題なく単位を獲得し、卒業論文を提出した。その一年間、彼らに何があったかは不明だが、彼らの卒業後に会ったときにはずいぶんと垢抜けて大人びていた。
 そして、彼らはその五年後に結婚し、その一年後に離婚した。

つづく

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