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災害とともに 4

寒い朝です。
そして、メマリーのおかげで良い睡眠が取れてきております( #●´艸`)

このPTSDのおかげで、ニュースを見ると吐き気がして日常生活に支障かまでるようになったので最近テレビは見ないようにしています。
なので、能登半島の状況がなかなかわからない。
わからないまま、発信することが良いのかわからないけど…誰が読むのか誰かのためになるのかわからないけど書かないといられない衝動もあるので書いてみる。

発災から1ケ月後の私たち家族は、避難先から一時的に市営住宅を借りてそこに住むことができるようになった。
それは、肩身の狭い思いをしていた私たちにとってとても開放された気分だった。
ただし、避難先から離れるということは何もかも失ってしまった私たちに物資が入りづらくなるということでもある。津波の影響がなくて、物資がさほど困らない人たちには良いかもしれないが全て失った私たちにはものすごく金銭的な負担が大きい。
少し、足を伸ばせば衣服などは買えるようになったからだ。
でも、一から買うなんて本当お金が大変。爪切りやら、耳かきやらいつもなら引き出しあけたら出てくるものが何もないのだから。

それはそれだが、その頃は住まいが確保できたことで私はヘルパーの仕事に専念できたこともひとつ。
環境の変化に戸惑いながらも、田舎きら街の生活になって年老いた祖母と子供たちはとても嬉しそう。
初めてのお使いじゃないけど、歩いて買い物に行けるからそれなりに楽しんでくれた。
それも、私には心の安定となった。
家族の笑顔が見れることは、何よりのこと。
私は、我が家の家族は失っていないことの安堵感や罪悪感が交互にやってくるようになるのだがこの時の記憶は微笑ましい。
やっと、ほっと一息つけたのだろう。
次男の3歳の誕生日を迎えた頃で、生きたことに感謝する日々だった。

そして、本格的に訪問介護事業を再開したころでもある。

まず、動けるヘルパーを確保し、また震災前に雇用を決めていた方に連絡を取ってもらい事業を再開するから来れるか確認。
原発の影響で、まだ避難しているヘルパーもいたから逐一連絡をとりつつ状況確認。
無理に帰ってこいなんて言えないから、気の済むまで避難できるようにまた戻ってきた時に困らないようにお互い連絡取れるようにしておいた。

既存の利用者の確認、避難した利用者の確認。すでに、自分の子供を探しに避難所周りをしていた私はどの利用者がどこの避難所にいるのかケアマネより先に把握していたので特に困らなかったが、本来なら発災からケアマネが動き避難所の確認が必要である。

実際、避難所で確認にきたケアマネとも情報交換していた。
なんなら、被害のひどい私が発災当日からずっと動いていたことをケアマネさんたちが知り、いっぱい労ってもらったことを思い出す笑
みんなで泣きながら抱き合って、情報交換したなぁ🤭

あやや、吐き気が…。

訪問介護サービス提供責任者のやったこと。
発災から1ケ月
1.動けるヘルパーの確保。
2.被災したヘルパーとの、情報交換(負担にならないように生活状況を聞く程度で良い)
3.避難してる利用者の状況確認(ケアマネとの連携を含む)
4.避難していない利用者の状況確認(ケアマネとの連携を含む)
5.そして、一番大事なことは一緒に動いてくれてるヘルパーやスタッフの心と体が大丈夫かどうか言葉を交わし合うこと。

どうかみなさん、言葉を交わし合いましょう。
苦しい、辛いは言って良い👍

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