Kaori at Bali

バリ島で暮らして20年余り。日本では記者、報道映像翻訳、通訳。バリでは、日本語日刊紙の…

Kaori at Bali

バリ島で暮らして20年余り。日本では記者、報道映像翻訳、通訳。バリでは、日本語日刊紙の記者、翻訳、会議通訳などをしていましたが、パーキンソン病になってリタイヤ。クラシックからクラブ系まで音楽大好き。インドネシア人の夫、息子と3人暮らし。NYからの帰国子女。

最近の記事

第10話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「マディソン・スクエアー・ガーデンを体験!」

どこにいても、特に若い子の中に入ると自分が極端に小さく感じた。いつも15センチのヒールを履いていたが、それでも十分ではなかった。体の大きさにこれほど心が左右されるなんて、まるで野生動物だと思った。 家に戻ると、ラジオを聞きながら、毎日、ほぼ明け方まで勉強した。私のお気に入りのラジオ番組はトップ40。そのうち、DJの英語が分かるようになった。気に入った歌があればアルバムを買って、歌詞を読んだ。辞書を片手に読んだ。歌詞の英語はどんどん頭に入ってきた。 ある時、日本で言えば、東

    • 第9話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「言いたいことが言えない」

      何が辛かったのかを端的に表すとすれば、相手の言っていることをきちんと理解しているかどうか分からない、自分が口に出したいことは100分の1も出せない、だった。「傷ついた。悲しい」さえも言えなかった。英語ができないと言うより、内弁慶の性格のせい。それに言語の壁が追い打ちをかけた。腹が立っても、悲しくても、感情を心の奥に押し込んで、平気な振りをしていた。 ある雪の積もった日の夕方、近所の小学生の男の子が私に雪玉を思いっきり投げつけた。雪玉は私の一歩手前に落ちた。私がアジア系だから

      • 第8話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ギター少女」

         ギター少女、マルニーのことは、初めて見たときから惹かれた。あんな男っぽい女子は初めてだった。もちろんメイクや装身具とも縁がない。我が道を行くという態度を無理なく堂々としかもごく自然に見せていた。かっこいいと思った。休み時間はいつも彼女を中心に人の輪ができていた。が、おしゃべりに加わるのではなく、その雰囲気に合わせた歌をギターに乗せて歌っていた。ある日、私は勇気を出して、恐る恐るその中に座った。すると「Hi, Kaori」と彼女が笑みを浮かべて言った。名前を憶えていたことが嬉

        • 第7話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ヒスパニック系の女子たち」

          何が何でも英語が話せるようになるぞ、と心に決めた私は、日本人女子とは距離を置いていた。そんな一人でポツンとしている私に声をかけてくれたのは、ヒスパニック系だった。7,8人のグループで、コロンビア、プエルトリコ、メキシコなどの出身。会話は大抵英語だったが、スペイン語で勢いよく話すこともあった。「ラテンは明るい」彼女たちを見ていてつくづく思った。日本人であんな人たちはテレビの中にしかいない。 彼女たちの中で、ギリシャの彫刻のような顔立ちをした女子がいた。メキシコからの移民で、英

        第10話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「マディソン・スクエアー・ガーデンを体験!」

        • 第9話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「言いたいことが言えない」

        • 第8話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ギター少女」

        • 第7話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ヒスパニック系の女子たち」

          第6話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ほとんど分からなかった授業」

          授業の内容を十分理解するには2年近くかかったと思う。理解したことでようやく質問や発言ができるようになって、教室に座っていることに意味が感じられるようになった。 好きな科目は特になかったが、物理に力を注いだ。文章が比較的簡単で、第1章はメートル法だったから。担当教師はしかめっ面をしたシスターだったが、いつもゆっくり話すので助かった。 生徒たちはメートル法で苦戦していた。「実生活で使わないのに何で覚えなければならないの?」と。これほど分かり易くて、覚えやすいのに、アメリカでは

          第6話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「ほとんど分からなかった授業」

          第5話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「カフェテリアとタレントショー」

          学校の地下にはカフェテリアがあって、昼食はそこで食べた。ケースの中に、マカロニチーズ、ラザニア、バゲットサンドなどが並んでいて、レジまで運んで各自お金を払う。飲み物はホットチョコレートが人気だった。ソフトドリンク類は自動販売機で買う。この頃、アメリカではすでにダイエットコーラが一般的だった。アメリカ人はこんなまずいものをよく飲めると思った。 後ろの壁には、アメリカの青春映画などで見かけるジュークボックスが置いてあって、中にはあのドーナッツ版と言われていたレコードがたくさん

          第5話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「カフェテリアとタレントショー」

          第4話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「皆、違う!」

          「今日は新しい生徒がいるので紹介しよう」マンハッタンのカトリック系女子高校での最初の日の朝、担任教師が言った。名前を呼ばれて立ち上がったのは3人。他の二人は、一人が東京出身の日本人女子。もう一人はスペイン語なまりの英語を話すヒスパニック系だった。 周りを見てまず感じたのは、人種、民族の違いからくるのだろうか、成長の度合いが個人個人で大きく異なること。背が高く、緑っぽい色の目をしていたジョイスは、ファッション雑誌からそのまま抜け出て来たような、おもわず見とれる落ち着いた大人

          第4話ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「皆、違う!」

          第3回ー初めて文章化するNYCで暮らして通学した6年間ー10代の少女が感じたこと「学校初日」

          入学した女子高には制服があった。茶色のブレザー、白のブラウスにグレイのスカート。月曜日から木曜日は制服で、最終日の金曜日はドレスアップデイとして私服がOKだった。 初日、一人で通学バスを乗り換えて学校の建物に入った。年配の女性が私を見ると “what is your name?” と聞いてきた。これは何とか理解できた。私はドキドキしながら“My name is Kaori”と答えた。私が生まれて初めてネイティブと交わした英語だった。 渡米前の中学校での英語の成績は10

          第3回ー初めて文章化するNYCで暮らして通学した6年間ー10代の少女が感じたこと「学校初日」

          第2回ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「新しい家と若い校長先生」

          1971年、勤めている商社のNY支店に赴任することになった父親について、私、母、5歳年下の弟は、当時住んでいた埼玉県蕨市を後にした。初めて乗る飛行機では、CAの一人が途中で着物に着かえた。そんな時代もあった。 食事はテンダーロインのステーキをベーコンで巻いたもの。映画は「猿の惑星」だった。今でもこの両者はよく覚えている。ジョン・F・ケネディ空港には夜に到着。NYの高層ビルが一番きれいに見えるという橋を渡ったとき、「ニューヨーク」に来たんだと実感した。 向かった先は、ブロ

          第2回ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「新しい家と若い校長先生」

          MY HERO, マイケル・J・フォックスを知っていますか?

          映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」などでお馴染みの世界的に有名なハリウッド俳優、マイケル・J・フォックスのこれまでの人生を綴ったドキュメンタリー「STILL」が今年の夏からストリーミングされる。小柄だけど、ハンサムで、確かな演技。彼の映画はほぼ全部見ている。 タイトルは静かな、じっとしているという意味だが、これは彼が私と同じPD(パーキンソン病)であるため、手足や頭の震えがコントールできないこと、そしてそれにもかかわらず行動し続けていることだと私は理解した。 29歳

          MY HERO, マイケル・J・フォックスを知っていますか?

          初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと・連載第1回

          私は13歳から19歳までをニューヨーク市で過ごした。今や海外長期滞在や移住は当たり前の時代。現在、私が20年以上住んでいるインドネシアのバリ島でもリタイヤ生活を送ったり、商売を営んだり、あるいは毎日サーフィン三昧の日を過ごしている日本人はたくさんいる。 でも50年前、日本人が家族で海外に住むのは、まだまだ珍しかった。50年前と聞いて、「なんだ俺の生まれる前の話じゃないか」と思った?まあ、そういわずに、ちょっとの間、付き合って欲しい。 日本はこの半世紀、大きな変化をとげた

          初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと・連載第1回

          映画の字幕スーパー作りに初挑戦 

            古い友人がプロデュースした、30分のドキュメンタリー映画「骨を返せ、魂を返せ」に英語の字幕を付ける仕事を依頼された。今から約90年前、京都帝国大学の研究者が、調査のためと称して26人の遺骨を琉球の墓から遺族の合意なしに持ち出した。これを返して欲しいと京大に求めている琉球の人たち ー 琉球遺骨返還請求訴訟全国連絡会 ー のこれまでの活動を綴ったもの。本土でも琉球でも世間の関心は決して高いとは言えない彼らの訴えを、海外に発信しようと世界の映画祭に出品することにした。   字幕

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          ニシキヘビ、コブラ…怖い、危険、気持ち悪い でもいつまでも身近にいて欲しい野生動物たち

          空港へ向けて車を走らせていたある雨の早朝、自宅から5分ほど行った所で、対向車線に1台のバイクが止まっていた。薄暗くてはっきりとは見えなかったが、バイクの前の路上に太いロープのようなものがあった。彼(彼女)がそのまま動かなかったことに、何か普通でないものを感じたらしく夫は車を止めた。するとロープが動き出した。立派に成長した大蛇だった。夫は「ヘビだ」と一言。私たち3人が見守る中、それはゆっくりと道路を渡り終えると雑草に覆われた溝の中に消えた。  ある日、隣人から「天井裏

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          ウミガメに癒される 絶滅の危機に瀕したウミガメの保全活動をおこなっているバリ島サヌールの施設にて

            晴れ上がった日曜日の朝、自転車でサヌールビーチに行った。 まだ7時というのに、海水浴を楽しんだり、朝食のナシクニン (ご飯をウコンやココナッツ・ミルクと一緒に蒸したものに野菜や肉の おかずを添えたもの)を食べる人たちでごった返していた。 近所で米粉を使ったバリの伝統菓子を買うつもりで家を出たので、所持金は10,000ルピア(100円)だけ。それが10,000 ルピアの炭火焼きトウモロコシに変わった。   バリ人の朝は早い。海水浴はまだ薄暗い朝の5時からで、日の出を 見な

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          コモドドラゴン?バリ島の自宅前のどぶ川で見つけたオオトカゲの話

           家の周りを流れるどぶ川(写真下)に近づくとパチャッと  水の跳ねる音がして、何かが奥に隠れた。前の田んぼから 流れてきたカエル?小魚?それよりずっと大きそうだ。 何かがじっと隠れている。警戒心がかなり強そうなものが。  晴天続きでどぶ川が干上がったとき、底の砂地に、 それが残したと思われる跡がついていた。1メートルは ありそうだ。真ん中に腹を擦った跡、その脇には爪痕が 深く残っていた。  「姿を見せて、何もしないから」。 ある時、2階のバルコニーから何気なくガレージを

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          バリ島に来たら一度は経験して欲しいこと:サーフィンと東海岸の「バージンビーチ」に身も心も預けて

            バリ島で楽しむスポーツと言えば、そう、サーフィンだ。 オリンピック競技にも仲間入りするなど、日本人にとっても 身近になったと思う。そのサーフィンに挑戦した。でも、 元気だった10年前のこと。当時、記事を書いていた 日本語日刊紙の取材を兼ねて、バリ在住の日本人 インスラクターの指導のもと、インド洋に面したレギャンビーチで 生まれて初めてサーフボードを抱えて海に入った。  インド洋は引く力が強い。一見穏やかに見えるが、腰までの 深さになると完全に水の力に負けて、前には進めな

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