「文学少女」きらら作品をガチ構想する(描きたい人ゆる募集中)

 本記事は、東京大学きらら同好会 Advent Calendar 2023の20日目の記事です。

 昨日19日目の担当は500mLさんの「へるしーへありーすけありー 4話感想」でした。
 記事名がリンクになっています。

 翌日21日目はエクトぷらずまさんによる「『きらきら☆スタディー~絶対合格宣言~』に登場する国際数学五輪 (IMO) の問題について」です。


それでは以下本文です。




 きらら作品には特定の分野を推していく作品が多くある。

『星屑テレパス』のロケット工学
『ぼっち・ざ・ろっく!』のバンド
『ゆるキャン△』のキャンプ
『スローループ』の釣り
『恋する小惑星』の地学
『幸せ鳥見んぐ』のバードウォッチング
『紡ぐ乙女と大正の月』の大正史
『薪窯のパンドラ』のパン作り
……

というように近年のきらら作品では専門知識を活用した作品が目立つ。
『たくあかっ!』の税理はいよいよかというテーマである。
『てくてくっ! 秘密リサーチ』も人文学的なフィールドワークの香りが微かに漂う(この手の分野に詳しくないのでそれっぽい表現で茶を濁した)。
『追放令嬢は技能実習生になりました』という作品の1話目が「きららMAX」2024年1月号に掲載されたが、これまた新しく農業がテーマになっているようである(私が過去の事例を知らないだけかもしれないが)。

 この種の作品はまだ増えていくだろう。私の連想だと偏ってしまうが、他には何が残っているだろうか。

法学、マーケティング、考古学、数学、化学、医学、薬学、林業、国際開発、言語学、文学、図書館学……

そういえば「文学少女」という王道(?)ネタはやってないのでは?

 さてこの記事の筆者は、文学作品を研究したり執筆したりしている。なので文学というものに対して愛憎あり、冷めた眼差しを向けたりもする。私に魔が差した。

 文学少女というゆるふわ概念ブチ壊したいな………

不意に、世間に流布する文学少女なるゆるふわ理想主義を破壊したくなった(私のリアリズムが過剰なのは否定しない)。
 そんな意思を頭の片隅に、「文学」をテーマにしたきらら作品を構想してみた結果を報告したい。


きらら要素のない前書き

 「純文学」なる日本語のせいで、「文学少女」と聞くと、何か澄んだ心のようなイメージが浮かびがちだ(あくまで筆者の場合)。しかしそうなのだろうか? 倫理観の高い読者、複雑な心理を解する繊細な感性を持つ読者、………そういう若い読者も沢山いるだろうし、殊勝なことである。この記事で挑発する「文学少女」は、そのような「実在する若い読者」ではない。別段読書をしない人間が勝手に連想しているイデアとしての「文学少女」、単純素朴な心の持ち主であり現実よりも本の世界が好きだというイメージが塗り付けられた実在しないイデアとしての「文学少女」である。
 文学に含められる物語では、少なくない作品で、心理的葛藤が爆発して誰かが死ぬ。心理的葛藤が言語化できないから死ぬのである。あるいは死まで進まずとも破滅までは書かれていることが多い。
 そんな物語を好む人間が単純素朴なわけがない。そんな悲劇を楽しむ心理を、世間の文学少女イデアは包含しているのだろうか? あるいは世間のイデアは「感傷的な若者」を想定しているのであろうか? 
(以下に色々続けようとしたが面倒なのでカットした)

 然るべき作品が示すリアリズムには、空想世界でありながら、現実を視ているはずの自分よりも鋭く現実を直視させるものもある。そういう作品を読む時、私の場合は物語世界など見ておらず、現実の人間しか考えていない。
 きらら作品でもそうである。『ステラのまほう』終盤や『さよなら幽霊ちゃん』には、最早きらら世界に安居していられない人間の生々しさがある。「きららオタク」も最近はゆるかわ日常世界を求めているばかりではない。芸術的質の高い倫理的なきらら作品も増えてきた。
 
 長くなったが要するに、魔が差した私は「単純素朴な読者」という虚像の解体を願ったのである。
 そのような歪んだ感情の一方で、きらら作品として「文学少女」を扱うとしたらどんな作品になるだろうか? という単純素朴な妄念も甦り、文学少女イデア解体きらら作品が浮かんだ。
 物語の起承転結を一行で言えばこうである。

 文学少女が三十路を迎えて文学博士号を取る

「文学少女」という世間の夢を突き詰めればそうなるのではないか?
 「三十路」というのは単純なリアリズムである。飛び級制度が乏しい日本で博士号を取るには、四捨五入して30歳以上になる年齢を超える必要がある。(高度な制度ハックもあるのかもしれないが筆者は存じ上げない)

 さて既に満足しかけているあなた、ちょっと待って欲しい。
 私が文学部に生息しているからと言って、マンガ形式で自分語りでもするのかと思ったなら心外である。私は私小説が大嫌いだ。
 最近は「内面」とか「良心」から距離を置いて、文学テキストを情報学的に処理するということも始めた始末である。見る人が見れば文学愛のカケラもないという話になりそうである(情報学に立ち入ったのは、文学上の確信あってのことであるが)。

 それと現代の東京大学を考えて欲しい。今の東大生には「教養」より「傾向と対策」の方が馴染み深い言葉である。(←怒られが怖い)

 私はあくまでも売れるコンテンツの傾向と対策から外れないように、古典文学という長寿コンテンツを扱うきらら作品として「文学少女」きらら作品を構想する。

きらら作品の「傾向と対策」

とはいえ「売れたコンテンツ」の「傾向」は情報学的に決まっている。売れるのは「最低限の質があって運に恵まれた作品」である。深くは論じないが、異を唱える前にダンカン・ワッツの『偶然の科学』という書籍を参照して欲しい(青木創訳、早川書房、2014年)。
 もう少し具体的な傾向論として、キャラデザと絵も大きなテーマであるが、これは私には議論できない。プロットについて言えば、昨今は広義のゆる百合(必ずしも明確な恋愛描写があるとは限らないが親密な関係性も含む)とコミカルな掛け合いは需要が高そうである。
 また私個人の感覚として、長期連載のきらら作品は登場人物が多彩であることが多い。ちなみにこの「長期連載の人気作の傾向」は「運に恵まれるための対策」に関わってくる。
 少し考えて欲しい。くじ引きで当たりを引く正攻法はなんだろうか?
 勿論、引く数を増やすことである。
 コンテンツ多寡の現代では、広告を打った直後が瞬間最大風速になる。広告を打たなければ作品は認知されずに忘れられていく。しかし打てる広告数にも条件がある。この辺は宣伝活動を頑張ったことのある人なら分かると思うが、理由もなく同じネタで宣伝を打つのは精神的に相当疲れる。何度打っても反応は小さくなっていくし、しつこいとファンにも愛想を尽かされるかもしれないという不安もある。結局は広告を打つ理由が、新しい話を供給し続けることが重要なのである。そうでなくても主従の主は作品であって宣伝ではない。だから長期連載なのだ。長期連載という形であれば、最新話の度に宣伝が打てて、作品が認知される可能性が得られる。短編を連作するより労力もかからない。時間がかかるので中身も深めやすい。
 他にプロット構想の段階で打てる対策としてキャラづくりがある。恐らくは、主要キャラを5人程度に絞り込みつつ、モブキャラをゼロに近づけ、キャラ数を豊かにするのも有効ではないだろうか。
 ……こう書くとキャラを記号扱いしているようで嫌な感じだが、実際に必要なのはキャラクターへの博愛である。必要になって登場させたキャラにちゃんと名前を付け、性格と言動の整合性を取れば数は保てる。
(キャラが少ない長期連載でも売れている作品はあるが、それはもう複合要素からなる才能なので再現性も乏しいし、ここでは分析しない)

『読みごとしらず』を夢想する

 タイトルは『読みごとしらず』とした。主人公は「読むということ」(=文学)を最初は識らないのである。

 さて私がやりたいこととして、一話目でゆるふわ文学少女イデアを木っ端微塵に打ち砕く。これをきらら化する単純な解決策はキャラクター二人に喋らせることである。

 Aちゃん、Bちゃんを用意した。(名前は作家さんに最終決定を委ねたい)

Aちゃん

 高校二年の終わる春休みまで地方都市のチェーンカフェでバイトをしていた帰宅部員。
 親の本棚のミステリー小説と、平成のニ時間サスペンスドラマで育った。
 高校入学時は「本を読んでいれば人も寄って来て友達ができるだろう」という古臭い発想で本ばかり読んでいたら文学少女と誤解され、SNSで盛り上がる周囲に敬遠されてぼっちな高校生活になった(バイト先のSNSアカウントは一応持ってる)。
 職場のカフェでは毎週の常連客である「本物の文学少女」(と思い込んでいる)Bちゃんに一種の憧れを抱いている。
 受験を控えてカフェ店員の退職も決まっているが特に学びたいことはない。
 推理作品は、犯人とトリックが長年の勘で大体分かる。

Bちゃん

 行きつけの喫茶店で本にコーヒーをこぼされた文学少女。
 手は熱かったが店員(Aちゃん)の方が動揺しているので大丈夫ですかと気遣ってみた。
 ぼっちなAちゃんが毎週一人で来店する自分に勝手に共感と憧憬を寄せていたのには気づいていた。
 身内に文学研究者がいる。
 趣味ではないが、やめられない時間の使い方は本物の犯罪者の心理考察。

1話のあらすじ

 高2が終わる春休み。Aちゃんが受験勉強のモチベーションを高めようと『緋色の研究』を英語で読んで(挫折し)徹夜した翌日。呆然と「受験生になっちゃう。これまで青春できなかったけど、もうできないだろう」といったことを嘆きながら週末のバイト先でコーヒーを運んでいたら、徹夜が祟って窓際の「本物の文学少女」(Bちゃん)の本にコーヒーをこぼしてしまう。
 Aちゃんがテンパっているので落ち着けようと逆に気遣うBちゃん。
 Aちゃんは話の流れでBちゃんに羨望の眼差しを向けながら「どんな本を読んでるんですか?」と尋ねる。
 Bちゃんが本のタイトルを見せながら『緋文字』と答えると、Aちゃんが推理小説だろうと早とちりする。
 Aちゃんが徹夜で挑んだ『緋色の研究』は古典的推理小説であるシャーロック・ホームズシリーズの一作である。ここまで来ると英文学史の中でも名前が出てくる。アーサー・コナン・ドイルという著者名も、見た目が子供の名探偵のおかげで聞いたことがあるのではないだろうか。
 Bちゃんが読んでいた『緋文字』は1850年に出版された米文学作品である。ナサニエル・ホーソーンという著者の名前は聞き馴染みがないかもしれないが、Bちゃんは身内に文学研究者がいるので、そういう本も家の本棚にあったということにしておく。
 文献学者の間でも、いつの間にか「最初の下調べ程度には使える」という認識に代わったWikipediaであるが、『緋文字』の記事を見てみると、以下のようなあらすじが記載されている。

17世紀のニューイングランド(主にボストン)のピューリタン社会を舞台に、姦通の罪を犯した後に出産し、その父親の名を明かすことを拒み、悔恨と尊厳の内に新しい人生を打ち建てようと努力する女性ヘスター・プリンの物語を描いている。

緋文字 - Wikipedia(2023年12月16日閲覧)

『緋文字』は推理小説ではない。しかし『緋色の研究』と名前は似ている。推理小説しか識らないAちゃんが、タイトル情報だけから『緋文字』をダイイングメッセージのミステリー小説だと早とちりしても不思議ではない。

 Aちゃんが『緋文字』の本を見て「推理小説ですね!」と勘違いを口にするので、Bちゃんは「(こいつは『緋文字』もホーソーンも知らないな)」と判断。ここから「文学少女」の解体が始まる。
 Bちゃんは言う。「先週はミステリー(ドストエフスキー)だったが今日は姦通小説だ」
 Aちゃんはショックを受ける。
 Bちゃんは最初こそ気遣いのできる人間に見えるが、実際は辛辣で嫌な(歪んだ)ヤツである。『緋文字』を姦通小説と表現するのも不適切なのだが、Aちゃんと同じくらい何も知らないで上のあらすじを読むと「まあそうなのかもしれない」と思ってしまいかねない。そんな卑怯な表現であるが、Bちゃんは敢えてその表現を使うことで、Aちゃんが知らないのをいいことに、「(コイツは文学のコミュニティには縁のない人間だろう)」となめて侮り、一人密かに(虚しくも)冷笑し、同時にAちゃんから心理的距離を確保しようとする。
(尤も『緋文字』を四コマ漫画の限られたセリフ文字数で扱うことが難儀な話なのであり、この辺の事情はコマ外に注釈を書くことになるであろう。)

 Aちゃんがショックを受けている前で、Bちゃんは「本当の文学好きは人間の生々しい汚さに精通しているものだ」という持論を主張し、「清純な心の文学少女などという概念はあり得ない、身も心も清楚な読書家の頭なんて薄っぺらいに決まってる」と悪態をつく。Bちゃんが過度に皮肉屋というのもあるが、Aちゃんの理想は玉砕する。
「推理小説に都合のいい心理で人を殺せるほど人間は単純じゃないだろ」
 そんなセリフでダメ押しされるも、Aちゃんも久し振りに沢山会話した同い年の学生ということで、Bちゃんが気になるのであった。

1巻のあらすじ

 辛辣な物言いをされたもののBちゃんが気になり、Aちゃんは受験勉強でバイトを辞めた後も喫茶店に行き、Bちゃんと週末に会うようになる。
 受験勉強の合間、Bちゃんが面倒くさそうにAちゃん好みの古典文学を模索しては提示していく。Aちゃんは親の本棚で培われた速読力で薦められた作品を読んでいく。
 Aちゃんの進路選択も変わってくる。なんとなく二時間サスペンスの影響で法学部を考えていたが、知的好奇心から文学部へ。大学は異なるが二人とも都内の大学に無事に進学。

全篇のあらすじ

 以降もAちゃん目線で話は進む。大学に入ってからキャラが増えたり、Bちゃんが病んだりする他、二人ともT大学の大学院に進んで合流したり、Bちゃんは作家としてデビューしたりする。Aちゃんは(幸運に恵まれて)順当に文学研究者の道を進む。
 物語の後半でBちゃんの親族が昔遭った事件の種明かし(Bちゃんの病みにも繋がっていた話。1話目のドストエフスキーの伏線回収)。最終盤に至ると、AちゃんとBちゃんの長年の付き合いから得意なことが逆転。ミステリ古参のAちゃんが、Bちゃんの親族に降り掛かった事件のトリックを見誤るも、Bちゃんは見抜く。逆にBちゃんは犯行動機を見誤るが、Aちゃんは理解する。
 Bちゃんの過去の因縁も精算され、Aちゃんは文学で博士号を取得。Bちゃんは作家業は続けているが、博士号は……とりあえず今は保留にしておく。

 そのような大枠の中で、文学部の学生が体験しそうなこと、できるだけ広く人文学の話題も(人文情報学を含めて)取り入れつつ、AちゃんBちゃんの二人と周辺人物の成長を描き、主人公が博士号を取得することを検討した結果、雑な構想のために14巻168話の表が生まれた。
 ………さすがに長期連載でも、『NEW GAME!』で13巻なのを考えると現実的ではない。そもそも売れなきゃ打ち切りになるということも考慮しておく必要がある(勿論、表は現在スカスカなので、ちゃんと練れば短縮できるだろうが)。

ゆる募集要項

 「ゆる募集」というのは勿論、半ば冗談だからである。
 この記事を出した翌日に誰かが応募してきて、翌々日からその人と作品を練っていくというスピード感は私には無い。とはいえ全くつまらない話でもないと思うので企画そのものは育てたいという筆者の微妙な心理の表れである。
 一応最終盤までの大筋を用意しているので丸投げという関わり方はしたくないが、筆者のプロット準備・文献渉猟は全く足りていない。従って超長期プロジェクトで、飯の種にもならない時間投資、実質趣味のサークル活動という形であるが興味があるという奇特な御人(おひと)がいれば……というニュアンスを含ませての「ゆる募」である。(そんな奇特な人はいないと思うが)条件は二つである。

・絵をお描きになる
・文学と付き合える

文学をテーマにした作品なので、やはり各話で文学作品1つを取り上げるくらいは目標にしたい。ただし作品を一つ読むだけでは文学研究者からの視線も気になるので、作品一つ毎に論文3本くらいのネタも欲しい。そこまでやったら作家さんも、AちゃんBちゃんと同じタイミングで修士課程に飛び込めそうな話である。
 勿論、毎月長編小説を読もうということではない。長編は12話(1巻)辺り二作品が限度だろう。当然に短篇小説、戯曲、短詩なども扱いたいし、図書館や人文情報学、史学などなど、人文学全般も物語のタネにできる。
 そうしたことを踏まえてご興味を持ってくださった人が万が一いらっしゃれば、この記事にコメントください。

(色々とツッコミどころが多い記事だったと思いますが、ネタ記事として何卒ご容赦願います)

参考文献

・Friedlich Schiller: Über naive und sentimentalische Dichtung(『素朴文学と情感文学について』). 1795.
・ダンカン・ワッツ、青木創訳『偶然の科学』、早川書房、2014年。
・Arthur Conan Doyle: A Study in Scarlet(『緋色の研究』). 1887.
・Nathaniel Hawthorne: Scarlet Letter(『緋文字』). 1850.
・「緋文字」(2023年2月13日 (月) 09:08 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』(URL https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8B%E6%96%87%E5%AD%97)


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