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物を減らしてもミニマリストにはなれなかった話

私は2020年のステイホーム期間に所有物を2/3減らしました。
ずっと家にいると今まで見えていなかった要らないものを、いやでも目にしてしまうんですよね。その時はちょうど仕事が忙しい時期だったので、余計に家が荒んでいたのもあると思います。
そこからお金の勉強もし、さらに物を減らすことに拍車がかかりました。
そして数年経った今、確かにものは減りました。しかしSNSのようなミニマリストや、お金を貯めて充実した生活は起きていません。正確に言えば多少は変わったけど、みんなにおすすめしたいかと言えば「好きにすれば?」と言う感じです。
これは私だけなのか…?そんなことを思ってしまう30代の偏屈な主婦目線で書いてみました。


何もしたくないならものを減らすことが一番

まずは、メリットから。
私はできるなら一日何もしたくない生粋の怠け者です。家の外を出たらちょっとは頑張りますが、家では本を読み空想に耽っていたい人間です。なので、家で何もしない時間は至福の時間です。ものの管理をしなくなり、人生の幸せ度は上がりました。

例えば、食器が数枚減ると、食器棚が小さくなります。食器棚が小さくなると、食器棚をなくしてみようとなります。そして食器棚がなくなったら、空間ができ掃除がしやすくなります。また所有物のほとんどを占めていた服は500→60着まで減らしました。これなら衣替えも必要ありません。
このように私のような怠け者には、ものを減らすメリットはかなりあると思います。

ものと向き合うと精神的にも体力的にもやられる

ものを減らせば幸せ度は上がります。しかし、です。
ものと向き合うことは、過去の自分と向き合うことであり、それは並々ならぬ精神と体力と時間が必要になります。ものを減らす作業を侮ってはいけません。

奥のものを久しぶりに見つける→そういえばあったな、と思い出す→使ってみようと思うが、必要ではないので大して使わない→やっぱり手放そうと思う(この段階で数日経っている)→手放す方法を渋々調べる→捨てるよりかは売ったほうがいいかな、と思い始める→頑張ってメルカリに出すも全然売れない→じゃあ、まとめてリサイクルショップに送ろうと思う(見つけた時から1ヶ月くらい経っている)→査定結果は数十円、もしくは0円のこともある→もういいやとヤケクソになる→え、まだ始めたばかりやんと、家にある不用品を背後に感じる→なんで世に必要とされないものを買ってしまったのだろう→過去の自分を呪う→それでもものは減らないから、奥のものを引っ張り出す→最初に戻る。
これの永遠のループです。

はっきり言って割と地獄。
めちゃくちゃ暇な人か、本気で人生変えたい人しかできない修行だと思っています。(私は前者です)

お金貯まるどころかむしろマイナスが続く

SNSにはものを減らしてお金が貯った、という言葉を見かけますが、私はそんなことありませんでした。

私は食器棚をなくしました。腰の高さほどの小さな棚でしたが、ブランド品ではない水がこぼれてふやふやした古びた棚です。無論、そんなもの誰も欲しくありません。すでに食器を減らす段階で相当メンタルはやられているので、無料で引き取ってもらえるサービス(ジモティーなど)を使う余力も残っていません。そして手放す方法で一番手っ取り早いのは、捨てることです。私でも捨てることはぎりぎり出来そうだったので、粗大ゴミとして捨てることにしました。自治体にもよりますが、捨てるのに500円かかりました。
そんなことが何十回と続きました。
総額いくらになったかは思い出せません…。確かに気力があるなら売る方法を考えれば良いです。しかし怠け者の私には高度テクニック過ぎました。ものは減るけど、お金も減る。そんな人もいます。

余白ができたら埋めたくなるのが人間

「でも、ものを減らすのにお金がかかっても、要らないものを買わなくなるんじゃない?」と思われるかもしれません。
そう言う人もいると思いますが、元々ものを買い溜めてしまう人間が修行一つでそこまで達観できません。残念ながら、数十年間蓄積された癖とは付き合っていくしかないのです。

減らしたのにまた余計なものを買ってしまい後悔する。
何度も何度もします。今でもたまにします。そんな時は「またやってもた〜」と手放します。その繰り返しです。
たぶん人間なんてそんなものです。「なんでまたした?」を繰り返す生き物なのです。ちょっとずつ学んで自分を知っていくのも、道のりが長い修行だと思っています。

新しい絶望を知る

道のりの長い修行も同時にすると、絶対に欲しいものしか買いたくなくなります。「またあんな思いをするぐらいなら、ないほうがマシ」と思うようになるからです。大体の場合、買うか悩んで買わなくなります。
この結果だけを見て「そんなふうになりたい」と思ってもらえるのは、修行をしている身からすると大変嬉しい褒め言葉です。しかし、この結果は、手放した数々のものたちの犠牲の上に成り立っている行為なのです。

ものを減らして数年が経った頃、あるショッピングセンターに行きました。
仕事の休みの日はショッピングが好きだったので、その日も気分転換でふらっと立ち寄りました。そんなウキウキ気分だった私は、感じたこのない絶望を感じました。「私の欲しいものが何一つない…」こんなにたくさん魅力的なお店があるのに、欲しいものが何もなかったのです。買ったのは本当に必要なトイレットペーパーのみ。大きな資本主義という枠組みから、ぽいっと外に出されたように感じました。

結果:世間に馴染めなくなる

世間では当たり前にあるものも、私にとって不要であればポイポイ捨ててしまいます。前述の食器棚しかり、メイク用品も、ガスコンロも、服や靴も、世間の30代が持っているものは揃っていません。夫も修行の道連れになってしまったので、私たち夫婦は何も困っていませんが、友人が泊まりにきた時に「…」と驚かれることはしばしばあります。

またショッピングセンターに行っても「あんな思いをするぐらいなら…」センサーが作動してしまうので、心から楽しめなくなります。
買い物するより美術館にいこう→美術館に行きたい友人が周りにいない→一人で行く→たまに友人と会っても話が合わなくなる→一人で本を読み空想に耽る→本を買うのも躊躇するので図書館に通う→気分転換したくなる→最初に戻る。
世間に馴染めなくなるということは、友人とも話が合わなくなることとほぼ同義です。資本主義には辛い現実です。

しかし、夫のような身近な家族には理解してもらえているので、私の場合はこの生活を楽しんでいます。夫は私にとって親友、兄、子供、彼氏の役割です。しかも、長野でこんなに気ままに暮らしていたら、なんとお友達もできちゃいました。嬉しい。多分友人も「変な人やな〜」と思っていると思いますが、まぁ笑って暮らせるなら何よりです。

私は形あるものはいずれなくなり、死ぬ時には何もあの世に持っていけないと常々思っていますが、ものに執着している自分がいることも自覚しました。距離感て難しいな、と思いながら今からスーパーに行こうと思っています。


▼もの以外のことも、ポイポイ捨てている話です。


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