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不登校と自己肯定感 〜欲しいものは欲しいと言え!〜

中3の娘と小6の息子は不登校中。なんだかんだで早3年の月日が経過している。

その日々の中で、学校に復帰するより、何より先にしなくてはいけないことがあると気づいた。

「自分がこのままの自分で生きていて大丈夫だと思えること」。いわゆる『自己肯定感』を育てるということだ。

元々親である私自身の自己肯定感は、もうそれはそれは低いものだった(多分今でも)。地面スレスレで、その内めり込むかも知れない、程の低空飛行。
そんな私が育てた子供達の自己肯定感もまた、物凄い低空飛行状態だったと、子供達が不登校になってからようやく気がついた。

先日、私の両親と話していた時のこと。
両親は車で2〜30分の隣町に暮らしている。子供達の不登校に関しては、親族間で意見が割れると子供達が混乱したり、不用意に傷ついたりするかもしれないので、口出しせずただ、見守っていて欲しい。困った時は相談するから、とお願いしてある。
それを両親はちゃんと守ってくれている。とてもありがたいことだ。

その日も、子供達のことについて「もしあの子達が長く生きるとすれば、残りの人生はまだ70年とかあるし、焦らず行こうと思ってる」みたいな話をしていた。それを聞いていた母が一言。

「不登校って、一般的には大変そうなのに、あんたは全然大変そうに見えないね。こんな親なのに、あんたは昔からしっかりしてる子やもんな。」

…え。
そうなん?

いや、全然違うし。
いつもめっちゃ心の中ブレブレの荒れ荒れだし、毎度毎度失敗ばっかりで、全くもって、1ミリたりともしっかりなんかしてへんけど…。

おかしい。母と私の認識がズレまくっている。
しかも母は自分の事を「こんな親」とかって言ってしまってる。そこで、ふと気づいた。

もしや、母の自己肯定感も低かったのか。

学生時代の私は「優等生」だったと思う。先生の言うことも聞いて、苦手な勉強も必死でこなし、通っていた高校では常に、成績上位グループに入ってキープしていた。
でも、優雅に浮かぶ白鳥が水面下で足をバタつかせているように、いつも必死のパッチ状態。いつも必死で頑張っていたのは、正直言って、最初はただ褒めてもらいたかったから。なのに、数回いい成績を取った辺りから、周囲に「〇〇さんは勉強できるのね」と誤った認識をされてしまい、途中から「ええカッコ」を辞められなくなってしまっただけなのだ。そうなると、もはや地獄でしかない。
でも、いくら頑張っても、成績表を母はあまり褒めてくれなかった。テストが終わる度、期待してはがっかりしていた。

でももしかしたら、違っていたのか。
母と私の認識が違っていたのか。

そうか。きっと、母は「いつもちゃんとしていた私」を「信用」してくれていたのだ。しっかりしているのが当然だったから、褒める必要がなかったのかも知れない。母に悪気はなかったのだ。
ボタボタと、目から鱗が落ちた。

そして、私も子供達に全く同じことをしていたのだ。優等生の子供達。私の子供達は大丈夫ね、と。

頭に浮かぶ、ひとつのフレーズ。

『歴史は繰り返す。』

背筋がスウッと、寒くなる。
アカン、これは継承したら絶対アカンヤツや。
褒め方が下手な所まで、そっくりじゃないか。もしかしたら、母の親の代、いや、もしかするともっともっと前から、脈々と引き継がれていたのかも知れない。…怖い。

自分が出来ない事を、子供達に教えることは出来ない。自分にないものは、子供達に渡せない。渡せるものは、自分が経験したことだけなのだ。
負の遺産。誰も嬉しくならない。

アカン。私の代で、もう終わりにしなければ。
そんな大層な、と思われるかもしれないが、私にとっては一大事。
かくして私のミッションが誕生した。


『自己肯定感』についても、本やインターネットなど様々な情報を見てきた。そして当初は『自己肯定感は上げるべきもの』と思っていた。でも最近ちょっと違うかも、と思い始めた。

お気に入りのユーチューバーさんが、自己肯定感を深海魚に例えて話をしていた。

自己肯定感の高い魚は、そこにいればいい。でも、自己肯定感の低い深海魚を無理に引き上げちゃうと、目玉とか飛び出したり爆発しちゃうでしょう。だから、深海魚は無理してそこから出なくていいのよ。棲み分ければいいんだと思うよ。

なるほど、と思った。
『自己肯定感が低いことは、悪いこと』とすると、もうその時点で、自己肯定感の低い自分は良くないとジャッジしていることになる。それではずっと苦しいままだ。
それならいっその事、『自己肯定感が低くてもOK』としてしまえば、肩の力も抜けて、楽になる。
大事なのは『このままの自分にOKを出す』こと。
私はこの考えを採用することに決めた。

では、『このままの自分にOK』を出すには、どうすればいいのか。色々考えた結果、私は自分の心を「幼児」だと思うようにした。

元々精神年齢は低い方(中学生くらい?)だと思っていたが、先日四柱推命で調べてみると
「永遠の5歳児」とあった。

…そうか、私の中身はずっと5歳のままのか。大人じゃないんだ。それじゃあもう仕方がない(苦笑)

それならば。
例えば何か上手く出来ないと悩んで自己嫌悪に陥った時、自分が幼児だと思って考えてみた。

うわーん、積み木が上手く積めないよ〜!とバタバタしている。はいはい、上手く行かなくて駄々をこねているのね、悔しいね、と母のような大らかな気持ちで見ていられるし、大抵の事は許せる。
ずっと積み木をやりたければ、失敗しても何度でも積み直せばいいし、積み木が嫌になったのなら、他の遊びに切り替えればいい。

子供の頃は、「いくらでも失敗すればいい」と言われるのに、大人になった途端に、失敗を死ぬ程責められる。でも人間は結局失敗からしか学ばない。私なんかは、ずっと失敗ばかりの人生だ。
でもその失敗が、今、子育てで生きてくる。「ママも色々失敗してきたけど、ちゃんと生きているよ。だからあなた達も、いくら失敗しても大丈夫。」と言ってあげられる。なんなら、今までたくさん失敗してきて良かったな、とすら思えてしまう(笑)

そもそも自己肯定とは「自分の心の声を素直に聞いて、想いを叶えてあげること」だと思う。いいも悪いも、ポジティブもネガティブも両方ひっくるめ、丸ごと認めてあげればいい。

今までは子どもたちに対し、私も夫も過保護と過干渉の鬼だった(今もまだ完全には脱しきれてはいないけど…)。

過干渉な私は、例えば子供が「お腹が空いた」と言えば、すぐに「何か作ろうか?」と答えたりしていた。子供が発言する前に、先に察して動いてしまう。そして過保護な夫は、絶対に子供達に危ないことはさせず、周囲に危険がないか、常に見張っている状態。
ずっとそんな風な繰り返しで、子供達は自分で自分の気持ちを上手く出せない、ものすごく遠慮しぃな子になってしまった。

子供は自分の写し鏡。
なので、まずは私自身が、自分の望みを言葉に出来、そしてその望みをすぐに叶えられるようにトレーニングしなければ、と思った。

毎日の、ほんの些細なこと。水が飲みたいと思えばすぐに飲む。トイレに行きたければ、すぐに行く。食べたいものがあれば、買いに行く。小さな小さな積み重ね。すぐに叶えられない、少しめ大きな望みや、お金のかかるような事は「これが終わったら、必ずやるからね。」と自分自身に約束し、時間がかかっても必ず叶えてあげる。それが自分に優しくする、認めてあげる事に繋がるんだと思っている。

そして、「面倒くさい」が1番のくせもの。これが口癖になっていたら、心と体がかなりお疲れモードになっている事が多い。自分の面倒すら見れない状態で、他人の面倒を見るのは不可能だ。
特に完璧主義者ほど物事を1人で抱え込みがちになり、溜まりに溜まったあげく、突然爆発したりする(私の事です)。「出来ない事は出来ない」とキチンと声をあげ、時には周囲に助けを求めることも、とても大切なことだと思う。
そして失敗しても大丈夫。親が心からそう思っていないと、子供は絶対信じない。


そして、子供達に対しては。
子供が「お腹が空いたな〜」とつぶやく。こちらをちらっと見る。(察して系のちょっと面倒くさい彼女のよう。)でも、放置する。
もう1回「何か食べたいな〜」と言ってくる。もうしばらく放置。で、またこっちを見てくる。
そこで、言ってみる。
「それで?」

最初は、子供達は「?」な顔をしていた。
なので、「今自分はどうしたくて、ママにどうして欲しいの?」と聞いてみた。

「お腹が空いたから、ご飯作って欲しい。」

そう!それそれ。

自分の望みを、素直に伝える事。
この練習が、私の今までの子育てのせいで、我が子達には圧倒的に足りないもの。
なんでハッキリ言わないの?と聞いたら、「だってママいつも忙しそうだし…」。「面倒くさいし…。」

そうか…それは今まで、気を使わせちゃってて、ホントに済まなかったねぇ(涙)
そして出た。面倒くさい。でも「面倒くさい」は、自分の面倒を見ないと言っているのと同じ事。それはいつか、自分自身を殺すことになる。自分の面倒を見るには、元気が必要。まずは使い切ってしまった、「元気パワー」を貯めていかなくては。

親に守られている、子供の内は親に頼り切りでもいいかもしれないが、大人になったらそうはいかない。社会に放り出されてから急に、今まで人生イージーモードだったのに、急にハードモードになってしまう。生きづらくなるのが目に見えている。
それはそれで人生経験なのかもしれないが、出来れば失敗しても許される時代に、たくさん経験したほうが楽なはず。「若い時の苦労は買ってでもしろ」「失敗は成功のもと」先人はいつだって賢い。

社会ではたいてい、皆自分の事で精いっぱい。誰も察してなどくれはしない。自分の望みは声に出して言わないと、いつの間にかその願いは埋もれ、誰にも気づかれないまま消えてしまう。

だからいまこそ、子供達に練習させるのだ。

「欲しいものは、欲しいと言え!」

名付けて必殺、『魁!!男塾方式』(笑)。

望みを言っても、必ず願いが叶うとは限らない。でも、言わないと誰にもわからないし、気づかれない。言えば望みに少し近づくし、自然と望みを叶える行動に繋がっていく。

だからとりあえず、ボールを投げてみよう。最初は壁に当たるだけかもしれないし、誰も受け取ってくれないかも知れない。でも根気よく続けていれば、誰かがボールを受け取って、投げ返してくれるかも知れない。諦めたら、そこでゲームオーバーなのだ。

この世がいわゆる「神」的なものや、「大いなるもの」なんかの思い通りの世界ならば。自分の意志で決められることなど、本当はないのかも知れない。

それでも「自分で選び、決めたのだ」と腹をくくれば、誰も責める必要はなくなる。たとえ「宿命」は変えられなくても、それに至る道のりである「運命」はもしかしたら選べるのかも知れない。失敗を繰り返しながらも、この道はちゃんと明るい未来に繋がっている。そう思って、日々生きていくしかないのだ。

「わたしはやりたいことをやる。」
「何があっても大丈夫。」
「全てはうまくいっている。」

呪文のように唱えながら、
私は今日も失敗まみれで生きてく。













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