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心は見えないが、〇〇〇は見える

先日、
私が教員になって初めて担任をもったときの教え子たちが何人か集まるので
サプライズゲストとして参加してほしいと誘われました。

サプライズとしては荷が重いと思いつつも、
20数年ぶりの出会いを大切にしたいと思い、
参加させてもらうことにしました。

当然のことなんですが、
みんな大人になっていてそれぞれの人生を歩んでいると思うと、
とても感慨深く、
中学校当時の様々なエピソードを振り返りながら
楽しいひとときを得ることができました。

教師や学校の世界でしか生きていなかった私なんか
すぐ追い越されるのは当たり前ですが、
ささやかながらも出藍の誉れを感じられるこの瞬間が
教師冥利に尽きると改めて思いました。


気持ちがタイムスリップしたのか帰宅してからも、
いろいろ当時のことがよみがえり、
駆け出しで指導力のない未熟な私が担任で申し訳なかったな
と思うと同時に、
当時、そんな私を支えてくれたある言葉を思い出しました。

力不足に打ちひしがれながら職員室へ戻っているときに
ふと目にした1枚のポスターに書かれていた言葉です。

『心は見えないが、心遣いは見える』

もっと以前から張り出されていたのか知りませんが、
この言葉は当時の私の心にストンと落ちました。

『心は見えないが、心遣いは見える』

だから、ああしろ、こうしろという言葉が続いておらず、
説教じみたものではなかったので、自分にマッチしたのかもしれません。

私はこの言葉を

人の心遣いを見れば、その人の心の一端が理解できる

逆に、自分の思いや心を伝えたければ、
どう自分の心を遣って行動に示すかが大切である

と解釈しました。

そして、その日から、
生徒たちの見えない心を勝手に想像してヤキモキするのではなく、
もっと注意深く1人ひとりの言動を観察して、
目に見える、声に聞こえるその心遣いをキャッチしようと心がけました。

また、
自分自身は未熟であろうがなんであろうが、
がむしゃらに今できることを全力で行えば、
私の思いが伝わるはずであると信じることにしました。

どれも教師としてすべき当たり前の行動なんですが、
初めての担任という役割に対して、
周囲に認めてもらおうと背伸びしすぎ、
視野が狭くなっていたのかもしれません。

この素敵な言葉ともに、
3年間、担任として関われたことが教師としての財産となりました。

『心は見えないが、心遣いは見える』

この言葉は事象を伝えているだけなので
それをどう解釈して、どう生かすかは自由です。

そんな私の原動力となった言葉を思い出させてくれたことと、
教員を辞めても声をかけてくれる教え子たちの心遣いに
感謝する一日でした。

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