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我が儘

こんばんは。

朝早くから飛行機に乗っていたので、更新が遅くなりました。本年最後のnoteは日本からです。(写真は上海の世界一大きいスタバで撮ったものです)

今年も色々なことがありましたが、一言で表すなら「我が儘」な年でした。多くの「我が儘」をした一年であったと、振り返っています。

僕が「我が儘」に拘ったのはどうしてか。それは「誰か」に必要とされるのを望んだからと思っています。「我が儘」であるには「誰か」の存在が必要です。

僕らは子どもの頃、誰もが我が儘です。それは、親にとって子どもはかけがえのない必要な存在だから。このとき僕らの「誰か」は親になります。

それが少しずつ成長するにつれて「社会」へ所属するようになる。すると、親は子に対して「我が儘はやめなさい」と、叱りはじめます。それは僕らが「社会」でなるべく苦労せずに、生きていく術を身につけさせるためです。

「誰か」と「社会」は、似ているようで異なります。イメージで言うなら、顔が見えるかそうでないか。僕らは「社会」で生きていくために、親という「誰か」から一度切り離されるのです。

「社会」で生きるのは大変なようで実は簡単です。我が儘さえ我慢すれば、生きていくことはできる。それは僕らと「社会」はお互いに存在をボンヤリとしか捉えていないからです。

ですがその視界をハッキリさせようとすると、どうでしょうか。自分を必要としてくれる「誰か」をまた探して見つけるのです。もしくは目の前にいるのが「誰か」をハッキリさせるのです。

つまり「我が儘」というのは自らの存在を「誰か」に表明するということです。そして当然それには要る要らないの結果が伴う。互いにボンヤリとした存在では許されません。

今年はそれを痛感した年であったと思います。「我が儘」であることは悪ではなかった。むしろ自分はそこから逃げていたのだと気づきました。

そして来年はさらに「我が儘」でありたい。そのためには相応の努力が求められるでしょう。そのことに心を燃やしながら、本年最後のnoteにしたいと思います。

今日も読んでくださってありがとうございました。どうかよいお年をお過ごしください。

サポートありがとうございます。