もっとも大いなる愛へという懺悔室

月刊「根本宗子」 第18号『もっとも大いなる愛へ』初日を観た。自分のための覚書。※ネタバレを含みます。

喰らった。

相手への親愛とそれ故の気遣いと、エゴ故のネガティブな想像力でもつれ合う感情の機微が、懺悔の如く告白され続け、叫びながら祈っているような舞台だった。
対人関係において先回りし続ける感情と摩擦の全てを逃げ場なく全て語り尽くそうとする根本さんの豪腕に脱帽した。
何度やっても何度やり直してもどんなに集中しようとしても人は間違える。言葉は間違う。相手を傷つける。思いは通じない。相手を大事に思い、近づこうとするから起きる不協和音。そして己の自らへの認知不協和への気づき。
全員こじれて絡まり合って身動きがとれなくなっているのにそれを描く手付きがとてもクリアなのが新鮮だった。

根本さんのこれまでの作品で、舞台装置を脱してメタ的な視点を導入する手法は何度か観ていたけれど、今回も健在で、しかし以前よりずっと洗練されていた。

舞台装置を脱した「現実」と呼ばれる真っ黒な空間は真っ暗な自室だろうか。
物語の後半、その隔絶された場所で、「他者との自問自答」が始まる。

そこで行われる「自分にそんな風に思える?」という問いの重要さ。
この問いかけを受けた時、画面越しに私は舞台上の人物と同じように「違う。私の場合はそうは思えない。」
そう思ってしまった。

直前まで優しくしたい側に共感していたのに、その人に「あなたも相手に特別に思われているはず」と言葉を向けられると途端に「そんな風には思えない」と思ってしまったのだ。
「正しい言葉」を自分では受け止められないことに気がついた。

「優しいつもりの言葉」が、相手を否定する「正しい言葉」として伝わってしまう様子をさっきまであんなにもどかしく思って観ていたのに、自分に向けられた相手からの「優しいはずの言葉」は「正しい言葉」のように感じてしまう。

言葉をかける側とかけられる側の断絶を、演者を通し作中の短い時間で両方疑似体験した。
両方身に覚えがある、と気付かされた。

それにもかかわらず人は言葉をうまく使うことも受け入れることもできない。近づくこともできない。断絶の谷はそれほど深い。
超、Mariaでも感じた、キリスト教的正しい愛と、現実での実践の間にある断絶。

「現実」には許してくれる神父はいない。許すのは自分。1人で懺悔し、自らを許そうと試みる。

踊り子のrikoちゃんの存在にも別の階層の断絶を感じた。登場人物の言葉にならない心、と解釈するのが定石なのかもしれないが個人的にはそうは見えなかった。踊りの展開を観ると、彼女も苦しみを抱えた1つの孤であるように見えた。大森さんと根本さんの歌も作品に対して寄り添う部分がありつつも、やはり独白する別の階層の孤だった。3人によって外部からの心地よい新たな破綻がもたらされ、作品を小さくまとめることを許さず、それがとても良かった。

そのお陰か、先程まで演者として舞台上にいた伊藤万理華さんが観客として客席に現れた時違和感なく受け入れられた。
観客もまた葛藤を抱え劇場を出て舞台上で起きたようなことを日常で再演し生きていく演者なのだという暗示なのだろう。私は貴女で貴女は私。日常も舞台も演者も観客も地続きで生きていく孤として同列なのだ。

舞台と日常が地続きであるという思想は導入のトークと終演後のフィードバック作業を配信する姿勢にも表れている。
導入のトークは実際の舞台を観に行く時、友人と今日の舞台楽しみだね、と話しながら歩く道中の役割でフィードバックは、感想を言い合う時間の代替として作用しているように感じた。奇をてらった構成というより、根本さんの観劇体験への愛ゆえの構成なのではと思う。

また、今回は初日ということもあってか特有の緊張感があった。カメラワークにも少し戸惑いが見られた。だがこの演目においてはその戸惑いすら演出効果として働いていた。リアルな距離感への戸惑いと劇中の登場人物の心理的な距離感への戸惑いとがリンクしているように見えた。全ての稽古をリモートで行ったというのはその効果も狙ってのことだったのだろうか。だとしたら恐ろしい。そうではなかったとしてもこの特殊な状況が余すことなく演出装置として組み込まれているという事実には変わりがない。どちらにしろ、今しか作ることのできない必然性のある純度の高い作品だった。初日を観る意義があった。
この距離感と摩擦が公演を重ねていくにつれてどのように変化していくのかとても楽しみだ。

舞台美術、衣装も素晴らしかった。首元のリボンのシワの寄り方、ズボンの生地の張り具合、袖のシルエットがとても綺麗で、衣装と舞台の色彩が絵本のように淡く可愛く調和があり、良い意味で現実感がなく、作品に御伽話のような普遍性を与えていた。

このように物語の内容以上に、構造として丁寧に様々な階層が用意され、繋がれ、地続きであることが示され、断絶を諦めないことが強く表現されていると感じた。

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物語の終盤、愛の実践を前に立ちすくむ主人公が縋るように聖書にある「愛の賛歌」を口にする。その頭上から、教会の鐘の音のようにギターが鳴り響き、劇中歌「stolen worlD」が始まる。歌の終盤に大森さんと根本さんがささやく。

「生きている愛を、世界を見下すがいい」

例え世界を見下してでも、生きていることがすでに愛であるという、希望。
これはきっと結論ではない。
膨大な懺悔の果ての、鎮魂と延命を願う明日へ続く希望の祈りだ。

真っ暗な画面に文字が浮かび上がる。

”信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。”

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